うんが駅。
「運河駅」という駅が、東武野田線にあります。
ちょっと用事で通りかかったので、降りて写真を撮ってみました。先月のことです。
千葉県のいちばん内陸にあたる場所が野田市になっていています。数年前に『関宿と東宝珠花』という記事を書きましたから、それを参考にしてもらうとわかりやすいかと思いますが、そこは「利根川」と「江戸川」に挟まれた地域になっています。
江戸時代、物資の輸送は「船」でした。
東北や茨城などから送られる食料などは、銚子から利根川をさかのぼって「関宿(せきやど)」まで行き、そこで江戸川へ入り、江戸まで送られていました。
地図を見てもらえばわかるはず。これはかなり遠回りです。
そこである人が思いました。ショートカットできる「運河」をつくろう! 明治時代の話です。「利根運河」と呼ばれています。
どうやらできたのは1890年(明治23年)のようですが、この運河は苦労してつくった割に、有効活用できなかったようです。たびたび洪水に見舞われ、そのうちに時代は「船」から「鉄道」に変わり、無用となったのです。
もともと「利根川」は東京湾にそそいでいました。 つまり「江戸川」や「荒川」と並んで流れていたということです。(昔はこのあたりはやたらと洪水がありましたから、川筋もしょっちゅう変わっていました。)
東京湾にそそいでいた利根川を、べつの川につなげて関東の東(銚子)に利根川を流れていくようにして、今のように改造したのが、江戸幕府。 東京湾の洪水を守るために(特に行徳の塩田が大事だったようで)そうしたのです。
明治時代もやはり洪水が多くて困っていましたから、それで晩年の田中正造は、これらの河川の「治水をどうするか」ということを、考えていたようです。渡良瀬川の鉱毒事件を含んだ、大きな問題として。
晩年の田中正造はキリシタンでしたから、どうやら、やがて(近いうちに)“救世主”が出現するだろう、だから自分は“彼”がこの世にあらわれたときの「準備」のために自分の残された時間をささげるのだ、というような気持ちでいたのではないか、そんなことを以前、調べながら僕は思いました。
キリスト教では、この自然は「神」というものがつくったとしています。
渡良瀬川の鉱毒事件も、人間が生み出した悲劇です。それまでの渡良瀬川はほんとうに豊かな川だったようです。
洪水のことを考えるうち、田中正造は、利根川の川筋を「人工的に」捻じ曲げてしまったことにそもそもの問題があると思っていたのではないかと思います。それはこういうことではないでしょうか。利根川も渡良瀬川も、「神」が用意してくれた恵みの川である、それを強引に人間が欲をかいていじってはいけないんだ。
政治家を辞めた時(1900年頃)の田中正造の顔は悲壮でした。世の中に絶望していました。(→『砕け散った政治家』(1)、(2))
しかし、その後の、70歳を過ぎ白髪に白髭、蓑姿の彼は、寒風の中人のために歩き回ることがうれしくてたまらない、というような感想を日記に記しています。聖者の顔をしています。
きっと、「大丈夫世の中はよくなる。」という確信が心の奥になにかあったのだと思われます。
これは列車内から、「のだし駅」。 野田市駅。
なんかへん…。
「し」はいらないんじゃない?
「運河駅」という駅が、東武野田線にあります。
ちょっと用事で通りかかったので、降りて写真を撮ってみました。先月のことです。
千葉県のいちばん内陸にあたる場所が野田市になっていています。数年前に『関宿と東宝珠花』という記事を書きましたから、それを参考にしてもらうとわかりやすいかと思いますが、そこは「利根川」と「江戸川」に挟まれた地域になっています。
江戸時代、物資の輸送は「船」でした。
東北や茨城などから送られる食料などは、銚子から利根川をさかのぼって「関宿(せきやど)」まで行き、そこで江戸川へ入り、江戸まで送られていました。
地図を見てもらえばわかるはず。これはかなり遠回りです。
そこである人が思いました。ショートカットできる「運河」をつくろう! 明治時代の話です。「利根運河」と呼ばれています。
どうやらできたのは1890年(明治23年)のようですが、この運河は苦労してつくった割に、有効活用できなかったようです。たびたび洪水に見舞われ、そのうちに時代は「船」から「鉄道」に変わり、無用となったのです。
もともと「利根川」は東京湾にそそいでいました。 つまり「江戸川」や「荒川」と並んで流れていたということです。(昔はこのあたりはやたらと洪水がありましたから、川筋もしょっちゅう変わっていました。)
東京湾にそそいでいた利根川を、べつの川につなげて関東の東(銚子)に利根川を流れていくようにして、今のように改造したのが、江戸幕府。 東京湾の洪水を守るために(特に行徳の塩田が大事だったようで)そうしたのです。
明治時代もやはり洪水が多くて困っていましたから、それで晩年の田中正造は、これらの河川の「治水をどうするか」ということを、考えていたようです。渡良瀬川の鉱毒事件を含んだ、大きな問題として。
晩年の田中正造はキリシタンでしたから、どうやら、やがて(近いうちに)“救世主”が出現するだろう、だから自分は“彼”がこの世にあらわれたときの「準備」のために自分の残された時間をささげるのだ、というような気持ちでいたのではないか、そんなことを以前、調べながら僕は思いました。
キリスト教では、この自然は「神」というものがつくったとしています。
渡良瀬川の鉱毒事件も、人間が生み出した悲劇です。それまでの渡良瀬川はほんとうに豊かな川だったようです。
洪水のことを考えるうち、田中正造は、利根川の川筋を「人工的に」捻じ曲げてしまったことにそもそもの問題があると思っていたのではないかと思います。それはこういうことではないでしょうか。利根川も渡良瀬川も、「神」が用意してくれた恵みの川である、それを強引に人間が欲をかいていじってはいけないんだ。
政治家を辞めた時(1900年頃)の田中正造の顔は悲壮でした。世の中に絶望していました。(→『砕け散った政治家』(1)、(2))
しかし、その後の、70歳を過ぎ白髪に白髭、蓑姿の彼は、寒風の中人のために歩き回ることがうれしくてたまらない、というような感想を日記に記しています。聖者の顔をしています。
きっと、「大丈夫世の中はよくなる。」という確信が心の奥になにかあったのだと思われます。
これは列車内から、「のだし駅」。 野田市駅。
なんかへん…。
「し」はいらないんじゃない?
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