フローリングの冷たさがありがたいです。
こういうときは余計な情報がはいらないほうが気楽ですね。
ウチの主人ときたら
「今晩も寝苦しいでしょう」
と淡々と言ったテレビの気象予報士に向かって、
「ご親切にありがとう・・・」
と力なく答えていました。
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南の島からラム酒に乗せた夢ふくらむ
南大東島(位置はここ)で地元のサトウキビを使ったラム酒工場を(沖縄電力の社内ベンチャーで)立ち上げた女性の話です。 この中で
――ラム酒は2種類ですね。
金城 砂糖精製の際にできる「糖蜜」を使うタイプは、年中原料が手に入り、毎月約4000本の出荷ができます。糖蜜ではなく、サトウキビの搾り汁から直接作る「アグリコール」と呼ばれるタイプは、世界でも数社しか作っていないもので、毎月約1000本ずつの出荷。泡盛のようなかめ貯蔵にも挑戦したい。
ここでいわれている「アグリコール」という種類のラムは、カリブ海のフランス領(海外県)マルティニク島の特産です(だからフランス語)。
これは、さとうきび搾汁を直接蒸留にまわしたもので、砂糖結晶を分離させる工程を行わないものです(日本酒で言えば「きもと」かな)。
フランスでは製造工程についてAOC規格があります。
島の場所はここ(真中へんに"Martinique"という文字の方が大きい島です)
ちなみにこの島はサッカーのフランス代表のアンリ選手の出身地でもあります。
というよりもともとはアンリ選手からたどり着いたネタ。
ちょうどこのエントリを書いたころに、BS朝の「世界のニュース」のフランスF2でマルティニク島が盛り上がっている様子が報道されていたのがきっかけでした。
「ボツネタ」復活記念に飲み比べてみようかな。
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日本製紙が北越株8.49%取得、王子TOB阻止へ
(2006年8月3日 21:06 Nikkei Net)
製紙業界2位の日本製紙グループ本社は3日、北越製紙の株式8.49%を取得したと発表した。今後も10%未満の範囲内で買い増す。同首位の王子製紙による北越株TOB(株式公開買い付け)を阻止するのが狙いで、経営支配が目的ではないとしている。
北越の増資に応じて株式の24.4%を取得する三菱商事と合わせると、両社の保有株比率は3分の1を超える可能性が高く、王子が目指す北越との経営統合は難しくなる。北越を巡る買収戦は業界1、2位が争奪戦を繰り広げる異例の展開になった。
日本製紙(持株会社)のリリース当社子会社による北越製紙株式会社の株式取得に関するお知らせによると
当社の今般の株式取得は、経営統合等を企図した北越製紙の経営支配権の獲得を目的としたものではありません。現時点まで当社は、北越製紙および三菱商事との間で当社との将来的な関係構築に関しては、折衝、協議を行っておらず、当社の株式取得による詳細な効果の見通しは出来ませんが、北越製紙による三菱商事への第三者割当増資実施後、しかるべき時期に、当社と三菱商事・北越製紙グループの間で何らかの緩やかな協力関係を築くための協議に入る申し入れをしたいと考えております。
EDINETを見ても、大量保有報告書は出てませんから、8/1の王子製紙のTOBの前後から急いで買い集めたという事だと思います。
また、「株式取得の背景」としては以下のように説明しています。
・・・当社はこうした本件買収の進行を注意深く見守ってまいりましたが、王子製紙による本件買収の強行は、北越製紙の経営体制、従業員の生活および地域社会のみならず、製紙業界の秩序を乱す恐れがあると考え、当社の判断で今般の株式取得を実施することといたしました。
