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はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

TPP絶対反対!

2011年10月25日 | はなし
 TPP参加は戦後最悪の政策である。


 こんなことをスラスラと進めている民主党はくたばれ!

 その危険性をまったく報じない新聞・テレビはなんなのか。知らないはずはないだろう!?
 わかっていてなぜ止めない!?


 怖い。 おまえらが怖い。
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ありがとう、なでしこ。 ありがとう、台湾。

2011年08月21日 | はなし
 アゲハの幼虫です。先月、撮りました。


 まったく、先月のサッカー女子W杯のなでしこ優勝は素晴らしかったですね! 単に優勝したという以上の輝ける「何か」をもらった気がします。
 「絶対に開くわけない」とおもいこんで放置していた重厚な扉を、目の前でゴゴゴとあの女子達が開けてみせて、観客は唖然とする… そんな感じ。

 僕はすっかり宮間選手のファンになり、岡山の美作の人たちが羨ましくてしかたがない。なんてかっこよくて面白くて味のある選手なのでしょう。表彰台であのへんな踊りをしていたのが宮間なんですね。もう、彼女から目が離せません。

  ( これ、とてもいい → 岡山湯郷belle関連のブログ 



 なでしこサッカーがきっかけで、僕は、これまではほとんど観ることをしなかったYouTubeの動画を観るようになりました。先月から。震災とか。お笑い番組とか。


 震災の日本への外国からの応援メッセージで『HONK FOR JAPAN』というのがあるんですが、これ、どこで誰が始めたものなんですかね。僕ははじめ「HONK」の意味がわからなかった。『HONK FOR JAPAN』、これは“日本の応援のために(車の)ホーンを鳴らして”ということなんですね。若い人の明るい行動はとても嬉しい。


 震災に関して世界のいろいろなところからの応援メッセージ動画もUPされていますが、中でも台湾と日本の間での交流がとても印象に残ります。
 聞けば台湾の日本への義捐金は、どこの国よりも多いのだという。人口は日本の5分の1なのに。台湾と日本とは「国交がない」というのに。
 日本が震災で大変だと聞いて、彼らは親兄弟のように心配してくれていたようです。ありがとう、台湾。 
 なぜこんなにも台湾の人たちが日本のことを思っているかというと、台湾の日本統治時代(約50年間)の日本軍の人々がとても優しかったから、というルーツがあるようなのです。


 こんなにも日本を心配してくれた台湾のことを、なぜメディアは(とくにテレビ局は)もっと報道してくれないのでしょう?



 21日(今日ですが)、お台場でフジテレビ抗議デモが行われるそうですね。僕は大変関心をもっています。



 テレビの報道は偏っている、いつも事実の一面だけしか見せようとしない、というのは10代の時から今までずっと思ってきたことです。「テレビとはそういうものだ」と僕は思ってきました。若いときにはそれにイライラしたりしましたが、いまではすっかり慣れ、「しかたがない、そういうものだ」というところからテレビと付き合っています。「テレビはいびつだ、でもそれは変わらない、どうにもならない」と。

 ところが、その‘いびつさ’も、ちょっと酷いところまで来てしまっているのかもしれません。
 フジテレビはテレビ局の中でも一番稼いでいるテレビ局の親分です。フジテレビの場合、K-POPが売れれば売れるほど自分の子会社が儲かる仕組みをまずつくっておいて、その後で番組内で宣伝する(ブームをつくる)ということのようです。テレビ局ですから宣伝費はタダです。バラエティ番組の中で芸人に「『少女時代』が好き!」なんてことを言わせたりします。 こんなことで社員の平均年収は1450万というのですから、そりゃどこからか反発きますよね。(僕の周囲には週6日きっちり働いて年収200万の人もたくさんいます。)
 もっと問題なのは、テレビが政治をひっかきまわして日本をだめにしても責任をとらないということです。日本は知らず知らず、相当に‘いびつ’になっているように思われます。

 それでも僕は(僕の世代はだいたいそうではないかと思うのですが)、わかってはいてもどうにもならんだろう、というような感じでこれまで生きていました。頭上をびっしり、右だとか左だとかのわけのわからない分厚い雲で覆われているような。 それでもまあ、「それほど不幸でもないしまあいいか」ということで。
 今でも、日本のこの状況(特にメディアと政治、公務員問題)を変えるのは「無理!」という気がします。そういう思いが染みついています。



