一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

読者(私)もわかっちゃいない(その6)

2006-08-18 | 乱読日記

このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。


「幻想と真実は交換できない」  

ご覧のとおり「自立」という言葉は、「隷属」がそうであるように、ともに同じ社会を構成している他者との関係の中でしか意味を持たない。

苦々しい事実ではあるけれども、経験が私たちに教えるのは、生きているあいだに「経済的自立・精神的自立」を効果的に達成するためには同時代の人々の支援が不可欠であり、それは言い換えれば、同時代の人々を共軛(きょうやく)している幻想や偏見に対する「寛容」が不可欠ということである。  

「霞を喰って生きる」というモデルはあるわけですが、難易度は相当高いですからね。
「経済的自立を達成してはいるが精神的自立を達成していない人」というのは、逆に自分の持つ幻想や偏見を共有することを他人に強要したり、既存の幻想への過剰な思い入れ(最早IPO長者のタブーとして有名になりつつある「馬主」「フェラーリ」など)や自分だけの特別な幻想への依存(宗教家・スピリチュアルなんとか・整体師etc)をすることがあるようです。
まあ、それができる程度に経済的自立をしているのであれば立派ともいえますが。



「『セックスというお仕事』と自己決定権」

知識人のピットフォール(筆者注:落とし穴)は「自分が同意することは『正しいこと』でなければならない」という思い込みにある。「理論的に正しくないことでも実践的には容認する」という市井の人の生活感覚との乖離はここに生じる。

本論の方は抜粋だけで代表させるのは気が引けたので、興味のある方は読んでください。

この指摘は評論については正鵠を得ていると思います。
ただ、商売・ビジネス・銭儲けの世界では、
「理論的に正しくなく(しかも感覚的にもどうだ?という行為を)実践的に容認するためにその実践が正しい、という理論を構築する」
というさらに上を行く(不健全な?)行動がままみられませんか?

バブル期の投資行動とか、不良債権先送りとか、TOB合戦における価格釣り上げとか・・・



「話を複雑にすることの効用」

「私は間違っていました」という涼しい宣言がどれほどものごとの進行を促進し、「私は間違っていない」という暑苦しい固執がどれほどものごとの進展を妨げるかについてはみなさんだって経験的に熟知されていることと思う。

「三人寄れば文殊の知恵」という言葉がある。
これは意見の違う人間が三人集まると、もっとよい意見になるという意味ではない(ふつう、意見の違う人間が三人集まると、さらに収拾がつかなくなる)。
そうではなくて、「私の主張は間違っている可能性がある」という前提に立つ人間が三人集まると、間違った決定を下す確率が劇的に減少するということえお、このことわざは意味しているのである(たぶん)。

「私の知性のどのへんがうまく機能していないのか」を点検することは、「私の知性はどれほど素晴らしく機能するか」をショウオフすることよりずっと優先順位の高い仕事である。ほんとうに適切な知的パフォーマンスを求めている人は、まずおのれの「バカさの点検」から仕事を始めるはずである。

学者、知識人の議論においてはその指摘は正しいと思いますが、凡人の集合体の会社組織内部の議論では、「そもそも意見をもっていない」というスタンスを取る人が参加することが事態をややこしくします。
つまり議論の結果に「知的パフォーマンス」を求めるのでなく「政治的パフォーマンス」を求める人ですね。
そういう人だけが三人集まると、混乱どころか何も進みません。
(そういえば、10年程前にアメリカの国内線の通販で"Executive Yes Man"という商品がありました。頭を叩くと"ego-boosting comments"を言うヘラヘラしたビジネスマンの顔をした卓上用の人形です。"I'm completely agree with you." "Oh that's what I want to do."とかを連発してくれます。思わず購入しそうになりましたw)

また逆に、商談・契約交渉の場だというのに合意形成はさておいて「自説の正しさ」を頑なに主張する人もいます。
それが契約書における用語の使い方くらいならいいのですが、瑣末な論点に(しばしばその論点を自分が発見したということを主たる理由として)固執して「これが解決するまでは次には進まない!!」などと力まれると疲れます。

あんまり鬱陶しいと、こちらも「花を持たせてさしあげるかわりにどこで実を頂戴しようか」というモードになってしまうのでいいことないと思うんですけどね・・・

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「ここがアメリカだ、ここで刷れ」

2006-08-17 | 乱読日記

月曜日(多分)NHKの朝のニュースで、フィリピンの1ペソ硬貨をニッケル原料として日本に密輸する業者の話がありました。

元ネタはこの話のようです

1ペソ硬貨の密輸摘発  

関税局と中央銀行は6日、300万ペソ相当の1ペソ硬貨を日本へ密輸出しようとしていたコンテナをマニラ国際コンテナ港で発見、押収した。 

積み荷は銅やニッケルのスクラップと申告されており、書類によると、輸出業者はケソン市のワールドワイド・スクラップ・サプライ社で、輸出先は大阪の業者だった。積み荷は不正申告および1万ペソの持ち出し規制に違反したとして押収された。 

税関の捜査官は、中央銀行はこの数カ月、硬貨の流通量が不足しているとして硬貨を貯金しないよう市民に訴えていたが、硬貨の密輸が流通不足の原因ではないかと話している。なぜフィリピンの硬貨が輸出されるのか中央銀行は説明しなかったが、硬貨を銅とニッケルに溶解して売られていると言われており、関係者は、日本では1ペソ硬貨の場合、銅とニッケルに溶解し、残りの成分をパチンコ玉に鋳造し直していると話している。 