また、日本の紙・板紙市場は、洋紙事業においては日本製紙が首位、板紙事業は王子製紙がトップという形で、いわゆる2 大メーカー中心の体制がここ数年定着してまいりました。王子製紙による本件買収が成功した場合には、当社は洋紙事業規模で王子製紙に並びかけられ、連結売上規模全体で明確な差をつけられることになります。紙市場全体の大きな伸びが期待できない環境において、売上規模の格差はそのまま収益稼得機会の差となって、企業規模におけるキャッチアップ実現をより困難にする恐れがあり、本件買収は当社の著しい不利益となる可能性があり、当社としても看過できない事態であると認識しております。
つまり10%を取得する事が、後段の本音(株主への投資の正当性の根拠)である「王子製紙のTOBを成立させたくない」を実現するとともに、前段の「義を以って助太刀いたす」というポジションを取ることで、あわよくば北越製紙=三菱商事の提携に一枚かもう、と意図しているということですね。
これに対して、北越製紙は日本製紙株式会社による当社株式取得に関するお知らせで
当社としては、このたびの日本製紙グループによる本お知らせは、当社の労使の相互信頼関係を重視した自主独立経営、中長期的視点による効率的な経営、地域社会への貢献等にご理解、ご賛同をいただいたものと考えており、かかるご理解、ご賛同も踏まえて、今後共、自主独立経営による当社の企業価値の確保・向上に努めてまいります。
と、「勝手に助太刀するのは構わないが、恩に着たりはしないよ」というスタンスです。
今後の展開を私ごときが予想しても仕方ないですが、日本製紙の市場での買い集めが成功すれば、TOBが成立したとしても王子製紙が2/3を握る事は不可能になります。
ただし、まだ王子のTOBの成立の可能性がありますので、その場合は、王子製紙50%+α、三菱商事22.4%、日本製紙10%という「3すくみ」の株主構成になり、上場廃止基準にも抵触する、という、北越製紙の経営陣にとっては悪夢のような状況になります。
また、TOBが不成立の場合も、三菱商事のほかに日本製紙も大株主に加わることになり、この場合でも北越の主張である「経営の独立性」を維持するのは苦労しそうですね。
最後に素人の疑問と感想
1 日本製紙の「取得意向表明」は「風説の流布」にはならないのか
今回の発表により、株価がTOB価格の800円以上に上昇してTOBへの応募が行われにくくなる可能性があります。
しかし、日本製紙は「10%未満」という上限をつけていますので、10%を買いきってしまった時点で(他にも参入者が出てこない限り)一般株主には再度王子のTOBに応募するインセンティブが働くわけです。
となると、日本製紙は満腹になったことを悟られないのことが大事で、となると、TOB期間の最後ギリギリまで「10%になりました」という大量保有報告書は出さないような買い方をする必要があります。
「10%買う」といって10%買うのであれば風説の流布にはならないのかもしれませんが、買うと言って買わないと問題があるのではないでしょうか。
日本製紙は既に8.49%取得しているので、それだけでも「10%未満」は満たしています。追加取得を宣言した残り1.5%の枠の中でどこまで追加取得すれば風説の流布と言われないのでしょうか。
(そもそも日本製紙はそんなセコいことを考えてないのかもしれませんし、また当然事前に弁護士に確認しているでしょうから証券取引法上も問題ないことなのかもしれませんが)
2 三菱商事=北越製紙と日本製紙の間での合意は本当にないのか
三菱商事と日本製紙が、王子の統合提案に反対という「共同して株主としての議決権権利を行使することを合意」していたとすると、改正後の金融商品取引法では「第三者割当増資+1/3をまたぐ市場買い付け」を一定期間内に実施するにはTOB規制がかかります。現行証券取引法ではたとえ合意があったとしても違法ではないのですが、「駆け込み」という批判をかわすために、あえてこういう形をとった、というのは勘ぐりすぎですかね。
3 弁護士事務所
既に北越、王子、三菱商事という当事者がいてそれぞれに弁護士を雇っているはずですから、今回日本製紙が参入すると、少なくとも4つの事務所が登場することになります。
