はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

原爆の図

2008年08月06日 | はなし
 「トキワ荘」のことはご存知と思います。漫画家の石ノ森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄らが1950年代に生活していたアパートのこと。そのトキワ荘、東京のどこにあるか知っていますか? (今はもう建物はなく、ビルが建っているそうですが。)
 その場所は、池袋の近くで、当時は椎名町、今は南長崎という地名の場所です。

 さて、この、池袋の近く(西口から歩いて行ける)には、トキワ荘の歴史よりさらに遡って、戦前から芸術家の溜り場だったという歴史があるようです。画家などが集まってアパートを借り、それらを「アトリエ村」と称しました。この椎名町駅近くには「さくらが丘パルテノン」と名づけられたアトリエ村がありました。他にもいろいろあって、こうしたアトリエ村を総称して、「池袋モンパルナス」と呼ばれていたそうです。

 そのアトリエ村「さくらが丘パルテノン」に住んでいた画家の夫妻、丸木位里・赤松俊子について今日は触れたいと思います。



 丸木位里は1901年、広島に生まれた。位里は「いり」と読むが、もともとは「いさと」である。
 丸木位里は顔の右側に大きな「あざ」を持って、丸木家の長男として生まれてきた。位里の母はそれを見て、自分が産み月に階段を踏みはずしてすべってしまったためではないかと心を痛めた。そのせいか、母はこの長男にはとくべつ、優しかったようだ。少年時の位里は絵ばかりを描いていた。長じても、金を稼ぐような心配をなにもせず、絵を描いていた。そのうちに丸木家は経済的に苦しくなり、財産(土地)を手放さねば生きていけないほどになっていき、それを見かねた親戚からは「位里を勘当にしてはどうか」という提案もなされたが、位里の母は大反対。どこまでも息子の位里に寛大で優しい、そして働き者の母であった。家は、農業と民宿をやっていた。

 丸木位里と赤松俊子は1941年、結婚する。二人が出会った時、位里には妻がいたが、ある日その妻が、赤松俊子のところにやってきてこう言った。「位里は、あなたに差し上げます。あなたの方が、位里を幸せにできるでしょうから。」

 赤松俊子は、1912年、北海道に生まれた。小学校の教員も勤めたが、画家と教員の二足の草鞋は無理だと悟り、画家としての道を進む。そして、日本画を描いていた丸木位里に出会う。
 1941年に結婚して住みついた場所が、「池袋モンパルナス」の一角、「さくらが丘パルテノン」である。

 しかしやがて戦争がきびしくなり、東京空襲から逃れるために、一時埼玉県浦和の疎開する。そして1945年8月6日、広島に新型爆弾が投下され、広島は壊滅状態といううわさが流れた。
 広島には、位里の父母や、親戚、知人がいる。心配した丸木位里は広島へ急いだ。少し遅れて、赤松俊子も広島へ。丸木夫妻は、原爆投下後の広島のすがたを見た。


 さて、話はかわる。いわさきちひろのことである。
 終戦後の1946年5月2日、中央線の列車に乗って、いわさきちひろは東京へ出た。『人民新聞社』の記者としての職を得て、共産党宣伝芸術学校へ入学するためである。ちひろ28歳。
 このとき、ちひろが上京第一日目に泊めてもらったのが、丸木夫妻の家、つまり「さくらが丘パルテノン」のようである。
 丸木位里は、戦争中から、戦争には反対であったようだ。そして、戦後、すんなりと日本共産党へ入党する。もちろん妻赤松俊子も一緒に。
 そういうつながりで、赤松俊子は、いわさきちひろの画の先生となったのである。

 丸木夫妻のところには、若い芸術家、画学生が集まって、デッサン会や合評会を行っていた。「絵は誰でも描ける」というのが持論の丸木夫妻は、「来たい人はだれでもどうぞ」という方針だった。
 いわさきちひろもそこに参加した。ちひろの姿は「白っぽいブルーズを着て長めのスカート、大きいスケッチブックを抱えてあらわれた」そうである。
 交代でモデルをしていたが、裸を描こうというときに、でも裸になるのは抵抗がある…と思っていたときに、赤松俊子はこう言ったという。「モデル一人で裸になるのは恥ずかしいから描く人もみな裸になってデッサンしよう」 そうして、風呂屋で絵を描いているように粛々とデッサンしたという。
 俊子はちひろより、8歳ほど年上である。


 そのうち、赤松俊子の体調がわるくなった。
 どうやら原爆の放射能の影響が出たらしい。しばらく空気の良いところで暮らそう、ということになり、丸木位里・俊子は池袋を離れ、神奈川県片瀬(江ノ島の近く)に移る。
 そうして位里は、原爆のことを考えた。
 「なぜ、みんな、原爆のことをなにも語らないのだろう。まるで、あれは、なかったことのように。」
 これじゃあ、いかん。自分は画家だ。そしてあの原爆を落とされた広島の街をこの目で見てきている。原爆の絵を描こう。

 丸木位里・赤松俊子は、片瀬にて、『原爆の図』の制作を始めた。1947年のことである。


 僕は、今日、『原爆の図』をはじめて観た。画集を図書館から借りてきて。8月6日に原爆の画集を見るなんて、やりすぎな感じで恥ずかしいが、こういうきっかけでもないと、このような絵には、手を伸ばすことができない。

 地獄図だ。  くるしい。

 
 丸木夫妻がこの画の制作にとりかかり始めた時、位里の母はもう70歳を超えていた。息子たちの家を移り住みながら、片瀬にもやってきた。位里の母は、位里にとくべつ優しかったように、嫁の俊子にも優しかったという。『原爆の図』を描いている夫妻の横で、「暑かろう」と、団扇で風を送ってくれたそうだ。


 『原爆の図』は、15連作で、第1部には「幽霊」というタイトルが付いています。第14部のタイトルは「からす」。 第15部が「ながさき」。
 実物は、一枚の画が、180cm×720cm(ふすま8枚分)だから、これは観るのも、たいへんだ。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 共産党宣言! | トップ | スマの出現。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

はなし」カテゴリの最新記事