一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

読者(私)もわかっちゃいない(その7(完))

2006-08-19 | 乱読日記

お盆休みのネタ切れ対策としてやってきたこのシリーズなのですが、後半は日中関係とか憲法9条の話になり、あまり一言を取り上げてチャチャをいれるのも失礼なので、今回で最後にします。
(このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。)


「すべての家族は機能不全」  

すべての家庭はどこかで欠損があり、すべての親は何かに依存しており、そこで育つ子どもたちは、多かれ少なかれ、そのせいで精神に歪みをきたしている、ということである。
そういう家庭で育ったせいで生じる子どもたちの精神の歪みに質的な差があると私は思わない。そこにあるのは「程度の差」だけである。

友達も恋人もできず、人の顔色ばかりうかがい、無価値なものに忠誠を誓い、自己処罰癖のある人間など、私たちの周囲に掃いて捨てるほどいる。だが、私は彼らを「アダルト・チルドレン」というような特殊な病人だとは思わない。たんなる、「役に立たない社会人」だとみなしている。
「役に立たない」と査定するという点において私は彼らを差別しており、「社会人である」ことを認める点において私は彼らと連帯している。この「差別しつつ連帯し、嫌悪しつつ受け容れる」という背理的な身の振りのうちに社会の「健全」は集約されると私は思う。

これは「アダルト・チルドレン」ブームへの批判の文章です。
『14歳の子を持つ親たちへ』(こちらのエントリ参照)でもウチダ先生は「私がこうなったのはこれこれのトラウマのせい」というような(フロイトのトラウマ理論を理解せずに)現在のリアルな体験を過去のチープな物語に収斂させてしまう言い方を批判していました。
「他人と違う」ということに神経質になり、その理由をわかりやすい物語にまとめたがる、というのはアメリカ(の都会)人の得意技だと思っていたのですが、日本もアメリカ文化が浸透したということでしょうか。

逆に「俺様(ワタクシ)はこういう人間だから」という開き直る人も不愉快ですね。
結局個性にしろ病変にしろ、社会的な許容範囲の枠内にあるかどうかというところで評価するしかないというわけです。



「ヨイショと雅量」  

悪口を言うときには対象への適切な理解は不要である。
しかし、ほめるときには対象への適切な理解(と少なくとも書き手自身に承認されること)が必要である。

つまり、相手が正しくほめて欲しいと思うところを探り当てないといけない、ということですね。
落語に「子ほめ」という噺がありますが、その面白さもこのへんにあるわけです。

欧州某国の歓楽街での話ですが、1970年代までは日本人客を見ると呼び込みは「シャチョー!」と声をかけていたのですが、80年代になり、平社員クラスも普通に海外出張するようになると、その掛け声が受けなくなってしまったとか(部長くらいだったら「社長!」と呼ばれてもいいけど、係長には皮肉に聞こえると言うことなんでしょうね)。
ただこれにはオチがあって、呼び込みが次に考えた掛け声は

「センセイッ!」

だったそうです。
商売がからむと真剣になる、といういい例ですね(それにしても誰が教えたんだかw)。




「ネオコンと愛国心」  

自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。

そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。
なぜ危険かといえば、それはたんに希少財にたすうの人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるからというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだっていつかはトップに・・・・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・・・・」というようなことを全員が幻想する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
多くの人が勘違いしているが、人間の価値は、その人にどれほどの能力があるかで査定されているのではない。その人の「替え」がどれほど得がたいかを基準に査定されているのである。
(下線部は原文は傍点)

「団塊の世代」が定年を迎えるにあたり、「快適なリタイヤメント」とか「老後の資金はこれだけ必要」とか一大マーケットとしてさまざまなアプローチがされようとしています。
何となく老後も「かけがえのなさ」をかみしめるのでなく「よりよい老後モデル」に向かって邁進することが求められているような気がしますけど、ひょっとするとこの世代にはそれが性にあってるのかな、と思ったりもします(私は(当然親も)隙間世代なので団塊世代のメンタリティというのは実感できないのですが、)。

コメント (4)
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