大手弁護士事務所の数がギリギリですね(噂では北越は超大手(弁護士100人超)とは違うところを使っているようなので、まだ1社くらいは参戦できるかもしれませんが)
これで訴訟でも起きて、西村ときわとあさひ狛の合併が延期になったりして・・・
王子製紙がTOBに踏み切りました。
公開買付けに関するお知らせ (*1)
三菱商事への増資撤回が実現しなかったのですが、それを勘案しての@800円へのTOB価格の修正も従来からの主張の延長線上なので、特段違和感はありません。
「十分働きかけたがやむをえず」というポジションをとることができていますし、よく考えられたシナリオだとは思います。
ちょっと違和感があるのが、これが「敵対的買収」かどうか、ということが論点として強調されすぎているように思えることです。
「敵対的買収」というのは「現経営陣が賛成しない」(=現経営陣に対して敵対的)というだけで(買収防衛策の発動の可能性が高まるという関心はわくものの)、買収提案の妥当性についての評価と直接に関連するものではありません。
買収提案が現経営陣の主張よりも会社経営にとってプラスであるならば、会社(のステークホルダー全体)にとっては悪い話ではないわけです。(逆にいえば「友好的買収」が買収対象会社の株主(or従業員)の犠牲のうえに成り立っている、ということもあり得ます。)
つまり、一般の株主にとっては、買収が敵対的であろうとなかろうとあまり関係はなく、買収提案に乗って将来価値を含んで評価された株価で株を売るか、現経営陣による将来の業績向上の方が株価の上昇を見込めるとして反対するかのどちらかを判断すればいいわけです(*2)。
ただ問題は、株主が買収側・対象会社側双方の提案を比較しようとしても、共通の物差しがない(または将来の見込みについての客観的な比較自体が不可能)なために、それが容易ではないことです。
そしてそのとき必ず使われるのが
「企業価値」
という言葉です。
「当方の提案が企業価値をより高める事になる」というように、客観的な物差しがない中で決め台詞やマジックワードとして使われています(*2)。
なんかこれって、最後に
「根岸の里の侘び住まい」
とつければそれっぽい俳句ができてしまう、というのに近いですね。
狂歌であれば、下の句に
「それにつけても金のほしさよ」
をつける、というのもあります。
あ、それではホンネを出しすぎか・・・w
おあとがよろしいようで・・・
(*1)
以前から思っていたのですが証券取引法の「公開買付け」という用語の送り仮名の振り方は正しいんでしょうか。普通は活用語尾を送るので「公開買い付け」と書くか、字数を略して漢語風の専門用語的に「公開買付」としたほうが違和感がないのですが。 正しい日本語に詳しいらしい花岡信昭氏だったらなんと言うのか伺ってみたいです。
(*2)
月曜に法学協会の「買収防衛策の現状と残された論点」というセミナーに行ったのですが、そこでもTOBをかけられたときに「株主総会(集会)決戦型」の防衛策について、神田秀樹東大教授は「TOBというのはいわば買収側による株主総会であり、その最中にもう一つ株主総会を開く」というのは違和感があるという指摘がありました。
(*3)
同じく上記セミナーでつっこまれた神田先生は、経済産業省の「企業価値研究会」は当初「買収防衛研究会」という名称にしようとしたが、企業買収にネガティブなイメージを与えるとの理由で変更になった。防衛側も買収側も目的を「自分のため」と言ってしまったらステークホルダーの賛同を得られないので「企業価値」という表現を使う、いわば「困ったときの『企業価値』なんですよね」とおっしゃっていました。
お酒と同様、本にも「熟成」が効果的な場合があります。
買ったはいいけど何となく読む気にならずにしばらく放っておいた本を久しぶりに読んでみると、思った以上に味わい深いというやつです。
今回読んだのは『道のはなし』出版が1992年なので、14年もの。かなりな古酒です。
