はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

猫の額に、鳥

2009年05月17日 | はなし
 パウル・クレーの『猫と鳥』は1928年の作品。

 「猫の額ほどの…」という言葉がありますが、その猫の額に「鳥」。 どういうことなんですかねえ。


 クレーはスイスの首都ベルン近くで生まれました。画家活動の中心はドイツでしたが。ロシア出身のカンディンスキーらとともに活動していたようです。両親ともに音楽家で、それで彼も音楽にはとても詳しかったようです。
 クレーの絵は、いいですね。 怖いかんじの深みもあり、かわいらしさもあり、飽きさせません。



     『金色の魚』1925年  
 ただ魚を描いただけだというのに、これは、とても気になる画だ。




 スイスのベルンで思い出すのは、アインシュタインがこのベルンの町の特許局で働いていて(大学での就職口がなかったのだ)、そこで暇を見つけていくつかの論文を書いたのだが、それらがあの特殊相対性理論など、どれもが後に世の中の常識をひっくり返すようなものだったということだ。その発想があまりに突飛だったために、理解されるのに時間が必要とされた。 有名な特殊相対性理論だけでなく、ブラウン運動に関わるもの、それから、光量子仮説の論文、これらはいずれも革新的なものであった。だからそれらを発表した1905年はアインシュタインの(物理学界の?)「奇跡の年」と呼ばれることとなったのである。
 このときのアインシュタインはスイス国籍を取得していて、だから、スイス人だった。その後、ドイツへ戻る。
 アインシュタインは、1922年に日本へ行くその船(北野丸)の船上で、ノーベル物理学賞受賞の知らせを受けた。受賞理由は、相対性理論ではなく、光量子仮説についての論文が評価されてのものだった。
 同じ年にボーア(デンマーク)もノーベル物理学賞を受賞した。1920年代、ドイツの大学を中心舞台として、原子や電子についての論議が沸騰し、量子力学が発展していくこととなる。

 アメリカで、E・E・スミスが『宇宙のスカイラーク』を書いたのも、この時代のことである。
 


  クレーの天使の図は、なかなかけっこうな人気者だ。



クレーの愛猫「ビムボー」、と書いてある。



追記: 
  この記事を書き始めようとしていたまさにその時、日曜美術館『戦争と芸術 クレー 失われた絵』(再放送)をやっていたんですね。  見損ねた! 『ジャンク・スポーツ』観てましたワ~!
 へええ、パウル・クレーは亡くなる前年1939年に1254点もの絵を描いたんですか。スイスで。
 ( 同じ時、アメリカ・ニューヨークでは、未来のSF人気作家達、ヴォークト、ハインライン、アシモフがデビュー。  ナチス・ドイツはポーランドへ侵攻、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が幕を開ける。 アインシュタインはすでにアメリカへ亡命しており、プリンストンに住んでいた。 )

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