今回の硬貨押収は今年3度目で、2月には97万1,000ペソ、3月には20万ペソを押収している。(Manila Times)  

フィリピンの1ペソ硬貨はニッケル製らしいのですが、ニッケルの価格が高騰(ペソの価値が下落?)したために輸送・溶解の手間をかけても原材料として売却して十分利益が出るということです。 

フィリピン政府は対策としてニッケル含有量の低い新硬貨の発行も検討しているのですが、新硬貨への切替えも費用がかかりそう簡単にはいかなそうです。  

フィリピン事情のblogによると(こちらこちら参照)実際1ペソ硬貨は大量だと持ち歩きに支障が出るほど大きくて重いそうです。  


さて、硬貨はモノ自体の価値から他のモノとの交換を保証することで独自の価値を持つという「命がけの跳躍」((C)カール・マルクス)をしたはずなのですが、硬貨が貨幣としての価値より金属としての価値のほうが高くなってしまうということになると、またモノの地平に落ちてきてしまうわけです。 

その意味では硬貨は金貨・銀貨の時代(=モノとしての価値が裏づけになっていた)の残像を引きずっているのかもしれません。 
ただ金貨・銀貨の時代は悪貨により自らの価値を下げてしまう、という問題のおき方だったのが、1国の硬貨の価値がグローバル市場おける為替と材料価格の関係で貨幣としてよりも価値を持ってしまう、というのが現代的な部分ですね。  

こうなると、赤字を承知で硬貨を鋳造し続けるか、自国通貨の価値下落を正直に認めて改鋳するかという国のプライドが試さる状況になってしまったわけです。  


一方で、紙幣はどんなハイパーインフレになっても(極端な話紙幣の製造コスが紙幣の価値を上まわったとしても)、ゼロをいくつか増やした新札を刷るだけでいいので気楽です。 
(でもそんなことをするとますますハイパーインフレは収まらなくなってしまうのですが・・・)



さて、跳躍と『資本論』つながりで言えば「ここがロードス島だ、ここで跳べ」(もとはイソップの寓話で、ここでは調子が悪くてうまく飛べないがロードス島でなら高く跳べる、と言い訳をした男に対して言われた言葉だそうです。)というフレーズも有名です(『資本論』以外でもいろんな哲学者に引用されてるようです)。 

これを「問題を回避するのはやめよう/ここできちんと問題を解決しよう」という意味でなく「ちゃんと飛べるのであればそこをロードス島にしてしまおう」と逆に読み込み、自国をアメリカに見立ててドル札を刷った国がある、という話が 『ウルトラ・ダラー』です。  

既に話題になっている本ですが、確かになかなか面白かったです。

筆者は元NHKアメリカ総局長ですが、様々な取材をもとにしたと思われる精巧なドル紙幣を偽造するための仕組みやそれを取り締まる側の行動がリアルに描かれています。
ただしサスペンス小説としてよりノンフィクションとして読んだ方が楽しめます(最後の部分、ちょっと慣れない小説をやりすぎてしまった感じがします)。  


ところで本書にも記載があって驚いたのが、精巧な偽札だと額面の80~85%くらいで取引されるということ。(参考事例はこちら) 

それだけ精度が高い(換金リスクが15~20%より低い)ということなんでしょうか。 
それとも、偽札の対価が真札ということはないでしょうから、偽ドルを買い求める人のドル紙幣の入手困難度(逆に言えば対価として支払われる通貨価値の不安定さ)分のプレミアムが反映されているのでしょうか。  

  

同じ紙なら自国通貨じゃなくドル札を刷った方が儲かるじゃないか、とある意味論理的に身もふたもなく考えた北朝鮮 
一方、正規のものだからと延々とドルを刷り続ける(国債を発行し続ける)確信犯のアメリカ  

両者とも「ここがアメリカだ、ここで刷れ」と印刷機をじゃんじゃん回しているわけです。   


それに比べると 「モノとしての価値」の方がはるかに上回る貨幣を鋳造し続ける愚直まじめなフィリピンは好対照ですね。  



ちなみに、日本の1円玉はアルミニウム製で、製造原価が1円より高いという記憶があり、ググッて見たところ 製造原価は2円 という説やアルミの原材料費だけだと0.7円 という説がありましたが、まだ鋳潰して原料にするのはペイしない水準のようです。







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読者(私)も判っちゃいない(その5)

2006-08-16 | 乱読日記

このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。


「『嫌いなこと』を言葉にできない人に未来はない」  

「訓練を受ける」ということは、「まだ訓練を受けていない段階」であるにもかかわらず、自分が受けようとしている訓練について、「どの師、どのシステムが最も優れているか」を判定しなくてはいけない、ということを意味している。
自分がまだ習っていないことについて、自分ができないことについて、何も知らない段階で、「誰が師事するに足る人であり、誰が師として不適であるか」を見切らなくてはならないのである(それが「おのれの不能を言語化する」ということの一つの実践的な形である)。  

そうはいってもそれを実践することが難しいので、有名校・一流校志向が生じ、志望者が増えれば優秀な学生が多く集まることでさらにステイタスが上がるという好循環ができているわけですね。

その意味では、大学(学部)を卒業してから自発的に何を学ぶかが大事、ということでもあると思います(自戒と山ほどの反省をこめて)



「自立のために知っておくべきこと」

自立というのはある意味では単純なことだ。 
それは要するに「バカな他人にこき使われないですむ」ことである。    
(中略)
「どうしたらバカな他人にこき使われずにすむか?」という問いを切実なものとして引き受け、クールでリアルな努力を継続した人間だけが、他人にこき使われずにすむ。  