 だけどもしかしたら、時代は“曲がり角”に来ているのかもしれません。
 これからの若い日本人はやってくれるのではないか。なでしこ達のように。

 なでしこのあの活躍を見た後では、こう思うこともあるのです。 彼女らがやってみせたように、日本人が日本人らしさを丁寧に丁寧に我慢強く積み重ねていけば、世界に愛される日本がつくれるのではないか、そんな夢を描いてもいい、と、そんなふうに。
 
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どうぶつパズルの日曜日

2011年06月13日 | はなし
今日は日曜日。
「どうぶつパズル」で一日を過ごすか。

(なんてね。冗談だい。 大人になってそんなことができるほどオレは天才じゃないさ。)




 う~ん、ちょっとちがう。




 巨大神あらわる。




 写すんじゃねえ!




 破壊。


 え? 今日は月曜日? うそでしょう…??
 じゃあ、日曜日、僕はなにをして過ごしていたのでしょう?
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安曇野の水

2011年06月10日 | はなし
 「安曇野のやさし水」というものを、スーパーで見かけたので1本買ってきました。



 どうも自分の周囲にはいまだに「安曇野」が現れます。

 この数か月の間にも、安曇野にかかわる小説を2冊読みました。
 1冊はミステリーで、犯人はヒグマ。その事件の舞台が安曇野。
 もう1冊は、恋愛小説ですが、これは舞台は東京ですが、主人公(男のほう)の出身地が安曇野の梓川にある孤児院という設定でした。(どちらも、本のタイトルと作者名をいま、思い出せません。)
 安曇野は、長野県松本盆地にあります。わさび田が有名です。


 これだけ「安曇野」にひっかかるということはなにか、僕の「無意識」がそれに関わっているのでしょうかね。それが何か、まったく自分ではわからないのですけど。
 こうなりゃ一度は安曇野に行かにゃ、とは思うけど、猫もいるしなかなかねえ。


 『安曇野
 『おわりとはじまり
 『新宿中村屋のクリームパン
 『恋と革命の味
 『ちひろの草穂
 『梨の月
 『木下尚江
 『女系家族
 『碌山美術館
 『梓川
 『共産党宣言!

   ↑
  「安曇野」にかかわるこのブログ内の僕の記事です。



これは『アタゴオル物語』  安曇野とは関係なし。
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あたご駅

2011年06月04日 | はなし
東武野田線。南から北へ「うんが駅」の次の次が「のだし駅」で、その次の駅が「あたご駅」。



 

 愛宕駅。ちいさな駅だった。
 「愛宕(あたご)」という地名は全国いろんなところにあるが、千葉県野田市のこの「愛宕」が「アタゴオル」なのだという。
 2月、立ち寄ってみたら、特に特徴もない街だった。「愛宕山」もここにはない。 (有名な「愛宕山」と「愛宕神社」は東京港区と、それから京都にある。)
 「アタゴオル」で町おこし、というムードも駅前を見る限りではまるでなし。



 

 『アタゴオル物語』。
 押入れから引っ張り出して最近読んでいる。
 “ヒデヨシ”という酢だこと酒の大好きなメタボ猫の登場するファンタジーである。

 作者のますむらひろしが、猫が好きで、宮沢賢治が好きで、愛宕に住んでいたので『アタゴオル』を思いついた。たぶん酒も酢だこも好きなのだろう。才能さえあればミュージシャンになりたかったと昔大友克洋との対談でしゃべっていた。
 この人がアニメ映画『銀河鉄道の夜』のキャラクターを猫で描いたので、なんだか宮沢賢治と猫とをむすびつけてイメージする人も多いようだが、「賢治は猫が好きではなかったようだ」と河合隼雄は著書『猫だましい』の中で述べている。たしかに、宮沢賢治の童話の猫は(イエネコではなくヤマネコだが)だいたいいやな感じの役ででてくる。たとえば『注文の多い料理店』で人間を食べようとするのが「猫」である。



 実際に猫を飼って観察してみると、「たたかい」に関してもずいぶんやり方が陰気である。生まれつき「不意打ち」が得意のようだ。僕も背後からよくやられる。
 たまらなくかわいいが。
 本によれば、猫のけんかは際限がなく、犬や猿など社会性の強い動物は相手が「まいりました」と恭順の姿勢を示せば「よし、ゆるしてやる」となるが、猫の場合はその機能がなくとことん攻撃してとまらないんだと。






