このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。
「オリジナルとコピー」
テクストの「意味」は、文言それ自体ではなく、そのテクストがどのような文脈のうえに置かれるかによって決定される。どの文言をどのようにコピーするかということにおいて、すでに人々はそのオリジナリティを発揮し始める。だから、仮にある人が私の書いたものを丸写しして本を出しても、その引用箇所の意味は、私の本の中に置かれていたときとまったく別のものとなっているだろう。
お言葉に甘えてます。
そして、ろくでもない「別物」の見本を晒しております^^;
「『自分らしく』あるのは当然か」
政治的状況において、「私」を固定的に設定すると、選択しうるオプションは減少する。だから、政治的人間は、システムにとっての最適選択をするために「私」をできるだけ固定化しないように努める。アイデンティティの維持よりシステム維持の方が自分にとっても「みんな」にとっても優先順位が高いからである。アイデンティティというものは、システムの「事後的効果」にすぎない。そのことを知っているのが政治的人間であり、広い意味での「大人」である。
たしかにそのとおりだと思いますが、世の中にはそういう「大人」はけっこう少なくて、システムにとっての最適選択をするためでなく自分にとっての最適選択をするために「私」を固定化しない人(「イエスマン」とか「茶坊主」などと言われますね)や、アイデンティティ=システムと思い込んでいる企業戦士系の人とか、実際にそうやって企業経営をしているオーナー会社もけっこう多いように思います。
よく聞かれる「俺は会社のためを思って言って(やって)るんだ」というセリフ自体がアイデンティティの維持を優先しているのかもしれません。(自分も気をつけねば・・・)
「後悔、後に立たず」
「魔がさして」一線を踏み越えてしまう人というのは、「踏み越えたい」から「踏み越えた」のであって、誰も彼にそれを強制したわけではない。潜在的欲望をご本人同意のもとに顕在化した、というだけのことである。 私はそのようなものを「後悔」とは呼ばない。
私は頭の中に常に邪(よこしま)な考えが渦巻いている人間で、行動の基準は「どの『魔』をさすか」「今回は自重するか」というレベルでしかなく、本件については「おっしゃるとおり」と言うしかありません・・・
「論理的な人と理屈っぽい人」
「理屈っぽい人」は一つの包丁でぜんぶ料理をすませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである(レヴィ=ストロースはこれを「プリコラージュ」と称した)。
(中略)
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
クレームを言われる方の中には「理屈っぽい人」も多いのは事実だと思います。
そして、クレームをリスクにまで発展させてしまう企業にも「理屈っぽい人」が多いのではないかと思います。