バカな他人にこき使われないようにと考えた結果がバカな自分にこき使われているだけだった、ということがあります。
でも、精神衛生上はそのほうがいいことは確かです。 

また、バカな他人にこき使われても、それが資金やノウハウを貯める将来の「自立」につながるなら、それも否定したものではありません。  

ただ、問題はそういう環境の中でも居心地のよさを見出してしまうことなんですよね。



「身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない」  

自分に対する敬意というのは、第一に自分の身体に対する敬意というかたちをとる。
それは身体が発信する微細な身体信号を丁寧に聴き取り、幻想的な快感を求める脳の干渉を礼儀正しく退けることから始まる。私はそういうふうに思っている(脳は徹底的に自己中心的な臓器であって、自分以外の臓器や身体部位の保全や健康をまったく斟酌しない)。 自分の身体がほんとうにしたがっていることは何か(休息なのか、活動なのか、緊張なのか、弛緩なのか・・・)、身体が求めている食物は何か、姿勢は何か、音楽は何か、衣服は何か、装飾は何か・・・それを感じ取ることが自分に対する敬意の第一歩であると私は思う。

「脳でなく身体が求めているものを感じ取る」というのは非常に難しいと思うのですが、歳をとったせいか「身体は何を求めてはいないのか」はわかるときがあります。 

ただそれは、身体の不健康のせいか、はたまた脳の力が衰えた結果身体に干渉する能力が弱まったせいだとしたら、ちょっと悲しいですが・・・

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スペインの8月15日

2006-08-16 | よしなしごと
今朝のNHK BS「世界のニュース」でのスペインのテレビ局の番組から。

スペインでは8月15日は全国で一番お祭りが集中する日なんだそうです。


その中で取り上げられていたのが、港で船からアヒルを海に投げ込んでそれを捕まえる、というお祭り。
(リンク先や画像は時間がなくて検索できませんでしたm(_ _)m)
捕まえた人は持って帰れるようです。
日本だと餅を投げるというのはありますが、お国柄なんでしょうね

ところがこれが、動物愛護団体から虐待だ、と非難を受けているとか。

でも、地元の人は「もう86年も続いているし、別にアヒルを海に落としたって死ぬわけじゃないしねぇ」と困惑気味、と、TVも地元の人寄りの報道でした。

86年というのは「伝統」というにはちょいと短いようにも思えるのですが、「アヒルは溺れない」というのはもっともな話です。


そして、そのあとのニュースが

「8月15日は闘牛も数多く開催され、牛も負けじと祭りの主役を務めました」

というもの。



これこそ動物虐待なのでは・・・



世界にはいろんなものの考え方があるということがわかる、という意味では8月15日にふさわしいニュースだったかもしれませんね。
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読者(私)も判っちゃいない(その4)

2006-08-15 | 乱読日記

このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。


「オリジナルとコピー」  

テクストの「意味」は、文言それ自体ではなく、そのテクストがどのような文脈のうえに置かれるかによって決定される。どの文言をどのようにコピーするかということにおいて、すでに人々はそのオリジナリティを発揮し始める。だから、仮にある人が私の書いたものを丸写しして本を出しても、その引用箇所の意味は、私の本の中に置かれていたときとまったく別のものとなっているだろう。

お言葉に甘えてます。
そして、ろくでもない「別物」の見本を晒しております^^;



「『自分らしく』あるのは当然か」  

政治的状況において、「私」を固定的に設定すると、選択しうるオプションは減少する。だから、政治的人間は、システムにとっての最適選択をするために「私」をできるだけ固定化しないように努める。アイデンティティの維持よりシステム維持の方が自分にとっても「みんな」にとっても優先順位が高いからである。アイデンティティというものは、システムの「事後的効果」にすぎない。そのことを知っているのが政治的人間であり、広い意味での「大人」である。

たしかにそのとおりだと思いますが、世の中にはそういう「大人」はけっこう少なくて、システムにとっての最適選択をするためでなく自分にとっての最適選択をするために「私」を固定化しない人(「イエスマン」とか「茶坊主」などと言われますね)や、アイデンティティ=システムと思い込んでいる企業戦士系の人とか、実際にそうやって企業経営をしているオーナー会社もけっこう多いように思います。

よく聞かれる「俺は会社のためを思って言って(やって)るんだ」というセリフ自体がアイデンティティの維持を優先しているのかもしれません。(自分も気をつけねば・・・)



「後悔、後に立たず」  

「魔がさして」一線を踏み越えてしまう人というのは、「踏み越えたい」から「踏み越えた」のであって、誰も彼にそれを強制したわけではない。潜在的欲望をご本人同意のもとに顕在化した、というだけのことである。 私はそのようなものを「後悔」とは呼ばない。

私は頭の中に常に邪(よこしま)な考えが渦巻いている人間で、行動の基準は「どの『魔』をさすか」「今回は自重するか」というレベルでしかなく、本件については「おっしゃるとおり」と言うしかありません・・・



「論理的な人と理屈っぽい人」  

「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ=ストロースはこれを「プリコラージュ」と称した)。
(中略)
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。

クレームを言われる方の中には「理屈っぽい人」も多いのは事実だと思います。 
そして、クレームをリスクにまで発展させてしまう企業にも「理屈っぽい人」が多いのではないかと思います。

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送電経路の機密性

2006-08-15 | よしなしごと

今朝はいきなり我が家も停電してしまいました。

最初はブレーカーが落ちたかなと思ったら、近所中停電でした。
仕方がないので顔だけ洗って、電車が動いているかダメならバスにしようなどと考えながら歩いている途中に復旧しました。
信号が消えていると「付近一帯停電」というのを実感しますね。