 猫マンガといえば、大島弓子の『グーグーだって猫である』の最新刊も買って読んだ。おもしろかったけれども、大島さん、出版社の人、この絵この厚さ(薄さ)この内容で¥1500というこの価格設定はどう考えてもおかしいよ。 次回は古本で買うことにしよう、と思っています。
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うんが駅

2011年03月30日 | はなし
 うんが駅。
 「運河駅」という駅が、東武野田線にあります。
 ちょっと用事で通りかかったので、降りて写真を撮ってみました。先月のことです。

  


 千葉県のいちばん内陸にあたる場所が野田市になっていています。数年前に『関宿と東宝珠花』という記事を書きましたから、それを参考にしてもらうとわかりやすいかと思いますが、そこは「利根川」と「江戸川」に挟まれた地域になっています。



 江戸時代、物資の輸送は「船」でした。
 東北や茨城などから送られる食料などは、銚子から利根川をさかのぼって「関宿(せきやど)」まで行き、そこで江戸川へ入り、江戸まで送られていました。
 地図を見てもらえばわかるはず。これはかなり遠回りです。
 そこである人が思いました。ショートカットできる「運河」をつくろう! 明治時代の話です。「利根運河」と呼ばれています。

 どうやらできたのは1890年(明治23年)のようですが、この運河は苦労してつくった割に、有効活用できなかったようです。たびたび洪水に見舞われ、そのうちに時代は「船」から「鉄道」に変わり、無用となったのです。



 もともと「利根川」は東京湾にそそいでいました。 つまり「江戸川」や「荒川」と並んで流れていたということです。(昔はこのあたりはやたらと洪水がありましたから、川筋もしょっちゅう変わっていました。)
 東京湾にそそいでいた利根川を、べつの川につなげて関東の東(銚子)に利根川を流れていくようにして、今のように改造したのが、江戸幕府。 東京湾の洪水を守るために(特に行徳の塩田が大事だったようで)そうしたのです。



 明治時代もやはり洪水が多くて困っていましたから、それで晩年の田中正造は、これらの河川の「治水をどうするか」ということを、考えていたようです。渡良瀬川の鉱毒事件を含んだ、大きな問題として。
 晩年の田中正造はキリシタンでしたから、どうやら、やがて(近いうちに)“救世主”が出現するだろう、だから自分は“彼”がこの世にあらわれたときの「準備」のために自分の残された時間をささげるのだ、というような気持ちでいたのではないか、そんなことを以前、調べながら僕は思いました。
 キリスト教では、この自然は「神」というものがつくったとしています。
 渡良瀬川の鉱毒事件も、人間が生み出した悲劇です。それまでの渡良瀬川はほんとうに豊かな川だったようです。
 洪水のことを考えるうち、田中正造は、利根川の川筋を「人工的に」捻じ曲げてしまったことにそもそもの問題があると思っていたのではないかと思います。それはこういうことではないでしょうか。利根川も渡良瀬川も、「神」が用意してくれた恵みの川である、それを強引に人間が欲をかいていじってはいけないんだ。
 
 政治家を辞めた時(1900年頃)の田中正造の顔は悲壮でした。世の中に絶望していました。(→『砕け散った政治家』(1)(2)
 しかし、その後の、70歳を過ぎ白髪に白髭、蓑姿の彼は、寒風の中人のために歩き回ることがうれしくてたまらない、というような感想を日記に記しています。聖者の顔をしています。
 きっと、「大丈夫世の中はよくなる。」という確信が心の奥になにかあったのだと思われます。




 これは列車内から、「のだし駅」。  野田市駅。
 なんかへん…。 
 「し」はいらないんじゃない?
 
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わっ!!!  地震だ!!!