しかも、引越しなどを生き延びた強運の持ち主とも言えそうです(古本屋送りにならなかったのも何かの縁でしょう)
著者は建設省、道路公団の技術者で、1925年生まれ。
若手の頃には、大磯に通う吉田首相が国道一号線の戸塚踏切の渋滞に業を煮やし、後に「ワンマン道路」と言われたバイパスを作るときの意味付けのための交通量調査の報告書を作成したなどというエピソードも書いてあります。
※ちなみにその頃は「渋滞」という言葉は使われていなかったらしく、上の調査報告書でも「連続的滞留」という表現になっていたとか。
本書は、こういうベテランの技術者が、「道」について研究したり興味を持ったりしたことを、道の歴史、技術、世界の道(ローマの道からアウトバーンまで)、道に関連する文化など、幅広く語っています。
中でも面白かったのが、律令時代の古代路と現代の高速道路の類似。
律令時代には奈良、後に京都と本州・四国・九州の国府をつなぐ官道が作られました。
東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道です(これを「七駅道路」といいます)。
当時の30里ごとに駅が設けられ、駅馬が置かれ、都と地方の連絡に重要な役割を果たしました。
この道路は、平安時代の末期には衰退してしまったのですが、現代の高速道路と共通する部分が多々あります。
① 七道駅路の総延長が6500kmと、北海道を除く高速道路の総延長とほぼ同じ
② 路線構成もほぼ同じ
③ 七道駅路の「駅」と高速道路のインターチェンジの場所もほぼ重なる
日本の全国的な道路ネットワークとして有名なのは、江戸時代の街道であり、その後明治政府が整備した国道ですが、いわば「最初と最後」にあたる七道駅路と高速道路がそれらと違うところを同じように通っている訳です。
(具体例はこちらをご参照)
その理由を著者は次のように推測します。
① 古代路は地方の国府との連絡を早くするため、経路は出来るだけ直線的に設定された。
② 古代路の当時は海沿いは低湿地で、通りにくかった。
③ 一方で江戸時代の街道は、幕藩体制下で、各藩の主要都市をつなぐように形成された(そして、その頃は埋め立てや干拓が進み、海沿いに町が形成されるようになっていた)。
④ 明治以降の国道も街道を踏襲して整備され、そのために市街地が更に発展した。
⑤ 高速道路は長距離移動のためにできるだけ直線的に設計される。
⑥ 用地買収の都合上も、市街地を避けた方が建設費が安くなる。
こういう理由でいわば「先祖がえり」が起こったというわけです。
古代の道についてはかなり詳しく触れられていて、
土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し(『魏志倭人伝』)
皇師兵をととのえて、歩より龍田へ趣く。而して其の路嶮しくして人並行くを得ず(『日本書紀』巻三、神武天皇の章)
という、けもの道同然の時代から徐々に整備されていく様を歴史書や紀行文、物語などをもとに近代まで(日本書紀、万葉集、日記文、今昔物語から、朝鮮通信使の記録、ケンペル、シーボルト、イザベラ・バードの紀行文まで動員して)詳しく説明してくれています。
面白いのが
雄略天皇の14年(西暦500年頃)に「呉(=中国南朝)の客の道を為(つく)りて、磯歯津路(しはつのみち)に通(かよは)す。呉坂(くれさか)と名(なつ)く」
推古天皇21年(613年)遣隋使の帰国に同行した隋の使節を迎えるために「難波より京に至るまでに大道を置く」
孝徳天皇の白雉4年(653年)百済・新羅の使節を迎えるときに「処々の大道を修治(つく)る」(以上、『日本書紀』)
という道路整備の歴史。
時代が下って徳川時代にも、朝鮮使節の来朝に際して道路や宿所を普請し、戦後は東京オリンピックのときの首都高速道路をしている事を指し、著者は外国からの賓客の来朝を機会に道路を整備するのが日本の伝統になっている、という指摘しています。
確かに各地に「国体道路」なんてのもありますしね・・・