さて、停電の原因は江戸川の事故だとか


首都圏139万世帯停電 交通網ストップ 3時間後復旧
(2006年 8月14日 (月) 17:28 産経新聞)  

14日午前7時40分ごろ、東京と千葉、神奈川で約139万世帯の広範囲な停電が発生した。
(中略)
この日朝、東京都江戸川区と千葉県浦安市の間にある旧江戸川で船に積載したクレーンが送電線に接触する事故が起きており、東京電力はこの事故が原因と断定した。

東電によると、停電は東京都大田区、世田谷区、江東区などのほか、千葉県浦安市と市川市、神奈川県川崎市北部と横浜市青葉、緑両区などに及んだ。


別ルートで送電再開 復旧までは短時間 首都圏広域停電
(2006年 8月14日 (月) 13:46 朝日新聞)  

接触事故が起きた送電線は、2番目に高い電圧の送電線だ。首都圏の需要をまかなうために、大規模な送電を担っている重要な送電線だった。この送電線のすぐ上流部は1次変電所がループ状に整備されているが、事故で首都圏に70カ所ある1次変電所のうち5カ所で、過電流から設備を保護するための装置が働き、送電を遮断した。  

電気は、各変電所の下流部にある2~4次の変電所を通して、通常の送電線の6600ボルトまで下げて配電することになっている。送電を遮断した1次変電所の下流部の変電所でも同様に保護装置が働き、一時的に電流が遮断された。この影響で、都内だけでなく千葉、神奈川各県にも停電が広がった。  

一方、東京電力では送電線事故など送電トラブルを回避するために、主要送電線をループ状にするとともに、各変電所間も網の目状に系統を展開している。このため、別のルートで送電するよう順次切り替えることができた。ただ、復旧は、担当者が各変電所で安全を一つ一つ確認しながら手動で行うため、それなりの時間がかかった。


報道は「報道の使命」とかがあるのでしょうが、テロ対策を考えると、「どこを遮断するとどこが停電する」というような送電経路の情報はあまりオープンにできない、というあたりでこの程度の公表になったんでしょうか。

アメリカでは電力自由化が進んでいて、電力会社間の余剰電力の取引なども盛んなようですが(エンロンも本業はそれでしたよね)、そうなると、安定性やロスの問題がるので送電経路の問題はけっこう大きなポイントではないかと思うのですが、そういう取引にも格付けとかファイナンスがあるとすれば、情報開示の問題と、もう一方のアメリカの得意技"National Security"の問題はどういう風に交通整理しているのでしょうか?


それともそんなに神経質になる類の話ではないのかな?

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読者(私)も判っちゃいない(その3)

2006-08-14 | 乱読日記

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「『いまどきの若い者について』と問われて」

枕詞というのは、それを「まくら」に振ると、そのあとの文がよどみなく出てくるという便利な仕掛けだから、ストックフレーズを開陳するには大変具合がよろしい。だが、独創的な見解というものが枕詞から導き出されることはまれである。

もうかれこれ20年以上前の若造の頃に教わった話で「最初の一言が大事」というものがあります。
たとえばある人物コメントするときに、「あの人はすごいひとだ」で始めるとほめ言葉がすらすらと出てくる反面、同じ人物について「あいつはダメだ」で始めると、悪口がとめどなく出てきてしまう、ということです。
なので、自分で発言する場合には「最初の一言」が大事だし、マーケティング上も最初に出てくる言葉(=その人や物を代表するフレーズ)をpositiveなものにすることが、大事だったりします。

そういう点では「敵対的買収」というフレーズは、経営側にとって有利な用語ですね。(昔の中国では敵対側のフレーズとして「造反有理」というようなピリッとした言葉がありましたが、「企業価値の増大」だとちょっと長いですw)



「正論を信じない理由」  

正論家の正しさは「世の中がより悪くなる」ことによってしか証明できない。したがって正論家は必ずや「世の中がより悪くなる」ことを無意識に望むようになる。
「世の中をより住みやすくすること」よりも「自説の正しさを証明すること」を優先的に配慮するような人間を私は信用しない。  

企業内でリスク管理とかコンプライアンスに従事する人の場合、何かあったときに「だから俺の言ったとおりじゃないか」といってもそもそもの企業が傾いてしまっては元も子もないというところがつらいですね。
顧問弁護士やコンサルタントのような社外の人でも「私の意見が無視された」と無責任な言動を繰り返すだけでは他の仕事につながるかどうかは微妙です。

つまり、運命共同体のところが単なる「正論家」との違いではあります。


ただ、「私の言うことを聞かなかったらどうなっても知りませんよ」というつまらない脅しをかける「悪いリスク管理担当者」もいるわけで、そうなってしまうと正論家よりたちが悪いですね。

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キムチ心太

2006-08-13 | 飲んだり食べたり
心太(ところてん)をもらいました。

太いままのものがパックになっていて、付属の突き棒でニョロっと押し出すタイプです。
イメージ図

タレに黒酢とマスタードがついていたので、冷麺に見立ててキムチをまぜて食してみました。

けっこう美味でした。

涼しい食感、ピリッとした辛さのうえにお腹にもたまらないので夏の昼下がりなどにおすすめです。
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読者(私)も判っちゃいない(その2)

