一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「『アットホーム』な『会社』」という矛盾

2006-08-24 | あきなひ

bunさんの人を信じるということ・職場の雰囲気というエントリーに関連してtoshiさんが「アット・ホーム」な会社と内部統制というエントリーを立てられています。

bunさんもtoshiさんも、「アットホームな雰囲気の会社」の持つ「『和を尊ぶ』自己抑制」「相互牽制の不在」という問題点を指摘しています。


内部統制に対しては、「アットホームな(和気藹々とした/自由闊達な)わが社の社風には、相互信頼と業務の効率性を損なう内部統制とは両立しない」というような批判がしばしばされます。

感情的にはわからなくはないのですが、では「アットホームな」企業風土でかつ内部統制がなくてもステークホルダーが一切文句を言わない状態というのを想像してみると  

① 経営者が「私は当社従業員を信頼しているので無意味な内部統制は導入しないと判断している。
② すなわち経営者には「万が一何かあった場合には私が全責任を取る」という腹のくくりがある。 
② 当然、取締役の責任限定契約などしない(または株主が免責を与えている) 
③ したがって後暗いことはないはずなので、監査する側に対しては「重箱の隅まで好きなだけつついていただいて結構、隠し事はしませんから」という姿勢で臨む  

というのが同時に成り立つケースに限られると思われます。  


これはよほど信頼できるチーム(と腹の据わった経営者)でない限り成り立ちませんね。
そして、その場合の会社雰囲気は、かえってbunさんのおっしゃる一つの理想形である「必殺仕事人」に近いものになるのではないかと思います。  


しかし、一定規模以上の企業ではそこまで従業員を信用する経営者がいる、または全幅の信頼に足る従業員のみを集めるということは現実的には不可能です。  

なので、結局何らかの形で内部統制が必要になるわけです。  


つまり内部統制の議論は

「株式会社においては従業員すべての行動を無条件で信頼し全責任を引き受けるような主体(株主、取締役、特定の従業員)は存在しない」

といういわば当たり前の前提(=有限責任という株式会社の意義そのものですよね)から出発するとわかりやすいのではないでしょうか。  

そのうえで、「利益を上げる」という会社の設立の目的に沿うように、どう合目的的に組織を作り上げていくか、と考えるのが本来の筋道のように思います。

つまり 、

① 株主は自分の金を出資し、取締役に経営をさせる
② そのうえ実際の日常業務は自分に任免権のない従業員が行う
③ そうだとすると自分の金をちょろまかされないように、取締役に・監査役「しっかり見張れ」といい、万が一のときは取締役・監査役の責任を追及する
④ 一方、会社本来は利益追求が目的で、利益を上げないと取締役はクビになってしまう ⑤ そこで取締役は自分の責任のリスクと(成功)報酬をはかりにかけながら内部統制を考える

という順番で議論を整理するということですね。  


なんか「株式会社とは何か」のおさらいみたいになってしまいましたが、そう考えていくとtoshiさんの 

むしろ内部統制のシステムというのは、いやがうえにも言いたくないことまで情報として伝達しなければいけないよ、というお決まりごとを最初に決めてしまって、それが職場の雰囲気を壊してしまうというのであれば、それもひとつの仕事のスタイルである、と割り切ってしまわなければならないのではないか

やbunさんの(toshiさんのエントリへのコメント) 

職場なんだからアットホームでなくても仕方がないときっぱり割り切れる人との「アットホーム」 というのが本来の姿なんでしょう。  

という意見のほうがしごく真っ当な本来の姿であるように思われます。  


でも一方で、世の中の多くの企業は既に「アットホーム」な組織や企業風土が出来上がっているわけで、その中に後から内部統制という「ドライ」な要素を入れようとすると抵抗があるのも事実です。  

でもこれはたとえて言えば

冷たい水に適宜お湯を加えて温度を調整するのであれば皆歓迎するが、お湯に浸かっているところに水を加えると結果同じ温度になったとしても皆文句を言う

という違いに過ぎないと思います。  

さらに、「会社は誰のものか」という議論における「ステークホルダーとしての従業員」という文脈も内部統制への抵抗の要因になっていると思われます。 
これは上のたとえで言えば、会社の長期的な人材確保・生産性維持のためにどの程度の水温が適正か(=冷水では優秀な人材を確保し長期にわたってちゃんとしたパフォーマンスをあげることはできない)、という議論ですね。 


でもこの議論も、会社とはそもそも内部統制が効いている「冷水」で、それに社風とか待遇という温水を足してどのように適正温度を保つか、というのがそもそもの議論の手順だ、という認識が欠けている(=過去からの実績のある「ぬるま湯」で機能しているからいいじゃないかと単純に考えている)、という点で問題があると思います。


もし現状内部統制が十分でない(=元の水温がぬるい)がために「居心地のいい」適正温度になっているとしたら、一度十分な冷水を加え(内部統制を構築し)た上で、他の温水を足す(いままで「なあなあ」で気楽だった部分を別の方法で補完をする)、またはその低い温度が適正温度だという意識改革をする(「ちょっと冷たいくらいの方が身体にいいよ」)というのが本来の姿のはずです。

それを、今の状態で居心地がいい、という理由のもとに判断を停止する、というのはやはり正しいあり方ではないような感じがします。



でも、実際の説得の局面において上のロジックを使うとすると、「あなたが考えているほど経営者はあなたを信じていない」「あなたの行為(不作為)の結果に対して全責任を負ってもかまわないと考える取締役はいない」という、「アットホームな会社」の共同幻想を壊すところから始めなければならないので、けっこう抵抗があるかもしれませんね。

コメント
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