お酒と同様、本にも「熟成」が効果的な場合があります。
買ったはいいけど何となく読む気にならずにしばらく放っておいた本を久しぶりに読んでみると、思った以上に味わい深いというやつです。
今回読んだのは『道のはなし』
出版が1992年なので、14年もの。かなりな古酒です。
しかも、引越しなどを生き延びた強運の持ち主とも言えそうです(古本屋送りにならなかったのも何かの縁でしょう)
著者は建設省、道路公団の技術者で、1925年生まれ。
若手の頃には、大磯に通う吉田首相が国道一号線の戸塚踏切の渋滞に業を煮やし、後に「ワンマン道路」と言われたバイパスを作るときの意味付けのための交通量調査の報告書を作成したなどというエピソードも書いてあります。
※ちなみにその頃は「渋滞」という言葉は使われていなかったらしく、上の調査報告書でも「連続的滞留」という表現になっていたとか。
本書は、こういうベテランの技術者が、「道」について研究したり興味を持ったりしたことを、道の歴史、技術、世界の道(ローマの道からアウトバーンまで)、道に関連する文化など、幅広く語っています。
中でも面白かったのが、律令時代の古代路と現代の高速道路の類似。
律令時代には奈良、後に京都と本州・四国・九州の国府をつなぐ官道が作られました。
東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道です(これを「七駅道路」といいます)。
当時の30里ごとに駅が設けられ、駅馬が置かれ、都と地方の連絡に重要な役割を果たしました。
この道路は、平安時代の末期には衰退してしまったのですが、現代の高速道路と共通する部分が多々あります。
① 七道駅路の総延長が6500kmと、北海道を除く高速道路の総延長とほぼ同じ
② 路線構成もほぼ同じ
③ 七道駅路の「駅」と高速道路のインターチェンジの場所もほぼ重なる
日本の全国的な道路ネットワークとして有名なのは、江戸時代の街道であり、その後明治政府が整備した国道ですが、いわば「最初と最後」にあたる七道駅路と高速道路がそれらと違うところを同じように通っている訳です。
(具体例はこちらをご参照)
その理由を著者は次のように推測します。
① 古代路は地方の国府との連絡を早くするため、経路は出来るだけ直線的に設定された。
② 古代路の当時は海沿いは低湿地で、通りにくかった。
③ 一方で江戸時代の街道は、幕藩体制下で、各藩の主要都市をつなぐように形成された(そして、その頃は埋め立てや干拓が進み、海沿いに町が形成されるようになっていた)。
④ 明治以降の国道も街道を踏襲して整備され、そのために市街地が更に発展した。
⑤ 高速道路は長距離移動のためにできるだけ直線的に設計される。
⑥ 用地買収の都合上も、市街地を避けた方が建設費が安くなる。
こういう理由でいわば「先祖がえり」が起こったというわけです。
古代の道についてはかなり詳しく触れられていて、
土地は山険しく深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し(『魏志倭人伝』)
皇師兵をととのえて、歩より龍田へ趣く。而して其の路嶮しくして人並行くを得ず(『日本書紀』巻三、神武天皇の章)
という、けもの道同然の時代から徐々に整備されていく様を歴史書や紀行文、物語などをもとに近代まで(日本書紀、万葉集、日記文、今昔物語から、朝鮮通信使の記録、ケンペル、シーボルト、イザベラ・バードの紀行文まで動員して)詳しく説明してくれています。
面白いのが
雄略天皇の14年(西暦500年頃)に「呉(=中国南朝)の客の道を為(つく)りて、磯歯津路(しはつのみち)に通(かよは)す。呉坂(くれさか)と名(なつ)く」
推古天皇21年(613年)遣隋使の帰国に同行した隋の使節を迎えるために「難波より京に至るまでに大道を置く」
孝徳天皇の白雉4年(653年)百済・新羅の使節を迎えるときに「処々の大道を修治(つく)る」(以上、『日本書紀』)
という道路整備の歴史。
時代が下って徳川時代にも、朝鮮使節の来朝に際して道路や宿所を普請し、戦後は東京オリンピックのときの首都高速道路をしている事を指し、著者は外国からの賓客の来朝を機会に道路を整備するのが日本の伝統になっている、という指摘しています。
確かに各地に「国体道路」なんてのもありますしね・・・