2006-08-13 | 乱読日記

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「学歴が知性の指標にならない時代」

失礼を顧みずに申し上げるが、人間の「知的資源」には、先天的個人差というものがあって、いかに巨額の教育投資をしようと、周囲の支援や強制によって開発できる人間の能力はそのうちごく一部にすぎない。人間がその潜在能力を爆発的に開花させるのは、「やりたいことをやっている」場合だけである。

インターネットの発達も、ハッカーやポルノサイトや出会い系など「邪(よこしま)」ともいえる動機によるところが大きいわけですし。


ちなみに、「やりたいことがわからない」という人については、別のところ(これは職業選択の話ですが)で以下のように言っています。

はたから見て「好きなことをやっている」ように見える人間は、「好きなこと」がはっきりしている人間ではなく、「嫌いなこと」「できないこと」がはっきりしている人間なのである。
自分がなぜ、ある社会的活動について、嫌悪や脱力感を感じるか、ということを丁寧に言葉にしてゆく作業は自分の「個性」の輪郭を知るためのほとんど唯一の、きわめて有効な方法である。

まあ、普通は逆をやっちゃうんですけどね。



「読む雑誌がない」

仕方がないので、朝日新聞を読んでいる。
別に私のためのメディアであると思っているわけではないが、誰のためでもないようなので、疎外感だけは味わうことがない。

私も朝日新聞を読んでいます。

でもそれは、読売(巨人)新聞が読みたくない、というのが主な理由です。
こういう「やりたくないこと」はすぐわかるのですが。

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読者(私)も判っちゃいない(その1)

2006-08-12 | 乱読日記

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「教養喪失と江口寿史現象」

「教養」の深浅は、自分の「立ち位置」を知るときに、どれくらい「大きな地図帳」を想像できるかによって計測される。

ウチダ先生の若い頃は「今の自分と同年齢の昔の人」に対しても共感や嫉妬を覚えていたのに、今の学生は、同学齢集団しか比較対象にしない。そのため集団全体の学力が低下していても、自らの相対的位置が変わらない限り安心している、という話がマクラにあります。
大学の工学部で教えている友人も、1年生の最初は高校の物理の復習をやっている、と言ってましたので学力の低下は確かにあるようです。

ただ「狭い集団を比較対象とする」というのは今の学生に限ったことではなく、企業における出世競争とか、業績における「ベンチマーク」の設定などでも陥りやすいですね。



「バーチャル爺のすすめ」

明治にあって二十一世紀になくなったもの、それは「早く爺(じじい)になりたい」という願いである。若者が「早く爺になりたい」と願うのは、日本古来の伝統のひとつだったのである。
 「自分は若い」という想定は、すなわち「自分は現在の社会制度の諸矛盾については責任がなく、むしろ被害者である」という自己免責につながる。

夏休みの旅行前に美容院に行って髪をかなり短くしました。 そのとき「ちょっと白髪が・・・」「いえ、全然気になりませんよ、ちょっとあったほうがいい感じでは?」などという会話があって、「じゃあ、いっそのこと全部真っ白に染めて前髪を立たせちゃったりするのはどうだろう?」などと話して盛り上がりました。

しかし、もしそれを実行した場合、それが(私の今の仕事においては)非常識な行為であるだけでなく日本の知的伝統に反するものであるとまでは思い至りませんでした。



「本が読む」

だから、「私が本を読む」というのは、いささか自己中心的な表現だと私は思う。 本が私を選び、本が私を呼び寄せ、本が私を読める主体へと構築する。

人との出会いなども似たようなところがありますね。

いたずらに名刺を配るだけではだめなわけで・・・

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内田樹『子どもは判ってくれない』

2006-08-11 | 乱読日記
今週の通勤用図書はウチダ先生の『子どもはわかってくれない』

文庫本で、しかも収録されている評論も短い物が多く、それぞれに切れ味を見せているので、立秋を越え残暑のこの時期にいいのではと。


当初編集者の企画は大人の若者への「説教本」という企画だったようですが、

「説教本」は実は「大人のために書かれた若者の悪口本」である。
このように価値観の違う人に対する「説教」が実は同一の価値観をもった人の中を循環する(説教になっていない)ところに問題があるのではないか、と切り返します。


そしてスペインの哲学者オルテガ=イ=ガゼーの「弱い敵と共存する」(=「強い敵」なら共存せざるを得ない。一方自説の正しさを主張する人などは自分と価値観を異にするが強大ではない「不快な隣人たち」を勘定に入れたがらないことが多い。しかし市民としての責務はほとんどの場合そのような「不快」の存在を認め、それに耐える事である)をキーワードにし、

若者に対して大人という「不快な隣人」をまず認識するために「『大人の思考と行動』とはどういうものかについて、『若者たち』に人類学的リサーチレポートを提出する」ことを本書のテーマにする、と宣言します。
(「たいへんに長いまえがき」)


とはいえ元が2001年から2003年までのウエブサイトに掲載されたものなので、一つ一つの評論は独立しています。


そこで、これからしばらくこの本を読み進むと同時に、それぞれの評論についてピンときたフレーズ(本論とは関係ない部分も含め)に一言コメントをつける、ということをやってみたいと思います。

多分それらは内田センセイの意図、それぞれの文章のポイントとは違った部分についてのコメントによる妙な脱線ばかりになると思いますが、まあ、私の読み方なんてこんなもんだ、という見本帳として。


名づけて「読者(私)も判っちゃいない」シリーズ

ネタの夏枯れ対策などとおっしゃらずにご笑納ください^^









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TBSと楽天の業務提携の進捗について

2006-08-10 | 余計なひとこと

まずは(出遅れた感がありますが)亀田興毅選手のタイトルマッチについて。

翌日のテレビでのダイジェスト(ダウンのシーンや押し込まれているシーンが中心)でしか見ていないので、実際どっちが優勢だったかはわからないのですが、多くの人は判定を「微妙」と思ったようです。

