はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

足尾の山々

2008年04月27日 | はなし
 「銅」は古くから採掘されていた。
 (以前書いた「クレタ島」の記事にトラックバックを頂きました。おもしろいタイミングです。というのも、世界最古の「銅の鉱床」はクレタ島にあったそうですから。5000年前だとか。)

 足尾では、江戸時代から。
 全国でとれた銅は長崎に集められ輸出されていた。「ジャパンの銅は質がいい」と世界で評判が良かったそうだ。江戸時代、日本の銅の生産量はなんと、世界第1位だったのである。儲けはもちろん、すべて徳川幕府のものだ。
 しかし幕末の頃には、足尾の銅山は廃坑となっていた。その山を、明治時代になって古河市兵衛が安い値段で買い、銅山を復活させた。まだ銅は採れた。が、はじめは細々としたものだった。その生産量が飛躍的に伸びたのは1884年(明治17年)、大鉱脈の坑道が開通してからである。

 銅の精錬を行うのに、火力がいる。その燃料としてとして使われたのが、足尾の山々の森林である。古河鉱業は政府から安く買った広大な地の木々を伐採して燃料に使った。山の木々をむしりとったために、渡良瀬川の保水力が弱まり、洪水がふえた。利根川は関東平野の真ん中を流れているのでもともと洪水の多い川であったのに対し、渡良瀬川は、足尾の山々がスポンジのようにその雨水を吸収してくれていたのだが…。
 銅の鉱石に硫黄が含まれている。精錬によって二酸化硫黄が含まれる煙が空を覆った。風にのったその毒の煙は、山の木々を枯らした。松木村は養蚕の盛んな村であったが、木がすべて枯れてしまい、人の住めない土地となり、廃村に追い込まれた。

 渡良瀬川には「鉱毒」が流れはじめた。
 流れはじめたのは明治12年からである。栃木県の知事(藤川為親)がこれを認め、古河にうるさく言うと、藤川知事は、島根県へと放逐された。以後、新しく栃木県の知事となった者は、この件について口にできなくなった。「国」は、古河鉱業の銅の生む「利」をとったのである。
 それによって、渡良瀬川の流域の農民・漁民は、10年の間、鉱毒のことを知らずにいたが(いや、気づいていた人は沢山いただろう)、明治23年になって、あまりにひどい被害が出て、さすがにこれは銅山のせいだと訴え始めた。渡良瀬川はたいへんに豊かな川で、魚が多かった。それでその魚を獲って暮らしている漁民も多くいた。ところが、鉱毒によって魚が白い腹をみせて浮かんでいたり、その魚を買って食べた者が病気になったりするので、漁民は暮らしが成り立たなくなった。
 洪水が起こると、鉱毒を含んだ川の水が田畑を被う。明らかに異常な色をしていて、作物は育たなくなった。それでも農民は、その毒を含んだ土をいちいち取り除いては農業を続けた。
 誰が見てもおかしい、古河鉱業から毒が流れてくる。だが、県に訴えても「原因は不明、調査中」といい、どうにもならない。被害民の訴えを聴いて、小中村(現在の佐野市)出身の政治家田中正造が議会でこの問題を最初に採り上げたのが、明治24年である。

 古河鉱業がおこなった「捨て石」の処理がすさまじい。
 「捨て石」というのは、採掘した銅鉱石のうち必要でないものであるが、多量の有毒物質が含まれている。これをどこに捨てるか、古河は悩んだ。遠くに運んで捨てるにしても費用が嵩む。それで古河は大量に出る「捨て石」を足尾の山の「谷」に捨てた。が、それもあっという間に、埋め尽くされた。
 山の木々が伐採され、また、工場の煙害で枯れたために、渡良瀬川の洪水がふえたことはすでに述べた。その洪水を古河は利用した。雨が降って洪水が起きそうな日を見計らって、毒を含んだ「捨て石」を川へ放り込んでいたのである。これを何年も古河鉱業は行ってきた。この「捨て石」は「凝集性」をもっていてそのまま積んでおくと粘着してくっついてしまう。それで、洪水が起きそうな暴風雨がくると、ダイナマイトでそのくっついた「捨て石」の巨大な塊りを吹っ飛ばして川に投機したのだった。

 「洪水と一緒に流せば、なに、判りはしない」というのが古河の考えだったのだろうか。だが「判りはしない」というような小さな被害ではなかった。
 実際には、洪水の後、そのたびに下流では大騒ぎになっていた。生まれた赤ん坊がすぐに死んでしまう。多くの村で住民の死亡率が出生率を上回っていた。全国の平均に比べ、死亡率は2.5倍。 生活も困る。そんな田で育った米が、売れるわけがない。だいいち、育たない。
 この鉱毒問題は、もはや栃木県内に納まらないものになっていた。渡良瀬川の鉱毒は利根川にそそぎ込む。利根川は関東の大河であり、もともと洪水が多い。その水が、毒なのだから__。

 国会での田中正造の強烈な訴えによって、足尾の鉱毒被害問題は、何度か世間に注目されるようになった。それでも、国は動かなかった。そのうち、注目もされなくなった。それでも鉱毒は流れつづける。
 当時の県知事は天皇に任命されるものとなっている。天皇に任命された県知事が「鉱毒被害はありません」と言っている。それを信用しないことは、天皇を信用しないことになる。そういうこともあって、国会の政治家達はうかつに動けなかったということもある。
 だとしても、では、「政治家」とよばれる人たちは、何のために存在しているのか。世の中をより良く改革するためではないのか。

 「鉱毒問題は存在しない」 それが国の判断であった。

 そういう答えをしておきながら、明治政府は、関宿(せきやど)の工事を行い、利根川から江戸川への水の流れをできるだけ少なくした。東京方面に鉱毒が流れて来てはたいへんだ、ということらしい。関宿の江戸川への水路を狭くしたために、その分だけ利根川下流域(千葉県、茨城県)の水が増え、その方面では、いっそう洪水が起きやすくなった。もちろん、鉱毒入りの水である。

   (はあー、こんなん書いてたら、頭おもくなるわ…)

コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 水草 | トップ | ある日曜日の朝のこと »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
あまりにもひどすぎるよね! (イガティ)
2008-04-27 21:37:15
人間手なんておろかな?どうぶつなのでしょう!
返信する
はい (han)
2008-04-28 07:50:41
煙害被害にあった村は他にも沢山あるわけですが、松木村ひとつを廃村にしただけでも、それは、終身刑ぐらいの重罪だと僕には思えるのですが、なんのおとがめなし。それどころか、政治家や役人や学者が知恵をしぼって企業を守っている。
 なんなのだろう、大人って、何? っておもうんですよ。
返信する

コメントを投稿

はなし」カテゴリの最新記事