一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

「悪者」であるための実存的努力について

2006-08-31 | 余計なひとこと

ホリエモン、村上氏に続いて噂どおり三木谷氏にお鉢が廻ってきたあたりで「ヒルズ族」バッシングについて、ちょうど今読んでいる内田樹『私家版・ユダヤ文化論』の中で、サルトルの反ユダヤ主義の分析をきっかけとした以下のくだりがひっかかりました。

「反ユダヤ主義者は自惚れない。彼は自分のことを中位の人間、真ん中よりちょっと下くらいの人間、ありていに言えばかなりできの悪い方の人間だと思っている。反ユダヤ主義者が自分はユダヤ人より個人的に優れていると主張した例を私は知らない。しかし、彼はそのことをまったく恥じてはいないのである。彼はその状態に満ち足りている。その状態を彼は自分で選んだからである。」

反ユダヤ主義者とは自分が何者であるかをあまりに深く確信しているために、それについて考える必要のない人間である。(中略)彼は「ここ」にいるという事実によってすでに「ここ」にいる権利を確保し終えている。だから彼は誰に対してもアカウンタビリティを負わない。(中略)端的に「考える」ということ自体を彼は必要としないし、誰も彼にそれを求めないのである。


「○○バッシング」は「出る杭は打たれる」という日本特有のやっかみの風土が背景にあるとも言われますが、自分を「普通の人」に位置付けることの気楽さというのは人間の立ち位置の選択として本来魅力的なものなんですね。
そして現在ではマスコミは「市民の声」を代弁してくれるし、検察も一般国民の基準を代弁してくれるわけです。
たとえばこんなこと

「実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で事件に対処しなければならない。」
(佐藤優『国家の罠』での検事の発言)

「市民」「一般国民」(「一般でない国民」は何か、はここでは考えないことにします)「庶民」というのは(その前段階としての「市民革命」などの近代的「市民」概念との混同も含め)民主主義社会においてア・プリオリに正しいとされがちな言葉であるという部分も、この立ち位置の選択に寄与しているのかもしれません(または逆にそういう市場があることの結果?)。

でも、そこには近代市民社会をかちとった「市民」の緊張感はありません。
ウチダ先生の本の続きの部分に戻ると

 人間はおのれの属性のすべてを状況に身を投じることを通じて主体的に構築しなければならない。歴史的状況との相互規定を通じて構築されたのではないような属性は存在しない。サルトルの実存主義とはまさにそう教えるものだった。だとすれば、反ユダヤ主義者とは、実存主義的にゼロであることを主体的に選択した人間だということになるだろう。
 ならば、その逆に、ユダヤ人こそ、その語の真の意味における「実存主義者」だということにはならないだろうか。
 なぜなら、本質的に赤貧であるユダヤ人はおのれの自己同一性を実存的な努力によって構築せねばならず、にもかかわらず、そうやって獲得したものはそのつど無価値なものという宣告を受け、あらたな獲得目標に向けての競争に駆り立てられるからである。
(下線は原文では傍点)

ヒルズ族バッシング」の一つの動機は、時代の先駆者であった(あると思われていた)彼らが、実は「実存的な努力」により自己(その投影としての事業)を構築していたのではなかった、ということにあったのではないか、と思うわけです。

たとえばマネーゲームの世界でひたすら実存的努力を続けている外資系投資銀行などは、ハゲタカ(とかそれこそ「ユダヤ人」)という非難をされています。
ただ、ライブドアや村上ファンドなどは、そこまで到ってなかった(=単なる不正だった)わけですね。
そのこと明らかになってしまったことへのある種の落胆がバッシングに拍車をかけているのではないかと。

つまり「市民の敵」「格差社会の根源」というような本格的な悪者が登場すれば、(たとえばフ●ーメー●ンなどのように)常にヒルズ族を悪者にすることで、実存主義的にゼロである私などの「一般市民」は気楽な生活をおくることができたわけです。しかし、彼らが単なる一過性の悪者に過ぎなかったことで、私たちは次の責任者を探す必要に迫られてしまったわけです。
(世の中を悪くしている原因者、黒幕としてよく引き合いに出されるのは「大企業」「官僚」「マスコミ」であって、暴力団とかカルト宗教は世の中の悪さの一例ではあっても原因にはされないということと同じです。)


取り上げられる事象がインサイダーとか利益供与とか薬物使用とかヒルズ合コンとか単純な犯罪とか不祥事に矮小化されているのがその証左ではと思うのですが。

ちょっと前は「ホリエモン/村上ファンドは日本の社会/株式市場を変える力がある」という前提で、その変化の方向が本当にいいのか、という議論がなされてませんでしたっけ。


PS 引用した本についてのエントリはまた後日(予定)


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