「本牧ベース」が無くなってから そろそろ30年目である
と言う事は 30歳より若い人は絶対 「本牧ベース」の実物を見た事は無いのである
(あたりまえではないか)
何故そんな当たり前だのくらっか~ の事を書くのかと言うと
はげまるが母と病院に行く都度 あのあたりを車で通る
「本牧ベース」あたりを車で走っていると
「う~ん このあたり ず~っとフエンスがあって ベースの住宅が眩しいくらいに
並んでいたんだよな~」
なんて思う事がある
そうなのです 今現在 「本牧ベース」があったあのあたりには
その形跡がまったく無いのである
あるのは さびれたマイカル本牧あたりのビル群 マンション群である
人間にせよ 動物にせよ 建物にせよ はげまるの毛根跡にせよ(おまけ)
無になると残るは思い出ノミとなってしまうのが この世の必然なんでおわす
はげまるが この散策を書き始めた動機はその
毛根跡捜しではない
その思い出を少しでも後に残せるか どんどんどどどん(またです)
それしかないのである
何故こんなに前置きが長いのかと言うと
それだけロコさんの時と同じ 今回の「本牧ベース」
書くのがすごく楽しいのである
ここから本文で~す
20年以上前にロコさんの店「ダイナマイト」で知り合ったRIOさんから
外人さんのサイトから拾った 昔の本牧ベースの写真を送ってもらった
早く写真を載せたいな~本牧ベースの事書きたいな~
と思っていたのであるが その前にロコさんの事を書きたかったので
ず~っと我慢していたのである
それがなんとか終了したので今回やっとお披露目と相成りました
RIOさんの写真がなければ書けなかった今回の散策であります
感謝感謝^^です
かなり古い1953頃の写真である
これからの三枚の写真は転載可の写真をパソコン画面から写したモノ
フエンスの凄いが 走っているバスも凄いなぁ
ここからは横浜本牧グラフティからの抜粋記事を参考多少改編しました
横浜本牧グラフティさん ご勘弁のほどよろしくお願い申し上げます
http://www5.ocn.ne.jp/~matida/gallery2.htm
< > 内が その横浜本牧グラフティさんからの引用記事
少し改編してあります
<現在ベース跡にはマイカル本牧は(もう名前は変わってしまったが)
商業施設や高層マンションが林立しているが
ベースがあった50年代から70年代はじめ頃、本牧界隈のどの店も多国籍の外国人であふれ、
R&Bやロックやジャズが流れ、派手なネオン管が夜を彩っていたて
元町方面から麦田トンネルを抜けると、そこはさながらリトルアメリカだった>
<Yokohama Beach DH-Area(横浜海浜住宅地区:NASGUBU BEACH AREA)は、
敗戦と同時に米軍が日本を占領統治する進駐軍の住宅として約70ヘクタールの敷地を接収し
急ごしらえしたベースキャンプ>
<エリア内には910戸の住宅のほか、学校、銀行、PX(物品販売所)、映画館、ボーリング場
野球場(ナイターも可)、テニスコート、チャペル、消防署、ガソリンスタンド、変電所、
将校クラブなどの施設が整い、一つの都市を形成していた>
昔から 僕の地元仲間の何人かは 外人の友達に連れて行ってもらったとか
親父がベースで働いていたからよくPX(基地内のスーパー無税である)
から内緒で手に入れたモノなんかを持ってきてもらったとか
そういう うらやましい話は耳にタコぐらい沢山聞かされてきた
「いいな~ 本牧が地元の奴は~ くっそ~ こちとら横浜の田舎
鶴見だもんな~ (鶴見の人ごめんなさい)」なんて
いつも思っていたのである
<周辺住民達はフェンスの外から青い芝生に立ち並ぶパステルカラーのハウスを眺め
アメリカの豊かさにふれ、憧れをつのらせたそうである>
そうそう はげまるもまだハゲてなかった時代に 15円の市電に乗って 窓から口をあけて