2011年03月11日 | はなし
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多磨霊園の人々(6)

2011年02月14日 | はなし
 岡本かの子の墓。 岡本太郎作。


 かの子が死んだとき、太郎はパリにいた。芸術家としての栄養を充填していた時期である。7年前に、パリの北停車場での別れが母子の最後の別れとなった。 父一平からの電報で太郎はそれを知った。
 1939年2月のこと。
 
 かの子の遺体を埋葬したのは岡本一平と新田亀三。
 二人はありったけのバラの花を買い集めた。 二人で穴を掘り、バラの花を敷き、その上にかの子の棺、そしてまたバラの花を入れた。 日本ではめずらしい土葬である。生前に彼女が、火葬をひどくいやがっていたことを二人はおぼえていたので、多磨霊園には例がないのを無理矢理頼んでそうした。






 新田亀三はかの子の恋人で、青山の岡本一平の家に一緒に住んでいた。

 新田亀三は医師で、岡本かの子の主治医であったが、ある日、かの子は夫の一平にあの医師のことが好きでたまらない、と訴えて泣いた。それでとうとう一平はかの子に、「それなら家に連れて来れば」と言った。
 新田は、はじめは断っていた岡本家の熱心な招待についに応じ、やがて怪物かの子の愛にからめとられてしまう。新田は岡本家に出入りするようになるが、それをゆゆしき事態とみた病院は、新田を北海道札幌へと転任させた。
 それでも一平かの子夫婦の異常さは、止まらなかった。
 熱烈なラブレターを書くだけではかの子が満足できなくなると、彼ら夫婦は息子太郎も連れて東北行の汽車に乗り、青森まで行くと、一平と太郎はそこで待ち、青函連絡船で海を渡って新田に会いに行くかの子を「必ず帰ってくるんだよ」と言って送り出した。
 そんな異常に、新田亀三はとうとう我慢ができなくなった。 岡本一平に頭を下げ、こう言った。
 「奥さんをぼくに下さい。正式に結婚したい。」と。
 これを聞いた一平は、さらに深く新田に頭を下げ、懇願した。
 「かの子をぼくから奪わないでくれ。ぼくらはもういわゆる夫婦の生活はしていないけど、ぼくにとってかの子は生活の支柱だ。いのちだ。」


 その後新田は東京へ戻り、岡本家に暮らすようになる。この岡本家の家計・食事等を切り回していたのが、垣松安夫である。女一人におっさん三人、プラス太郎という岡本家である。

 そんな新田亀三の様子をうわさに聞いて猛烈にに腹を立てたのが、その父母である。そこで新田の母は岡本家に乗り込んだ。ところが――――。
 新田の母は、かの子に会った途端、すっかり彼女のことが気に入ってしまったのである。かの子は、どんな魔術をもっていたのだろう。





 岡本一平、かの子、新田亀三、垣松安夫、の4人は、一緒に生活をしながら、そのうち皆でヨーロッパに行きたいねえ、などと話していた。
 それが実現したのが、1929年。 『岡本一平全集』が刊行され、それが売れてお金が入ったのである。「全部使っちまえ」と一平は思っていた。


 岡本一平は、もともと“小説家になりたい”と思っていた男である。
 絵画の勉強をしたのは、親がそうせよと言ったからだった。そうして美術学校を卒業したが、芸術家としての限界を知っていた。だから依頼されるまま漫画をかいた。そうしたらそれがウケて漫画家になった。
 夏目漱石にも褒められた。しかし漱石が褒めたのも、その画ではなく、文章であった。
 しかし一流の小説家になるには、自分には何かが決定的に足らない、と思っていたのではないか。 その「決定的に足らない何か」を、余るほどに持っている女がここにいる―――。 岡本一平はそのように考えていたのではないか。

 

 2年間、彼らはヨーロッパに滞在した。初めは参加しない予定だった太郎も連れていくことになり、そして太郎はそのままずっと留学を続けることになった。

 その2年間の滞在の間に、一平はかの子に、「日本に帰ったら小説を書くわ」と言わせることに成功した。
 一平には、小説への意欲も、アイデアも、知識もたっぷりと用意できていた。 しかし心の中の、「どろどろした何か」を掬い取るのが芸術だとしたら、それが一平にはなかった。
 かの子がそれを持っていた。


 『金魚撩乱』『東海道五十三次』『老妓抄』などの作品を残し、かの子は50歳でこの世を去った。書きかけで止まった原稿の続きは、一平が書き足して完成させた。

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多磨霊園の人々(5)

2011年02月03日 | はなし
 岡本一平の墓。


 岡本一平は、1922年夏に世界一周旅行を終えて日本に帰国した。

 その頃から、世間では、アインシュタインの名が新聞紙上をにぎわし始めていた。ドイツ・ベルリンからアインシュタイン博士を招く予定の改造社が、その宣伝をはじめたのである。
 ほとんどの国民はアインシュタインなど知らなかった。
 新聞によると、その博士は「相対性理論」というもので有名な博士らしい…。

 わからないながらも世間は、「相対性理論」に、ちょっとばかり興奮した。なぜなら、その言葉がとってもエロかったからである。
 「相対」という言葉はもとから日本にはあって、これは「アイタイ」と読むのだが、その意味は「男と女が二人きりで抱き合う」というような意味なのだ。「相」は「相合傘」の「相」だし、「対」は「2つで1つ」の意味がある。
 さらにその上に、「性」の字がくっついて「相・対・性」!
 「相対性理論」---うお~っどんだけいやらしい理論なんだ!! 