これについては判定への疑問や「出来レース」疑惑がささやかれているのですが、出来レースがあったとすると

① 対戦相手と話がついている(要は八百長)
② 審判に因果を含めている

の2つが考えられます。
ただ、もし①ならそもそも今回のように判定でもめるようなことにはなっていなかったはずです(亀田選手が、相手が思っている以上に弱かったのでこのようになった、ということは理論的にはありえますが)。
また②だとすると「亀田選手が少なくとも五分の戦いはする」という前提がないと「工作」は成り立たない(亀田選手がKO負けしてしまったら元も子もない)わけです。
でも、そんな前提で「工作」するのは間が抜けてますよね。

なので、亀田選手サイドに対しては「前評判ほど強くなかった(すっきり勝てなかった)じゃないか」という評価はされても仕方ない(="Big Mouth"の宿命)と思いますが、それ以上の文句を言うのは酷かと思います。

WBAは判定ルールのわかりにくさと「父親へのチャンピオンベルトの用意」などという配慮が公正さを疑わしめたという部分はあると思いますが、それ以上に審判の判定の公正さを疑わせるような配慮をしても得るものがないのではないかとも思います(日本の軽量級のタイトルマッチがそれほどドル箱なんでしょうか?)。

わからないのがTBSです。
大晦日に恒例のレコード大賞を1日前倒しして、亀田選手の「初防衛戦」の中継を予定していたとか。

なぜ亀田選手が世界チャンピオンになるという確信が持てたのか?
負けていたとしたら一体どうするつもりだったんだろう?

というところが「TBSが仕組んだのではないか」という疑惑のもとになっているように思います。

私もTBSが「大晦日勝負」をどういう根拠で決断したのか興味があります。
上で述べたように、「審判員への工作」があったとしても不確定要素が残るわけで、大晦日に勝負をかけるにはリスクが大きすぎるような気がしますので。


それとも、工作もなにもなく「亀田選手は勝つに決まっている」と素直に確信していたのでしょうか。




そうだとするとTBSは既に相当「楽天的」な会社になっているのかもしれませんね。



おあとがよろしいようで・・・

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独立委員会の暴走?

2006-08-10 | M&A

北越製紙の「独立委員会」が買収防衛策の発動を勧告しました。
 
対抗措置発動の勧告に関するお知らせ  

王子製紙は、「本提案書における経営統合提案は、当該買収防衛策の対象となるものではなく、北越製紙取締役会が買収防衛策として一方的に定めたプロセスに、当社が従わなければならない法的根拠はいささかもないものと考えております。」旨を述べている。 
(中略) 
このように、王子製紙は、本防衛策に定める手続を遵守する意思が全くない旨を2 回にわたり取締役会決議をもって表明しているのみならず、その根拠として「法的な根拠のない」防衛策とまで述べているのである。 上記事実に鑑みれば、王子製紙が、本防衛策に従い、当委員会に対する買付説明書等の提供をする意思があるとは到底考えられず、今後も買付説明書等の提供があると期待することはできない。また、王子製紙がこのような態度に終始している以上、引き続き買付説明書等の提供を求めて王子製紙と協議・交渉を行うべき特段の事情があるものとも認められないと判断せざるを得ない。
(勧告書 第2 3「発動要件の該当性」 下線筆者)

よって、当委員会は、取締役会に対し、上記「第1 勧告の内容」記載の通り、対抗措置の発動を勧告する次第である。 上記のように、王子製紙が、本防衛策を無視し、事前の買付説明書等の提出をなさずに本公開買付けを開始したことは、当委員会の存在根拠自体を否定してのものであって、極めて遺憾であるという他ない。
(勧告書 第2 3「結論」 下線筆者)  

判断の公正を保つための「独立委員会」にしては、やけに感情的な文章だと思います。  

もともとの北越製紙の買収防衛策での独立委員会は、勧告・不勧告の意思決定のためには買収者に情報提供を求め、必要に応じて買収者と協議・交渉をするという役割が期待されています。 
(買収防衛策の抜粋を末尾に添付します。)  
その独立委員会が王子製紙のリリースを見ただけで、情報提供する意思があるとは「到底考えられず」「今後も期待できない」と一刀両断してしまっていいのでしょうか。 
また王子のTOBが「当委員会の存在根拠自体を否定してのものであって、極めて遺憾」と怒っていますが、独立委員会は株主のために冷静な判断をするのが仕事であって、礼儀作法を云々する機関ではないと思います(そもそも「独立委員会」の会社法上の意味合いについては議論もあるわけで、「存在根拠を否定された」と怒るのはいかがなものかと)。 

相手が失礼であろうとなかろうと、買収策の内容をできるだけ明らかににして株主に対して見解を示すよう最善の努力を尽くすのが独立委員会委員の義務だと思うのですが・・・   

たとえて言えば、独立委員会はいわば地域紛争における国連安全保障理事会のようなものですから「失礼だ」と腹をたてて外交努力(=情報開示を求める努力)を放棄するのは職務を果たしているとは言えないと思います。 


しかもそのうえで 

当委員会としては、取締役会に対し、当委員会の勧告に従って本公開買付けに対する対抗措置の発動を決議する際には、対抗措置発動の必要性、対抗措置発動の北越製紙または北越製紙株主等に与える影響その他諸般の事情を考慮の上、発動の時期について適切に判断されるべきものと思料する。 

