本と旅とやきもの

内外の近代小説、個人海外旅行、陶磁器の鑑賞について触れていき、ブログ・コミュニティを広げたい。

現代仮名遣い

2007-02-23 15:47:36 | Weblog
 現代仮名遣いでは「じ」と「ず」が原則で、「ぢ」と「づ」は例外とされている。
 例外とされる「ぢ」の遣い方のひとつに、同音の連呼がある。「ちぢみ」がまさにそうだが、不思議なことに「いちじく(無花果)」や「いちじるしい(著しい)」では「じ」となる。 もうひとつ「せかいじ(ぢ)ゅう」は「じ」でも「ぢ」でもよいので、どちらも正しく「世界中」と漢字変換する。

 昔、濁音を清音に直して意味が通じるものが正しいと習った。例えば「鼻血」は「はなち」としても意味が通るから「ぢ」となる。別の見方をすれば、漢字音の濁音化といってもよい。「血(ち)」の音が「ぢ」と濁ったということ。
 ところが、現代仮名遣いではこの考えは必ずしも通らない。「融通」は濁音を清音に直した「ゆうつう」のほうが「ゆうすう」よりまだ意味が通りよい。また「通(つう)」の濁音化は「づう」だ。しかし「ゆうずう」が正しいのだ。「地面」もそうだ。「ちめん」でも分かるが「しめん」では意味が通じない。そもそも「地」は「ち」だ。だが「じめん」としなければ漢字変換しない。
 
 無法則より昔の考えが理に適っていると思うのだが、私の習ったことは勘違いかな。

不毛な歴史の処分

2007-02-22 16:12:07 | Weblog
 新聞に「親日派狩り進行中」の見出しが躍った。韓国政府は、日本の植民地統治の協力者を洗い出して、その子孫から財産を没収するとのこと。ここでいう「親日派」とは日韓併合(1910年)の推進者らしいが、第二次日韓協約時(1905年)まで遡るという。百年前の出来事の処罰ですから、いやらしいねぇ。
 当方、併合当事者の市民ですから容喙すべきことではないでしょうけど、韓国には一事不再理の憲法理念はないのですかね。それに他国の前例から推し量っても突出していませんかね。

 確かにフランスでもエピュラシオン(対独協力者追放)があった。公的に裁かれたが、リンチもありましたね。解放後、ドイツ兵と親しくした女性が衆人の中で髪を丸刈りにされた話は有名ですな。エンリオ・モリコーネ監督のイタリア映画「マレーナ」でもナチの将校との仲によって髪を剃られた。イタリアもそうだったのかしら。生きるためにやむを得なかったでしょうに。しかし、今に至っては、エピュラシオンは尾を引いていないし、再燃もしていない。
 いつだったか、モーリス・パポンなる人物の死亡記事が載っていた。第2次世界大戦中のフランスの対独協力者で「人道に対する罪」で禁固10年の刑を下されたが、後にパリ警視総監やら下院議員やら果ては大臣まで勤めた。この人物は戦争敵国の協力者ですから悪質だったはずですが、それでことは済んだ。

 韓国と日本は戦争敵国関係ではなかったから、敵国協力者とは言えない。だから百年前の併合協力者を狙い撃ちの八つ当たりですか。フランスのアルザス地方は同じく併合され、ドイツに協力したが、現在、追及されることはない。
 韓国のこの方針は怨念というより政治的打算でしょうね。

サイバーフォビァ

2007-02-21 10:37:13 | Weblog
 ソフトウェアとはソフトクリームとウェハウスの短縮形かいな、と思うほどのコンピュータ・オンチだった。今もほとんど変わりませんけど。
 コンピュータリゼーションが盛んに叫ばれていた、そう、三島事件の頃からしばらく続いていた。
 当時、IBMはガリバーといわれていた。後年、頭字を逆手にとって、I Believe MoneyだのInternational Bug Machineだのと揶揄っていたが、ガリバーに小人が遠吠えしていたようなもの。それはともかく、オンチの小生は、アメリカは相当に進んでいる、誰もがコンピュータを使いこなせるのだろうと感心し、懼れもしたものだ。
 
 アメリカを視察したその頃、企業でコンピュータの話が出た。通訳が「重役にはサイバーホビァが多いのです」と言った。Hobbyと聞き違えて、この国はコンピュータを趣味とする重役が多いのかと唸った。実は、Cyber Phobia(コンピュータ恐怖症)である。だから投資を渋ると言いたかったようだ。
 ホビィとフォビァではえらい違いでありますな。どの国でもお偉いさんは同じだなと思ったことでした。今は昔、大型コンピュータの時代でした。

裁判員制度

2007-02-20 14:58:36 | Weblog
 裁判員制度は、確か09年までに施行が決まるはずですね。関心度が低いから施行が先送りもあり得るかな。
 この制度でよく引き合いに出されるのが米映画「十二人の怒れる男」ですね。陪審員同士が葛藤のすえ無罪の評決を下す。結構な結末だけど、理想を描いているに過ぎない。あの映画の着目すべき点は、たいていの陪審員は予断や偏見に左右されることにあると思いますね。あるいは無関心あるいは私的な都合の雑念で頭が一杯。人とはそういうものですな。
 
 それでもアメリカ市民には、長い陪審制の歴史から「合理的疑い」に向き合う姿勢や「推定無罪」の原則が浸透しているでしょう。日本ではこの姿勢や原則が未熟ですわ。裁判員制は陪審制と異なるが、これは共通して大事なことですから制度の端緒を開くまえに相当の修練が必要ですな。
 
 この制度に向けて、裁判所の市民講座や大学の公開講座で模擬裁判を催しているようだけれど、まだまだその機会は少ない。真面目に言えば、全国規模で模擬裁判の拡充と一般市民の参加増を図らねばなるまい。そして、当面、裁判員候補は、模擬裁判の体験者から選ぶべきでしょうね。なんたって、疑似体験でも場数が0と1とでは、大いに違う。
 
 制度が根付くまで大変だが、小生は基本的に賛成だ。市民の感性や目線が通じるかどうか分かりませんが、三権分立で最も縁遠いのは司法ですもの。

「くま」の話

2007-02-19 15:34:03 | Weblog
 高村光太郎が「樹下の二人」に綴った川は「あの光るのが阿武隈川」。筑紫次郎と称される筑後川の上流は三隈川、島崎藤村に縁深いのが千曲川、そして球磨川。字は違っていても、共通している読みが「くま」ですな。漢和辞書を開くと「隈」には水が岸に曲がりくねった所の意があり、「曲」には湾曲した所の意がある。恐らく、「球磨」はどちらかの当て字ではないか。川は曲がりくねった所に土砂を堆積し洲を作る。だから川のほとりを隈町という地名になる。これ、九州に多い。

 面白いのは「阿」にも、湾曲して入り組んだ所という意味がある。してみると、阿武隈川は相当に蛇行している感じだ。「阿川さん」は父娘ともどもへそ曲がりの気がしてきた。
 しょうもない話でした。