 その「相対性」の(エロい?)有名な博士が日本の地を踏んだのは1922年11月17日。その7日前、船上で博士はノーベル受賞を知らす電報を受け取っている。11日には同時にノーベル賞受賞が決まったニールス・ボーアからの祝電も届いた。 東京駅では大群衆に迎えられ、19日には慶応大で講義。 この講義は2千人の聴衆を集めた。 さらに25日からは東大での集中講義がはじまった。東京での博士の講義の通訳は石原純が務めた。
 東京でのアインシュタインの歓迎ぶりは、お祭りのようだった。その様子が新聞で伝えられ、アインシュタインはたちまち人気者となった。


 「アインシュタイン?」
 岡本一平という男は、“一流の人”というのに会うのが趣味のようなところがあった。新聞紙上をにぎわしているこの「相対性理論を編み出したすごい博士」に会ってみたいと思った彼は、「会わせてくれ」と頼んだ。 「では仙台に行ってくれ」、ということになり、岡本一平はアインシュタイン博士のあとを追い、仙台へ。
 12月3日、東北仙台講演。この日から岡本一平はしばらくアインシュタインの講演旅行に同行することになる。
 だがこのア博士の東北仙台講演は、なぜか期待ほどには客が入らず空席も見られた。


 東北大学の物理学者といえば、本多光太郎がいた。大正時代、この時点において世界最強の磁石、「KS鋼」の発明者である。そういうわけで本多光太郎の名前は専門家の間では世界的に知られていた。
 石原純も数年前まではここ東北大学の教授であったが、以前に書いた通り、歌人原阿佐緒との不倫が世間を騒がせ、辞めることとなった。そういうこともあって、石原はこの仙台講演には同行しなかった。
 当時の東北大学の総長は小川正孝。化学が専門である。 彼は、アルゴンやネオンなど「新元素」を次々と発見したイギリスのラムゼーの下で学び、その影響で「新元素」の発見を生涯追求した。 1909年、ついにそれ(43番元素)を発見したと発表し、「ニッポニウム」と名付けたが、世界的に認められることにはならなかった。43番元素は現在「テクネチウム(Tc)」という名前が付いているが、1937年にアメリカ・カルフォルニアの実験室で人工的に作られて認められた。これは現在の地球上にはほとんど存在していないらしい。

 話がどんどんそれるが、この東北(帝国)大学の設立と、古川財閥の足尾鉱毒事件とはかかわりがある。東北大学の設立計画は一時期、資金難のために頓挫しかけていたが、足尾銅山鉱毒事件で世間を騒がせ、しかしその後日露戦争で大いに儲けた古河財閥に、鉱毒事件の悪いイメージを払拭するために資金を出せと要求して実現したのである。


 ところで、大正時代の東北といえば、あの男、宮沢賢治はこのとき何をしていたのだろう? なぜアインシュタイン博士のこの講演にこなかったのだろう? 知らなかったはずはないし、お金もあったはずである。物理学にまでは興味はなかったのだろうか。
 この年の1年前から、賢治は花巻農業高校の教師であった。(その前には1年間東京で暮らしていた。) 生徒たちと岩手山に上り、また夏には“イギリス海岸”と名付けた川原で泳ぎ、地質調査をした。
 そして、1922年は、宮沢賢治の詩の才能が爆発した年なのである。賢治は首からぶら下げたシャープペンシルであふれる詩想をメモ帳に書き留めた。


 けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
(あめゆじゅとてちてけんじゃ)


 賢治の『永訣の朝』の詩で有名な“妹のトシ”が逝ってしまうのがこの年の晩秋。1922年の11月27日のことだった。 「わたくしといふ現象は…」で始まる詩集『春と修羅』の序文を書いたのは、その1年2か月後になる。
 宮沢賢治は新聞紙上をにぎわす“アインシュタイン博士”について何を思っていただろう。(この日のアインシュタインは東大で講義をしていた。)
 『銀河鉄道の夜』のアイデアが彼の中にふくらんでいくのは、この2年後のことだ。