というコメントを付加するのはいささか無責任ではないでしょうか。


私としては、独立委員会はこの勧告を出す前に少なくとも王子側に対して期間を定めて買付説明書の提示を求める、という「最後のチャンス」を与えるべきだったと思います。  
北越が独立委員会の勧告を防衛策発動の正当性の根拠にしようとした場合に、客観性のある(適正な手続きに基づいた)勧告と評価されない可能性があるのではないでしょうか。


PS  
実際は独立委員会の勧告の作成には(勧告の意思決定でなく「勧告書のまとめ方についての法的助言」などという理屈をつけて)北越の弁護士のアドバイスが入っていると思うのですが、それにしてはちょっと慎重さに欠けたような気がします。 
逆に、本当に独立委員会が「独立」していて、全く北越に事前予告もなく1文字の修正もなくこれが出てきたとするなら、独立委員会にプライドの高い大物をおきすぎたことの弊害が出たか、そもそも独立委員会が現経営陣のシンパだということを露呈してしまったのではないでしょうか。  



<参考:北越製紙の買収防衛策(抜粋)>  

なお、独立委員会は、買付者等が本プランに定められた手続に従うことなく買付等を開始したものと認められる場合には、引き続き買付説明書及び本必要情報の提出を求めて買付者等と協議・交渉等を行うべき特段の事情がある場合を除き、 原則として、下記(d)①記載のとおり、当社取締役会に対して、対抗措置を発動することを勧告します。
(3.(2)(b) 下線筆者)  

また、独立委員会は、必要があれば、当社の企業価値・株主共同の利益の確保・向上という観点から当該買付等の内容を改善させるために、直接又は間接に、当該買付者等と協議・交渉を行うものとします。
(3.(2)(b) 下線筆者)  

独立委員会は、買付者等の買付等の内容の検討、買付者等との協議・交渉の結果、買付者等による買付等が下記(3)「対抗措置発動の要件」に定める要件のいずれにも該当しないか、もしくは該当しても対抗措置を発動することが相当でないと判断した場合、又は当社取締役会が独立委員会の要求にかかわらず上記(c)①に規定する意見及び独立委員会が要求する情報・資料等を所定期間内に提示しなかった場合には、独立委員会検討期間の終了の有無を問わず、当社取締役会に対して、対抗措置の不発動を勧告します。
(3.(2)(d)② 下線筆者)  

(a) 上記(2)「対抗措置の発動に係る手続」(b)に定める情報提供及び独立委員会検討期間の確保その他本プランに定める手続を遵守しない買付等である場合
(3.(3)「対抗措置発動の要件」)  

なお、独立委員会の各委員及び当社各取締役は、こうした決定にあたっては、当社の企業価値ひいては株主共同の利益に資するか否かの観点からこれを行うことを要し、専ら自己又は当社の経営陣の個人的利益を図ることを目的としてはならない。
(別紙2「独立委員会規定の概要」)

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本人確認は大事

2006-08-09 | あきなひ

【ご注意】 「(株)小田急商事」「小田急トラスト」の名称にて融資の勧誘を行うはがき等について

最近、「(株)小田急商事」「小田急トラスト」と名乗る団体から、融資の勧誘を行うはがき等が送付されており、お客さまからのお問い合わせを頂戴しております。
しかしながら、「(株)小田急商事」および「小田急トラスト」は、小田急電鉄をはじめとする小田急グループならびにグループの一社である小田急商事(株)とは一切関係ございません。また、小田急商事(株)では、融資やローンの営業は一切行っておりませんので、ご注意いただきますようお願い申し上げます。

なお、同様の不審なはがき等をお受け取りになられましたら、下記まで情報をお寄せいただければ幸いです。

 小田急電鉄株式会社
小田急商事株式会社

◆小田急お客さまセンター 03-3481-0066
※音声ガイダンス3の「ご意見・ご要望」までお願いします。
受付時間 9:00~19:00(年中無休)

最近はいろんな詐欺がありますね。 旧商法下では、同一市町村内において同一の営業の類似商号規制があったのですが、現行会社法では同一住所による禁止だけになりました。
つまりこの(ニセ)「株式会社小田急商事」を登記しようとしたら、たとえば本物の「小田急商事株式会社」が東京都新宿区所在だとしたら従来なら新宿区での登記は不可能だったわけですが、会社法下では新宿区でも登記が可能になり、その分ちょっとはまぎらわしくなる可能性が増えたわけです。
その分改正によるメリット(今までは子会社を登記しようとしても類似商号規制にかかった)もあるわけなので一概に悪いともいえないですが。


世の中にはこういう隙間をついて紛らわしいことをする輩が多いので気をつけなければいけませんね。
(もっとも「株式会社小田急商事」が小田急グループだろうとそうでなかろうと、そもそも高金利(なんでしょう)で金を借りるということの是非を考えた方がいい、とは思いますが。)


こういうことが起きたときの企業側の対応も重要です。

会社法上は、商号の不正使用によるり営業上の利益を侵害された(るおそれがある)会社の侵害の停止・予防請求権(8条)と自己の商号の使用を他人に許諾した会社の責任(9条)については規定していますが、「商号を不正使用した結果第三者の権利が侵害された(されるおそれがある)場合」については特段の規定はありません。

だからといって放置しておくと、誤認した顧客や一般消費者が損害を受けるわけで、それについて法律的な責任はないとしても(※)、何らかの対応を取らざるを得なくなるわけです。

