ケイの読書日記

個人が書く書評

芥川龍之介「鼻」

2012-05-13 20:02:22 | Weblog
 最近なかなか本が読めない。仕事が忙しいから時間がない…ではなく、家事が大変だから時間がない…では絶対に無く、ただ単にぼんやりしているからだけなのだが…。

 ということで、何か短篇を読んでブログの更新をしようと思い、家の本棚を探す。
 ありました!! 『芥川龍之介名作集』。困った時の龍サマ参り! その中で、子どもの頃読んだきりの「鼻」を再読。

 禅智内供(ぜんちないぐ)というお坊さんの鼻は、とても有名で、太くて長いウインナソーセージがぶらさがっているようだった。
 内供は、これをとても気にしていたが、仏に仕える身、表面的には気にしていないように振舞っていた。
 ある時、弟子が、その鼻を短くする方法を医者から教わった。ただ、湯で鼻をゆで、その鼻を人に踏ませるという簡単なものである。
 そのかいあって、鼻は短くなり、普通の鉤鼻と変わらなくなって、内供は大満足。これで誰も陰口を言わなくなるだろうと期待した。
 ところが、今度はもっとひどく、陰で嘲笑われる事となった。というお話。

 この、鼻を茹でて人が踏むと、粟粒のようなものが鼻に出来始める。この脂を毛抜きで抜き取って、再び茹でるという描写がリアル!
 これは角栓を取るという事だろう。なるほど、スッキリする。
 このお坊さんに、鼻パックをプレゼントすれば、きわめてビッチリ取れるだろう。


 しかし…私が小学生の時読んだ記憶では、この鼻の毛穴から、小さな虫が出てきたような…? 記憶違い?!
(生まれたての赤ちゃん以外、ほとんどの人は顔ダニがいるという話を聞いたのは、それから30年以上たってからだ。顔ダニ専用の洗顔石鹸が売れたよね。最近は話題にならないけど)

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2 コメント

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「鼻」について (風早真希)
2023-10-06 18:14:58
こんばんは、ケイさん。
紹介されている、芥川龍之介の文壇でのデビュー作となった「鼻」について、感想を述べてみたいと思います。

この「鼻」は、今昔物語に題材を採り、ユーモアと諧謔で装い、人間存在の哀しみを描いた、芥川龍之介の短編小説の秀作だと思います。

芥川龍之介が、彼の師である夏目漱石からの手紙で、「あなたのものは大変面白いと思います。落ち着きがあって巫笑戯ていなくって自然其儘の可笑味がおっとり出ている所に上品な趣があります。夫から材料が非常に新しいのが眼につきます。文章が要領を得て能く整ってます。敬服しました。ああいうものを是からも二三十並べて御覧なさい。文壇で類のない作家になれます。然も『鼻』丈では恐らく多数の人の眼に触れないでしょう。触れてもみんなが黙殺するでしょう。そんな事に頓着しないでずんずん御進みなさい。群衆は眼中に置かない方が身体の薬です。-----」と、激賞された芥川の文壇でのデビュー作となった「鼻」。

あらゆる作家の第一作目となる作品に、その作家のあらゆるものが、投げ込まれているばかりでなく、作家はその生涯を通じて、その作家の第一作に支配され、最も顕著にその作家の核となるものが表現されていると思っていますが、まさしく、この「鼻」は、芥川龍之介という作家にとっても核となる、あらゆる要素が詰め込まれていると思います。

私は、愛してやまない芥川の数々の小説を読み続けてきて思うのは、彼の作品は、大きく二つの時期に分けて考えるようにしています。

その前期は、この「鼻」から始まり、「芋粥」「或る日の大石内蔵助」「地獄変」「奉教人の死」「南京の基督」「藪の中」から、前期において、芸術的に最も完成された作品だと信じて疑わない「六の宮の姫君」あたりまでで、その特徴は大部分が、古典に題材をとった"歴史小説"であり、その後期は、「一塊の土」「大導寺信輔の半生」「点鬼簿」「玄鶴山房」「河童」から「歯車」に至るまでで、前期とは明らかに作風に変化を生じ、自伝的な色彩を強烈に持った作品群になっていると思います。

つまり、前期の"シニカルな懐疑主義者"だった芥川が、後期においては"徹底的な厭世主義者"に変わっているように思うのです。

この「鼻」という短編小説は、「今昔物語」の中から、その題材を採っているのですが、考えてみれば、芥川の前期の作品の中で「芋粥」「龍」「往生絵巻」「好色」「六の宮の姫君」などと、数多くの作品で、「今昔物語」からその題材を採っているんですね。

この「鼻」は、夏目漱石が激賞したように、"おっとりした可笑味の、上品な趣のあるもの"で、確かに主人公の禅智内供の心理の曲折に工夫を凝らし、"ユーモアと諧謔"というもので、表面上は装っていますが、しかし、この作品の本質は、「人間存在の哀しみ」であると思います。

人間本来の、自己に根を下ろした生き方が出来ずに、絶えず世間という外部に影響され、振り回されて、一時も心の休まる時がないという、そういう"哀しい人間性"を、芥川一流の顕微鏡で人間の心の中を、"シニカルで冷ややか"に見つめるところに、この作品「鼻」の核心部分があると思っています。

この「鼻」で、自分のものとした"機智と諧謔とユーモア"というものは、その後の芥川の文学の大きな武器になったのではないかと思います。
そして、その明るい笑いの仮面の下に、"憂鬱で暗い芥川の素顔"が、いつも隠されていたのではないかとも思っています。

このように芥川は、表面上はユーモラスな物語の中に、鼻によって傷つけられる、禅智内供の自尊心のための苦しみを描いていて、それから、内供の長かった鼻をいくらか同情的に見ていた人々が、その鼻が短くなると、急につけつけと笑い出した傍観者になるという"利己主義"を描いているというところも、非常に考えさせられましたね。

このあたりを表現している、「---人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないやうな心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥れて見たいやうな気にさえなる。さうして何時の間にか、消極的ではあるが、或敵意をその人に対して抱くやうな事になる。---内供が、理由を知らないながらも、何となく不快に思ったのは、池の尾の僧俗の態度に、この傍観者の利己主義をそれとなく感づいたからに外ならない」という箇所に、私はこの作品の重要なテーマが隠されているのではないかと思います。

芥川は、この「鼻」で今昔物語という古い物語を、現代的に書き直そうとしたというよりも、このテーマを芸術的に力強く生かすために、今昔物語の一つの話を借りて来ただけだと思うのです。
そして、そこに芥川の前期の歴史小説家としての、基本的な姿勢があるのだと思います。

芥川は、この「鼻」以外にも、同じ手法で数多くの歴史小説を書いていますが、それらをただ、古い物語を現代の物語として翻訳して書いているのではなく、それらの中で、様々な"人間の心理を解剖"しているのだと思います。
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風早真希さんへ (kei)
2023-10-14 11:54:29
コメントありがとうございます。すごく長くしっかり書かれていて、恐縮します。
そうそう「六の宮の姫君」 読みたいと思っていたのに、忘れてました。思い出させてくれてありがとうございます。
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