   転倒の相対性原理
 雪の山中は寂莫、山の頂は白く、裾は澱んだ薄墨色に隈が取ってある。吹雪の混る楢の落葉のみ触れ合ってかさこそと音を立てて居る。凍った道に博士は滑り転ぶ。外人の転びようは不器用だ。助け起こして稲垣氏言う。「相対性原理で申すと先生が転んだのじゃないですね。地球が傾いたのですね。博士「俺れもそう思うが、感じでは同じだ」

          (岡本一平『アインシュタイン博士の人間味』)


 まあつまり、このとき(1922・12・3)、アインシュタインと岡本一平と宮沢賢治、この三人は東北の地で最接近していたということを、僕はどこかに書いておきたかったのだ。 性格的にはこの三人、共通点はあまりなさそうだけれども。


 
 岡本一平とかの子の墓。もちろん岡本太郎の制作によるもの。
 太郎は父一平のことを“ニヒリスト”と評している。また、「お父さんは絵が上手くないよね」と、若いときに言っていたようだ。僕もそう思う。上手くないし、パンチがない。それでも、たしかに、「日本一有名な売れっ子漫画家」であった。 “ニヒリスト”の部分がウケていたのかもしれない。
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多摩霊園の人々(4)

2011年01月06日 | はなし
 鈴木梅太郎の墓。
 それ、だれ? という方のために説明しておくと、明治生まれの研究者で、「ビタミンB1」の発見者である。その発表は1910年のこと。当時はそれを「オリザニン」と名付けていた。




 梅原龍三郎の墓。
 それ、誰? という方のために説明しておくと、画家(1888-1986)である。 升田幸三(将棋のスーパースター)とおともだちでもあったようだ。




 ふたつ並べた後に気づいたけれども、偶然、「梅」繋がりでしたね。
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多摩霊園の人々(3)

2010年12月28日 | はなし
 江戸川乱歩の墓。
 
 江戸川乱歩はエドガー・アラン・ポーからとったペンネーム。本名・平井太郎。
 小学生のときにポプラ社の、あのシリーズは読みまくりました。『電人M』とか。『影男』とか。
 しかしあれらは“ヘンタイ小説”だよな。そういうものが学校の図書館にフツウにあるという面白い事実…。子どもは危険なヘンタイおじさんが実は大好きなのだ。
 あ、乱歩の小説、読みたくなった。





 北原白秋の墓。
 これは自己主張の強い墓ですね。

 う~ん“北原白秋”って誰だっけ? 詩人だってことは勿論わかっているけど、なんの詩の作者? 『鉄腕アトム』の主題歌の作詞?(いやいやそれは谷川俊太郎) 『小さい秋』?(いやそれはサトウハチロー) 立原正秋なんて小説家もいるから紛らわしい。
 さて、調べてみました。

 “ 雨がふります。雨がふる。
  遊びにゆきたし、傘はなし、
  紅緒の木靴(かっこ)も緒が切れた ”

 ははあ、この歌のもとの詞ですか。『雨』というタイトルです。
 この詩が初めに発表されたのは雑誌『赤い鳥』大正7年9月号とのこと。

 この『赤い鳥』は鈴木三重吉が興した有名な子供向け雑誌。たとえば新美南吉の『ごん狐』はここに発表された。『泣いた赤鬼』(浜田廣介)も有名。 
 その創刊号には芥川龍之介『蜘蛛の糸』が掲載されている。鈴木三重吉も芥川龍之介も、夏目漱石の弟子。 夏目家が引っ越しをするときに、夏目鏡子に頼まれて、あの「猫」をつかまえていたのが三重吉である。漱石の「猫」は千駄木の家を気に入っており、引っ越しを嫌がっていたのである。
 また、宮沢賢治が自費出版本『注文の多い料理店』の広告を載せたのも『赤い鳥』。(ただしさっぱり売れなかった。)




 この「多磨霊園」には、ほかにも多くの有名作家が眠っています。
 菊池寛、田山花袋、向田邦子、野村胡堂、中島敦、有島武郎、石坂洋次郎…、ほら、聞いたことあるでしょう? それから三島由紀夫の墓も。三島由紀夫の墓は探したけれども、見つかりませんでした。 あと、歌人与謝野鉄幹・与謝野晶子の墓もあるようです。 
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雪、重ね塗り

