浄心庵・長尾弘先生「垂訓」

八正道と作善止悪

「御垂訓」

2020-11-23 23:59:34 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓

     恩師のご著書「講演集」より

              講演集、 二

           老人の呆けと憑依現象


先の続き・・・

こんなことを言うと、お医者さんに叱られますが、
現実にはそういうことですね。
ですから、医者では治りません。
老人呆けを、医学上は老人性脳軟化症と言っていますが、
呆けが進みますと、
最終的には毒を食べても病気にはなりません。
それは、自分に意識がないからです。

私たちが食べ物に当たったり病気をするのは、
「ああ、これを食べたら恐い、
それは毒かと違うか、あれが悪かったのかなあ」などと思うからです。
呆けたら、そういうことが分からなくなりますから、
いくら食べても腹痛は起こらないし、
腐った水を飲んでも大丈夫です。

現在は、衛生をやかましくいう時代ですから、
ボウフラの湧いた水を飲んだら、
皆腹痛を起こします。
さきに話したおじいちゃんなんか健全なものです。
普通だったら、六人分七人分の御飯を食べたらお腹がパンクしますが、
それも起きません。

不思議な憑依現象の例があります。
これは泉大津の方の話しですが、
お譲ちゃんが四国の松山の方と結婚されるので、
両親が四国へ行かれて道後温泉で一泊され、
又お婿さんの家でも泊めてもらって、
二、三日して帰ってこられました。

それから、そのお父さんは食べるわ食べるわ、
お茶碗に八杯食べてもまだお腹がいっぱいにならないので、
お寿司を三人前買ってきて、
家族にも恥ずかしいからお茶だけ持って自分の部屋で食べるというのですね。

お菓子を一箱もらったら、誰にもやらないで一人で食べる。
その方が私のところに来てそんな話をされるから、「それはおかしい、
もう食べないようにしてあげましょう」と言って、
ちょっとお祈りをして、
「今晩食事をされたら電話して下さい」とお願いしておきました。

夜八時頃電話がありまして、
「先生、今食事をしましたら一膳の御飯でやっとでした。
どういうことでしょうか」と言われるので、
「あなたに大きな伊予狸が憑いていましたよ」と言うと、
びっくりしておられました。
あれは狸が食べていたのですね。

そういうこともあるのです。
泉大津駅の前にジャンボどら焼きといって大きいのを売っています。
私はあんな大きいのは一個もよう食べませんが、
それを四つも五つも食べていたと言うのです。
考えられないことが起きますが、そういうのは簡単にとれます。

憑依現象の中にはこういうのもあります。
そこら辺りに坐っていた方に「来なさい」と言いますと、
ピューンと六メートほど飛んで来たので、
憑いていたものをとり除きますと、
「いったい僕、何してますのや」とおっしゃるから、
「あなた、あそこからここまで飛んで来ました」と言うと、
「ほんまですか!」とびっくりされました。
オリンピックの選手でもそんなに飛べませんね。

そして、悪かった肝臓もいっぺんに治ってしまって、
これから帰って野球がしたいと言っておられました。
まあ、こういう不思議なことがいろいろありますので、
私たちは日々の生活の中でいかに心を
正しく生きていくかということが大事なことです。
過った想念、行為に陥りますと、
目に見えない世界の闇のエネルギーの支配を受ける危険が常にあるのです。
だから常に心を光に満たしていきたいと思います。
長い時間ご静聴いただき、どうもありがとうございました(拍手)。
                              合掌


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「御垂訓」

2020-11-23 00:06:29 | 浄心庵 長尾弘先生垂訓
 
   恩師のご著書「講演集」より

                講演集、 二

          老人の呆けと憑依現象


ほかにも、何人かの老人呆けが治った例があります。
これは統計的に見まして、
一種の憑依現象が起きているのです。
だから、憑依している方を救わせてもらったら、
呆けが治る場合がよくあります。

呆けると、自分の家が分からなくなって、
夜中に飛び出したまま迷子になるのですね。
外に出て行くのはいいのですが、
帰り道が分からなくなる。
それで家族中で探さねばならなくなるのです。
そういう状態の方が何人も治っておられます。
それはどういうことかと言いますと、
この世とあの世との間に境界があります。
生と死の境界線です。

人間は健康な時、幼い時など生命力が溢れている時は、
この死の境界線が遠のいているのです。
若くても病気をしてだんだん進行して
生命力が弱まってくると、
死の境界線に近づいてきます。
病気が最悪の状態になると、
死の境界の中に入って行くわけです。
そうしますと、死がおとずれます。

また年をとって次第に生命力が弱まりますと、
やはり死の境界線に近づいていきます。
若い時は神も仏もあるものかと思っている仏心の無い人が、
年をとったら、
しきりにお寺参りをするようになるね。

死が近づくから知らない間にあの世が恋しくなって、
お寺参りをするのです。
そして、やがては死の境界に入ります。
もう全部入ります。

だんだん年をとって七十代、
早い人は六十代半ばで呆けている人があります。
七十代を越えて死に近づいていき、
死んだことを知らないでこの地上に思いや
執着を残した人が、
肉体は無いのに意識となって境界線をうろうろしています。
その境界線をうろついている人が
たまたま近づいてきた人と心の通じた場合、
その人にとりついてしまいます。
すると、他の人格ができあがります。

死後の世界、つまりこの境界線を越えた時は、
いつも言うのですが、もう尻を
向けたら一目散にさんに走っていくことです。
境界線からいっときも早く遠のくことです。
この世への執着の思いを持てば、
境界線の辺りをうろついてしまいます。
これが、迷える霊です。

いつまで経ってもこの世から離れないで、
生命力の弱い人、或いは自分の
思いと一致した人の中にポッと憑依するわけで、
取り憑かれたということになります。
老人にはそういう場合が多いように思います。


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