映画「ハンナ・アーレント」を観てきました。
ユダヤ人女性哲学者アンナ・ハーレントは、元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴します。
そのレポートは、ナチスの擁護であると世界中から非難されるのです。
こうした一連の経過を通して、『悪』とは何かを訴えていたように 私は受け取りました。
作品の最後、アーレントは、学生や教授の前で教壇に立ち、訴えます。
『アイヒマンが自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意思は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。
そして、
『世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです』とも。
アイヒマンがユダヤ人をガス室に送ったのは自分の意思ではなく、
『上層部からの命令だった』という主張。
その姿は、いつの時代 どこの組織にも、私自身の中にも見出すことができるといえます。
一つの組織に所属し、そこで生活の糧を得なければならない時などは、なおさらのことでしょう。
『この映画の人気は、アイヒマンは どこにでもいるからではないか』
と、鳥越俊太郎氏は語っているそうです。
『この映画は、あなたは、アイヒマンではないですかと問いかけている』
鳥越氏は、そうも 指摘しています。
「ユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力した者がいた。それによってユダヤ人の犠牲が増えた」
というアーレントの記述も、非難される理由であったとされます。
私は、幼い頃遭遇した太平洋戦争末期、身近な町内会・隣組という「連なり」を思いだしました。
「国防婦人会」という組織がありました。
近所隣りに対して 面倒見の良い元気な おばちゃん達だったように覚えています。
愛国心に燃え、近隣の子ども達に対しても、親以上の もの言いをしました。
当時の国策に添い、率先して、
「竹やり訓練」「焼夷弾落下による消化訓練」など、身を粉にして活動していたのです。
私も、幼い「愛国少女」の一人でしたから、そうした愛国精神にのっとった活動は、正しい行為だと信じていました。
しかし、この愛国的行為が、情け容赦のないバッシングを引き起こしていたことも目にしました。
「戦意高揚」、「銃後の守り」に積極性が認められない人、行事等に欠席しがちな人達には、容赦のないバッシングを与えていた様に記憶しています。
男性以上に、個人的なプライバシーさえ踏みにじりました。
あれは、『非国民』という名の陰湿なイジメでした。
戦争が終わり、このおばちゃん達は、
新しい国策としての「公民活動」に携わって行きました。
「鬼畜米英」などと言っていたことなど、まったく無かったかのようにです。
「アメリカさん」「進駐さん」
などと、まるで昔からの知己みたいな口調で。
この方たちを責めることだけで済まされません。
大きな社会の「大義」(たとえ、誤っていたとしても)の前には、個人は弱いのです。
だからこそ、国家の誤った大義が、罷り通らない社会でなくてはいけないのだと思います。
私は、そのためにも
「憲法九条」を守り、
「秘密保護法廃止」を訴え、
集団的自衛権に積極的な安倍政権に、「NO」と、言いたいのです。
〈ゴマメのばーば〉
ユダヤ人女性哲学者アンナ・ハーレントは、元ナチス高官アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴します。
そのレポートは、ナチスの擁護であると世界中から非難されるのです。
こうした一連の経過を通して、『悪』とは何かを訴えていたように 私は受け取りました。
作品の最後、アーレントは、学生や教授の前で教壇に立ち、訴えます。
『アイヒマンが自発的に行ったことは何もない。善悪を問わず、自分の意思は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。
そして、
『世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです』とも。
アイヒマンがユダヤ人をガス室に送ったのは自分の意思ではなく、
『上層部からの命令だった』という主張。
その姿は、いつの時代 どこの組織にも、私自身の中にも見出すことができるといえます。
一つの組織に所属し、そこで生活の糧を得なければならない時などは、なおさらのことでしょう。
『この映画の人気は、アイヒマンは どこにでもいるからではないか』
と、鳥越俊太郎氏は語っているそうです。
『この映画は、あなたは、アイヒマンではないですかと問いかけている』
鳥越氏は、そうも 指摘しています。
「ユダヤ人指導者の中にもアイヒマンに協力した者がいた。それによってユダヤ人の犠牲が増えた」
というアーレントの記述も、非難される理由であったとされます。
私は、幼い頃遭遇した太平洋戦争末期、身近な町内会・隣組という「連なり」を思いだしました。
「国防婦人会」という組織がありました。
近所隣りに対して 面倒見の良い元気な おばちゃん達だったように覚えています。
愛国心に燃え、近隣の子ども達に対しても、親以上の もの言いをしました。
当時の国策に添い、率先して、
「竹やり訓練」「焼夷弾落下による消化訓練」など、身を粉にして活動していたのです。
私も、幼い「愛国少女」の一人でしたから、そうした愛国精神にのっとった活動は、正しい行為だと信じていました。
しかし、この愛国的行為が、情け容赦のないバッシングを引き起こしていたことも目にしました。
「戦意高揚」、「銃後の守り」に積極性が認められない人、行事等に欠席しがちな人達には、容赦のないバッシングを与えていた様に記憶しています。
男性以上に、個人的なプライバシーさえ踏みにじりました。
あれは、『非国民』という名の陰湿なイジメでした。
戦争が終わり、このおばちゃん達は、
新しい国策としての「公民活動」に携わって行きました。
「鬼畜米英」などと言っていたことなど、まったく無かったかのようにです。
「アメリカさん」「進駐さん」
などと、まるで昔からの知己みたいな口調で。
この方たちを責めることだけで済まされません。
大きな社会の「大義」(たとえ、誤っていたとしても)の前には、個人は弱いのです。
だからこそ、国家の誤った大義が、罷り通らない社会でなくてはいけないのだと思います。
私は、そのためにも
「憲法九条」を守り、
「秘密保護法廃止」を訴え、
集団的自衛権に積極的な安倍政権に、「NO」と、言いたいのです。
〈ゴマメのばーば〉
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