2010年12月26日 | はなし
雪、増量中。

さて、明日は?
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多磨霊園の人々(2)

2010年12月22日 | はなし
 吉川英治の墓。
 なかなかシャレたいい感じの墓です。
 『三国志』、楽しませてもらいました。
 あれは20代でしたか。 「赤兎馬」っていう馬のエピソードが好きでした。




 大岡正平の墓。
 僕は高校時代、ほとんど読書はしなかったのですが、宿題の読書感想文を書かなければならないときに、選んだのが大岡正平の『野火』。 なぜそれを選んだか記憶にないし、面白かったということもないのだけれど、書店で買ったその文庫本のブックカバーのデザインが大変に気に入っていました。あとでその絵は、エッシャー(オランダの画家)だったんだと知りました。 (この鳥の絵です。)
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多磨霊園の人々(1)

2010年12月19日 | はなし
 日露戦争日本海海戦の英雄、東郷平八郎の墓。
 世界を仰天させた伝説の「東郷ターン」で、ロシア・バルチック艦隊を撃破!!


 先週、多磨霊園(東京都府中市)に行ってみた。 大きな霊園で、だから有名人も多く眠っている。




 児玉源太郎の墓。
 同じく日露戦争で、旅順(二〇三高地)攻略の参謀として活躍した。


 上のこの二人は司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の重要な登場人物でもある。
 このブログ、全然記事を書いていないというのに先週から少しアクセス数が多い。これはどうやら、「正岡子規」の画像で検索した人がやってきたらしい。さすがTVのちからはすごい。(死んだんですか、TVの正岡子規?)
 僕のその画像の記事は、子規のことよりも、石原純と原阿佐緒について書いたものなのだけど。余談だが(司馬小説でおなじみのフレーズ)、物理学者・石原純は、量子力学の「quantum」(ドイツ語)を「量子」と訳した最初の人である。 そしてどうやら「素粒子」(elementary particle)も、石原の訳らしいのだ。


 『坂の上の雲』の人物ということで、高橋是清(日露戦争の戦費を調達した)も、僕の手持ちの資料では多磨霊園にその墓があるとなっているのだが、探してみたが見つからなかった。




 山本五十六の墓。 第2次世界大戦中、南海に散った。





 新渡戸稲造の銅像。5千円札の人。 にとべいなぞう、と読む。
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日比谷のゴジラ

2010年11月11日 | はなし
 霞が関に用事があって(じつは僕のシゴトは刑事なので…ごめんなさい嘘です!)、でも1時間も早かったのでコーヒーを飲もうと日比谷公園を歩いて有楽町方面へ。すると僕の目の前に…、「ゴジラ」氏が現れました!!



 以前このあたりに来た時(数年前ですが)には捜しても見つからなかった「ゴジラ像」ですが、突然の邂逅です。 (どうも僕には“努力をやめるとある日偶然思いが叶うの法則”がつきまとっているように思います。)


 


 『このゴジラが最後の一匹だとは思えない』、とあります。



 ゴジラは「南海」で生まれました。

 「南海」とはどこでしょう?
 水爆実験が行われたビキニ環礁でしょうか。ビキニ環礁は「マーシャル諸島」に属しています。「マーシャル諸島」はかつて日本の植民地でした。第2次世界大戦時のことではなく、それよりも前、第1次世界大戦時(1914年~)からのことで、しかも列強国はそれを承認していたんですね。もともとはドイツの植民地でそれをヨーロッパの戦争に乗じて日本が奪ったカタチです。