本牧ベースあたりを見ていたものである
「すっげ~な アメリカだ~」 なんてね
FEN放送を進駐軍放送と呼んでいた時代の話である
何しろ広い敷地に小奇麗な一軒家 もちろん庭があって
その緑が目に眩しいくらいであったのを覚えている
<70年代ーベトナム戦争が泥沼化していた時代
本牧の夜は妖しいまでに華やいでいた
しかも本牧の夜は遅いので 若者たちが集まり始めるのが夜9時、10時
深夜遅くなって来た頃から活気を呈してきていた>
前線へ送られる不安を振り払おうとするGIたちと
日本の若者達(もちろん不良達も沢山いた)がふんずまみれて
毎夜どんちゃん騒ぎと喧嘩騒ぎであったそうだ
チャン街も凄く怖かったが 本牧はもっと近寄りがたい位に怖い場所であり
地元の仲間が居なければ とても行けなかった思い出がある
<80年代に入ると、ベトナム戦争の終結以来
空家のハウスが増えゴーストタウンの様相を呈してきた
82年には星条旗が降ろされて ベースは跡かたもなく消えていった>
<90年代に入るとマイカル本牧や高層マンションがベースの跡地に林立、
ひと頃は全国から多くの人々が本牧を訪れ、観光地と化したが
今現在は寂れ荒廃さえ来している
当然本牧あたりも 若者達の夢の跡である
<横浜本牧グラフティさん貴重な資料ありがとうございました>
<全面返還されたのは1982年、接収から37年後>
この写真は はげまるが撮ったモノ
山手警察の前あたりのベース跡に「木下大サーカス」が来たときの写真
とにかく ベース跡は じぇんぶ空き地 更地であった
さてさて御立ち合い
これからの写真はすべて RIOさんから送ってもらった写真であります
写真の量が多いので二回にわけて載せる事にしました
コメントは書きません
みなさんごゆっくり見てくださいね
Yokohama Beach DH-Area(横浜海浜住宅地区:NASGUBU BEACH AREA)
如何でしたか 次回 お楽しみにね。
と言う事は 30歳より若い人は絶対 「本牧ベース」の実物を見た事は無いのである
(あたりまえではないか)
何故そんな当たり前だのくらっか~ の事を書くのかと言うと
はげまるが母と病院に行く都度 あのあたりを車で通る
「本牧ベース」あたりを車で走っていると
「う~ん このあたり ず~っとフエンスがあって ベースの住宅が眩しいくらいに
並んでいたんだよな~」
なんて思う事がある
そうなのです 今現在 「本牧ベース」があったあのあたりには
その形跡がまったく無いのである
あるのは さびれたマイカル本牧あたりのビル群 マンション群である
人間にせよ 動物にせよ 建物にせよ はげまるの毛根跡にせよ(おまけ)
無になると残るは思い出ノミとなってしまうのが この世の必然なんでおわす
はげまるが この散策を書き始めた動機はその
毛根跡捜しではない
その思い出を少しでも後に残せるか どんどんどどどん(またです)
それしかないのである
何故こんなに前置きが長いのかと言うと
それだけロコさんの時と同じ 今回の「本牧ベース」
書くのがすごく楽しいのである
ここから本文で~す
20年以上前にロコさんの店「ダイナマイト」で知り合ったRIOさんから
外人さんのサイトから拾った 昔の本牧ベースの写真を送ってもらった
早く写真を載せたいな~本牧ベースの事書きたいな~
と思っていたのであるが その前にロコさんの事を書きたかったので
ず~っと我慢していたのである
それがなんとか終了したので今回やっとお披露目と相成りました
RIOさんの写真がなければ書けなかった今回の散策であります
感謝感謝^^です
かなり古い1953頃の写真である
これからの三枚の写真は転載可の写真をパソコン画面から写したモノ
フエンスの凄いが 走っているバスも凄いなぁ
ここからは横浜本牧グラフティからの抜粋記事を参考多少改編しました
