このシリーズの趣旨はこちらをごらんください。
「『嫌いなこと』を言葉にできない人に未来はない」
「訓練を受ける」ということは、「まだ訓練を受けていない段階」であるにもかかわらず、自分が受けようとしている訓練について、「どの師、どのシステムが最も優れているか」を判定しなくてはいけない、ということを意味している。
自分がまだ習っていないことについて、自分ができないことについて、何も知らない段階で、「誰が師事するに足る人であり、誰が師として不適であるか」を見切らなくてはならないのである(それが「おのれの不能を言語化する」ということの一つの実践的な形である)。
そうはいってもそれを実践することが難しいので、有名校・一流校志向が生じ、志望者が増えれば優秀な学生が多く集まることでさらにステイタスが上がるという好循環ができているわけですね。
その意味では、大学(学部)を卒業してから自発的に何を学ぶかが大事、ということでもあると思います(自戒と山ほどの反省をこめて)
「自立のために知っておくべきこと」
自立というのはある意味では単純なことだ。
それは要するに「バカな他人にこき使われないですむ」ことである。
(中略)
「どうしたらバカな他人にこき使われずにすむか?」という問いを切実なものとして引き受け、クールでリアルな努力を継続した人間だけが、他人にこき使われずにすむ。
バカな他人にこき使われないようにと考えた結果がバカな自分にこき使われているだけだった、ということがあります。
でも、精神衛生上はそのほうがいいことは確かです。
また、バカな他人にこき使われても、それが資金やノウハウを貯める将来の「自立」につながるなら、それも否定したものではありません。
ただ、問題はそういう環境の中でも居心地のよさを見出してしまうことなんですよね。
「身体を丁寧に扱えない人に敬意は払われない」
自分に対する敬意というのは、第一に自分の身体に対する敬意というかたちをとる。
それは身体が発信する微細な身体信号を丁寧に聴き取り、幻想的な快感を求める脳の干渉を礼儀正しく退けることから始まる。私はそういうふうに思っている(脳は徹底的に自己中心的な臓器であって、自分以外の臓器や身体部位の保全や健康をまったく斟酌しない)。 自分の身体がほんとうにしたがっていることは何か(休息なのか、活動なのか、緊張なのか、弛緩なのか・・・)、身体が求めている食物は何か、姿勢は何か、音楽は何か、衣服は何か、装飾は何か・・・それを感じ取ることが自分に対する敬意の第一歩であると私は思う。
「脳でなく身体が求めているものを感じ取る」というのは非常に難しいと思うのですが、歳をとったせいか「身体は何を求めてはいないのか」はわかるときがあります。
ただそれは、身体の不健康のせいか、はたまた脳の力が衰えた結果身体に干渉する能力が弱まったせいだとしたら、ちょっと悲しいですが・・・