 ‘水爆’は水素と水素の核融合による反応で、太陽が燃えているのはこの原理によります。
 3、40年ほど前のSF小説などには、この「核融合エンジン」を動力とした宇宙船が未来のエンジンとしてよく出てきます。科学者はいまもこの「核融合」を未来のエネルギー元として研究していますが、まだ実用化できていません。
 ‘水爆’は60年も前に実現したというのに。
 つまり核融合で、「いっぺんにエネルギーを解放する」ことはできても、それを連続的に、コントロールしつつ取り出すことができていないようです。 それでも、科学者達は、‘水爆’が出来た時点であと30年もあれば実現するだろう、という感覚でいたのではないでしょうか。 1930年代には絶対不可能と考えられていた原子爆弾(核分裂爆弾)、水素爆弾が短期間に(わずか十数年で!)実現してしまったものですから。
 しかも‘水爆’は、(理論的にはですが)いくらでも巨大な威力を持つ爆弾となります。「核分裂」による原子爆弾の場合は、“臨界量”というものがあって、ある一定の大きさ以上の威力の爆弾はつくれません。しかし‘水爆’はそれをどんどん超えることができるのです。
 「核融合」は核分裂のように放射性廃棄物を生みません。とはいっても、‘水爆’はご存知の通り「被爆者」をつくります。 どういうことかというと、「核融合」反応を行うためには巨大な熱量を必要とします。(太陽並みの温度の。) それで‘水爆’はその「巨大な熱量」を核分裂、つまり原子爆弾によってつくり出すのです。原爆を爆発させた上でその熱をつかって核融合を行う――ということです。



 はじめ“スーパー”と呼ばれていたその超大型爆弾にずっと執念を燃やして関わっていたのが、ハンガリー生まれの物理学者エドワード・テラーである。ポーランド生まれの数学者スタニワフ・ウラムとともに‘水爆’の実現のために創案したアイデアは「テラーウラム配置」と呼ばれている。
 20世紀前半、なぜかハンガリーとポーランドでは同時期に数多くの物理学者・数学者の天才がそろって生まれ出ている。(たとえばフォン・ノイマンもその一人である。) それについて、なぜだろう…という話になったときある物理学者(フスターマンス)はこう言ったという。「彼らは、火星人なんだよ。」


 1952年、水爆実験後の廃棄物の中から今までに確認されたことのない「超ウラン元素」(ウランの原子番号は92だが、それよりも大きな原子番号をもつ元素をこう呼ぶ)が2種類見つかった。 そのうち、99番元素には「アインスタイニウム」、100番元素には「フェルミウム」と名前が付けられた。
 こうした「超ウラン元素」は、宇宙の星々の“超新星爆発”によって生まれているが、寿命がとても短いので、今の地球上には存在していないものである。




 『鉄腕アトム』は1951年に生まれました。アトムは原子力を動力とします。
 この頃、日本でも「原子力の平和利用」ということがうたわれ、積極的に導入しようという空気があったようです。その空気を読んで、アトムが誕生したんですね。
 “放射能”についての認識が、大衆にはまだあまりなかったようですね。 漫画『夕凪の街 桜の国』にもあるように、原爆による被爆者の人々はひっそりと黙って暮らしていたのです。(これじゃあいかん、原爆のことをしゃべろうじゃないか、と神奈川で大作『原爆の図』を描き始めたのが丸木位里・赤松俊子夫妻。1950年)

 ところが1954年3月アメリカのビキニ環礁おける水爆実験による「第五福竜丸被爆事件」で風向きが変化します。 被爆? なんだ? 世間が“放射能”のむごさを認識しはじめたのです。同時にどんどん巨大化していく科学兵器に恐怖と不安をもちはじめます。
 
 そうして映画『ゴジラ』が誕生したのです。1954年11月。
 この『ゴジラ』は暗い映画です。おそろしく暗い。


 モスラもまた「南海」で生まれました。
 「南海」のやはり放射能に汚染された島です。(「インファント島」でしたね。) いずれにせよ「南海」は日本人にとって、なにか心の奥底と繋がりがあるようにも思えてきます。
 しかし映画『モスラ』(1961年)では登場する人々がコミカルです。 日本人がどうしようもない暗さから脱皮した姿がモスラとなって現れたのかもしれません。




 日比谷シャンテ前のこの「ゴジラ像」の側にはファーストキッチンがあり、この店がなかなか感じがよかったのですが、その店の中から見えるゴジラ像を一枚。

 ゴジラはこの先、東京スカイツリーと相まみえることになるのでしょうか?
 しかしリアルに考えるならば、ゴジラ体長50メートル、スカイツリーはその10倍以上あって、むしろゴジラはちっぽけな存在になってしまいます。
 ゴジラの息子がスカイツリーに昇って降りれなくなって哭いている、親ゴジラはオロオロ…、それはかわいそうだ、さあ救出作戦だ、そしてたすかってああよかったね、というようなほのぼのストーリーはどうでしょう? 「南海」に帰ったゴジラから後でお礼の絵葉書が関係者に届く、というオチで。
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