このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。
「幻想と真実は交換できない」
ご覧のとおり「自立」という言葉は、「隷属」がそうであるように、ともに同じ社会を構成している他者との関係の中でしか意味を持たない。
苦々しい事実ではあるけれども、経験が私たちに教えるのは、生きているあいだに「経済的自立・精神的自立」を効果的に達成するためには同時代の人々の支援が不可欠であり、それは言い換えれば、同時代の人々を共軛(きょうやく)している幻想や偏見に対する「寛容」が不可欠ということである。
「霞を喰って生きる」というモデルはあるわけですが、難易度は相当高いですからね。
「経済的自立を達成してはいるが精神的自立を達成していない人」というのは、逆に自分の持つ幻想や偏見を共有することを他人に強要したり、既存の幻想への過剰な思い入れ(最早IPO長者のタブーとして有名になりつつある「馬主」「フェラーリ」など)や自分だけの特別な幻想への依存(宗教家・スピリチュアルなんとか・整体師etc)をすることがあるようです。
まあ、それができる程度に経済的自立をしているのであれば立派ともいえますが。
「『セックスというお仕事』と自己決定権」
知識人のピットフォール(筆者注:落とし穴)は「自分が同意することは『正しいこと』でなければならない」という思い込みにある。「理論的に正しくないことでも実践的には容認する」という市井の人の生活感覚との乖離はここに生じる。
本論の方は抜粋だけで代表させるのは気が引けたので、興味のある方は読んでください。
この指摘は評論については正鵠を得ていると思います。
ただ、商売・ビジネス・銭儲けの世界では、
「理論的に正しくなく(しかも感覚的にもどうだ?という行為を)実践的に容認するためにその実践が正しい、という理論を構築する」
というさらに上を行く(不健全な?)行動がままみられませんか?
バブル期の投資行動とか、不良債権先送りとか、TOB合戦における価格釣り上げとか・・・
「話を複雑にすることの効用」
「私は間違っていました」という涼しい宣言がどれほどものごとの進行を促進し、「私は間違っていない」という暑苦しい固執がどれほどものごとの進展を妨げるかについてはみなさんだって経験的に熟知されていることと思う。
「三人寄れば文殊の知恵」という言葉がある。
これは意見の違う人間が三人集まると、もっとよい意見になるという意味ではない(ふつう、意見の違う人間が三人集まると、さらに収拾がつかなくなる)。
そうではなくて、「私の主張は間違っている可能性がある」という前提に立つ人間が三人集まると、間違った決定を下す確率が劇的に減少するということえお、このことわざは意味しているのである(たぶん)。
「私の知性のどのへんがうまく機能していないのか」を点検することは、「私の知性はどれほど素晴らしく機能するか」をショウオフすることよりずっと優先順位の高い仕事である。ほんとうに適切な知的パフォーマンスを求めている人は、まずおのれの「バカさの点検」から仕事を始めるはずである。
学者、知識人の議論においてはその指摘は正しいと思いますが、凡人の集合体の会社組織内部の議論では、「そもそも意見をもっていない」というスタンスを取る人が参加することが事態をややこしくします。
つまり議論の結果に「知的パフォーマンス」を求めるのでなく「政治的パフォーマンス」を求める人ですね。
そういう人だけが三人集まると、混乱どころか何も進みません。
(そういえば、10年程前にアメリカの国内線の通販で"Executive Yes Man"という商品がありました。頭を叩くと"ego-boosting comments"を言うヘラヘラしたビジネスマンの顔をした卓上用の人形です。"I'm completely agree with you." "Oh that's what I want to do."とかを連発してくれます。思わず購入しそうになりましたw)
また逆に、商談・契約交渉の場だというのに合意形成はさておいて「自説の正しさ」を頑なに主張する人もいます。
それが契約書における用語の使い方くらいならいいのですが、瑣末な論点に(しばしばその論点を自分が発見したということを主たる理由として)固執して「これが解決するまでは次には進まない!!」などと力まれると疲れます。
あんまり鬱陶しいと、こちらも「花を持たせてさしあげるかわりにどこで実を頂戴しようか」というモードになってしまうのでいいことないと思うんですけどね・・・