横浜本牧グラフティさん ご勘弁のほどよろしくお願い申し上げます
http://www5.ocn.ne.jp/~matida/gallery2.htm
< > 内が その横浜本牧グラフティさんからの引用記事
少し改編してあります
<現在ベース跡にはマイカル本牧は(もう名前は変わってしまったが)
商業施設や高層マンションが林立しているが
ベースがあった50年代から70年代はじめ頃、本牧界隈のどの店も多国籍の外国人であふれ、
R&Bやロックやジャズが流れ、派手なネオン管が夜を彩っていたて
元町方面から麦田トンネルを抜けると、そこはさながらリトルアメリカだった>
<Yokohama Beach DH-Area(横浜海浜住宅地区:NASGUBU BEACH AREA)は、
敗戦と同時に米軍が日本を占領統治する進駐軍の住宅として約70ヘクタールの敷地を接収し
急ごしらえしたベースキャンプ>
<エリア内には910戸の住宅のほか、学校、銀行、PX(物品販売所)、映画館、ボーリング場
野球場(ナイターも可)、テニスコート、チャペル、消防署、ガソリンスタンド、変電所、
将校クラブなどの施設が整い、一つの都市を形成していた>
昔から 僕の地元仲間の何人かは 外人の友達に連れて行ってもらったとか
親父がベースで働いていたからよくPX(基地内のスーパー無税である)
から内緒で手に入れたモノなんかを持ってきてもらったとか
そういう うらやましい話は耳にタコぐらい沢山聞かされてきた
「いいな~ 本牧が地元の奴は~ くっそ~ こちとら横浜の田舎
鶴見だもんな~ (鶴見の人ごめんなさい)」なんて
いつも思っていたのである
<周辺住民達はフェンスの外から青い芝生に立ち並ぶパステルカラーのハウスを眺め
アメリカの豊かさにふれ、憧れをつのらせたそうである>
そうそう はげまるもまだハゲてなかった時代に 15円の市電に乗って 窓から口をあけて
本牧ベースあたりを見ていたものである
「すっげ~な アメリカだ~」 なんてね
FEN放送を進駐軍放送と呼んでいた時代の話である
何しろ広い敷地に小奇麗な一軒家 もちろん庭があって
その緑が目に眩しいくらいであったのを覚えている
<70年代ーベトナム戦争が泥沼化していた時代
本牧の夜は妖しいまでに華やいでいた
しかも本牧の夜は遅いので 若者たちが集まり始めるのが夜9時、10時
深夜遅くなって来た頃から活気を呈してきていた>
前線へ送られる不安を振り払おうとするGIたちと
日本の若者達(もちろん不良達も沢山いた)がふんずまみれて
毎夜どんちゃん騒ぎと喧嘩騒ぎであったそうだ
チャン街も凄く怖かったが 本牧はもっと近寄りがたい位に怖い場所であり
地元の仲間が居なければ とても行けなかった思い出がある
<80年代に入ると、ベトナム戦争の終結以来
空家のハウスが増えゴーストタウンの様相を呈してきた
82年には星条旗が降ろされて ベースは跡かたもなく消えていった>
<90年代に入るとマイカル本牧や高層マンションがベースの跡地に林立、
ひと頃は全国から多くの人々が本牧を訪れ、観光地と化したが
今現在は寂れ荒廃さえ来している
当然本牧あたりも 若者達の夢の跡である
<横浜本牧グラフティさん貴重な資料ありがとうございました>
<全面返還されたのは1982年、接収から37年後>
この写真は はげまるが撮ったモノ
山手警察の前あたりのベース跡に「木下大サーカス」が来たときの写真
とにかく ベース跡は じぇんぶ空き地 更地であった
さてさて御立ち合い
これからの写真はすべて RIOさんから送ってもらった写真であります
写真の量が多いので二回にわけて載せる事にしました
コメントは書きません
みなさんごゆっくり見てくださいね
Yokohama Beach DH-Area(横浜海浜住宅地区:NASGUBU BEACH AREA)
如何でしたか 次回 お楽しみにね。