それで小田急はHPでの告知をして誤認混同を防ぐようにしたわけですね。

(※)法律上の責任とすると不作為の不法行為責任、ということになるのでしょうが、さすがに結果(そもそも「小田急グループ」と誤認して金を借りることが「被害」かどうかという論点もあります)回避のため必要な行為を行うべき法律上の作為義務があったとはされないと思いますがどうでしょうか。
余談ですが、パロマ工業のように不正改造を黙認していたという状況があったとしたら、自社と関係のないメンテナンス業者が行った不正改造だとしても、作為義務(不正改造を中止させる、ということになるのでしょうか)が認められるかもしれませんね。


また、こんな記事もありました。
こっちはホンモノの詐欺です。

りそな銀行支店長かたり預金を詐取 大阪、東京で被害
(2006年 8月 7日 (月) 10:09 朝日新聞)  

りそな銀行の支店長や行員の名をかたって個人宅を訪れ、預金集めの名目で現金をだまし取ろうとする事件が7月13日から8月4日にかけて、大阪や東京で相次いだ。分かっただけで、大阪で4件(うち系列の近畿大阪銀行1件)の被害があり、未遂も2件発生。東京でも3件の未遂があった。同行は全店で計23万枚のチラシを配り、注意を呼びかけている。
銀行員が預金集めや投資信託の販売などで個人宅を訪れることはよくあるため、同行は「不審な場合は社員証の提示を求め、支店へ問い合わせて欲しい」としている。  

でも、「不審な場合は社員証の提示を求め、支店へ問い合わせて欲しい」というのは不親切じゃないでしょうか。素人には不審に思わせない手口だから詐欺なんですから・・・

逆に社員が顧客の自宅に訪問する場合に身分証明書の提示を義務付けた方がいいと思うのですが(新聞の勧誘員はそうしてますよね)。


 ATM振り込み、現金10万円まで 金融庁
(2006年 8月 2日 (水) 23:54 朝日新聞)

こういうように金融機関は本人確認の強化をしていますが、消費者の方も営業マンなどの本人確認をきちんとする必要がありますね。


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日本語の市場価値

2006-08-08 | よしなしごと
BBC News Nepal talks 'close to collapse'  によると、ネパールの武装勢力"Maoist rebels"(「毛沢東主義抵抗運動」とでもいうのでしょうか。もはや"Maoist"は(中国を含めても)世界でここだけにしか存在しないようにも思いますが・・・)が停戦協定が崩壊寸前だと主張しているとのこと。

もともとネパールは国王の独裁に反対し毛派が10年来内戦を続けているのですが、昨年主要7政党と毛派が王政打破で合意し、6月に政府が実権を取り戻すとともに毛派の間で毛派の政権入りが合意されていました。
ところが毛派は国連による監視などについて政権側と意見が食い違い、武装解除などに難色を示しているようです。

特に目立った資源のない国(エベレスト登山くらい?)の内戦となると関心も薄いためか、日本ではめったに報道されませんね。


ところでニュースのページで目に付いたのが、左のフレームにある"languages"の欄。
見慣れない文字をポイントすると、ウルドゥー語、ヒンズー後、ベンガル語、パシュトゥー語、ネパール語、タミール語、シンハラ語などのページがあることがわかります。

ところが、日本についてのニュース、たとえば紀子さまの安産祈願の「着帯の儀」の記事を見ても、"language"のところは、中国語、ベトナム語、インドネシア語、ビルマ語とあって、日本語はありません。

もう少し調べてみると、News and audio in 33 Languagesとあり、アラビア語はもとよりペルシャ語、ウズベク語、スワヒリ語などがあるのに、日本語のサイト自体がないんですね。

旧植民地については今でも関係が深いという要素はあるのでしょうが、それ以外の言語についてはどういう基準で選んだのか興味がありますね。

失礼ながらかなりマイナーな言語まで対応しているところをみると、スタッフ不足が理由ではなさそうです。
となると日本は何らかの観点から重要度や市場価値が低いと判断したのでしょうか。
でも、ニュースではけっこう取り上げられてるんですよね。

一つの仮説が、イギリスからの距離。
東欧やアフリカは移民なども多くBBCを見ている人も多い。一方でアジアは旧植民地以外はあまりBBCのプレゼンスもない。

もう一つの仮説は逆に日本語がメジャーすぎること。
日本は国内の報道機関のネットによるニュース配信が盛んなので資本投下をしてまでマーケットを開拓するのは効率的でない。一方で、ネットの報道関係のコンテンツが充実していない(と思われる)東欧やアフリカなどはマーケット
このへん、ヨーロッパではドイツ語がないこと(ロシア語はあります)、フランス語、スペイン語やポルトガル語はそれぞれ「アメリカ」「アフリカ」のカテゴリに入っていること、アジアでも韓国語がないことがヒントになるかもしれません。



個人的には日本語があるとうれしいのですが・・・


<おまけ>
Quake risk to Chinese skyscrapers
中国の建設省の次官級の人の「高層ビルのほとんどが耐震に配慮していない」との発言をしたとか。
もっとも設計会社の反論や、そもそも過熱している市場に対する「口先介入」では、という見解も載せています。
この記事によると中国は地震が多いんだそうです。

昨年上海に行ったときの印象では、かなりの高層ビルでも窓が開くようになっていることが印象的でした。
万が一の地震のとき、耐震性能は大丈夫でも、窓からの落下物とか窓枠自体の落下(可動部分である以上壊れやすいはず)が心配です。
(東京でもそうですが)地震があったらまずは安心そうな建物の中に身を潜めた方がよさそうです。

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