四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

京都府北部から国への要望

2020年06月20日 | 議員活動

 16日㈫府議会の代表質問が始まったが、コロナ感染予防とかで、半数ずつ交代で議場に入ることになっている。

 議場にいないと臨場感がないが、各会派の申し合わせで決まったことなので仕方がない。9月議会からは元に戻してほしいと思っている。

 現状行われている様々な「感染予防対策」は「責任回避対策」になってしまっていないかと感じている。

 ピンポイントで対策せず、多め多めに対策しておけば何も言われないだろうという風潮は、本当に必要な対策がなおざりにされていく危険も孕んでいる。

 

 17日㈬朝から京都へ行き、府議会の代表質問

 議会後には、府議会の農商工労働常任委員長は京都信用保証協会の理事になるので、その就任の手続きに来てもらった。

 綾部高校の校長先生からは「綾部高校のPR動画ができたので観て下さい」とお電話をいただいたので早速観てみた。

 今年はコロナの関係で全体での学校説明会ができなかったので、府立高校がそれぞれこういう動画を作成し、順次、youtubeにアップしているそうだ。綾部高校も頑張っているので、ぜひ、ご覧ください!

 ◆綾部高校(四尾山キャンパス)普通科

 https://youtu.be/YggsCB9O5mE

 ◆綾部高校(由良川キャンパス)農業科・園芸科・農芸化学科

 https://youtu.be/qjLYwRao1MY

 綾部高校カヌー部の由良川での練習風景。

 

 18日㈭、11時から京都府議会土地改良議連(近藤永太郎会長)総会に出席。

 綾部市内でも、ほ場整備やため池修繕、農業用水路の改修等を推進していかなければならない。

 12時半から議員団会議で、午後は一般質問

 夜は綾部に戻って、LNGガス基地を舞鶴港に誘致する件についての進展状況を伺った。結構、具体的に進んでおり、今後期待が持てる展開となっている。 

 こういうことは「形」が見えてくるまでが大変だが、そういう時に「応援」してこそ、現実になった時に「地域へのリターン」が求められるものだと思っている。舞鶴の池田正義府議とは連携して頑張りましょう!と話をしている。

 

 19日㈮、11時45分から農商工労働常任委員会の正副委員長会を開催。12時半から議員団会議で、午後は一般質問

 

 20日㈯、朝から来客。11時からは福知山にて自民党京都五区支部の幹事会に出席。

 本田太郎代議士と五区の府議が意見交換し、各市町でのコロナ禍の状況や今後の国の事業に対しての要望を行った。

 要望内容は下記のとおり。各府議からの要望の後、食事をしながら意見交換を行った。

 綾部市では飲食業を中心に、客が激減して困っている。6月に入って多少は戻りつつもあるが、まだ程遠い。国からは一層の支援と共に、これ以上、不景気を拡大しないような「メッセージ発信」もしてほしい。

 都道府県をまたいでの移動も緩和された今、市内での飲食は積極的にやった方がいいというメッセージを国から発してほしい。西村康稔経済再生大臣は「経済再生」が任務なのに、記者会見の際にもマスクをしたままはそろそろ止めた方が良いのではないか?安倍総理のアゴに引っ掛けたようなアベノマスクも、もう止めるべきだ。

 大企業は下請けや取引先に「自粛要請」をし過ぎではないか、それは国からも大企業に話をしてほしい。経済が早く元に戻らず、税収減で医療への公的資金注入が乏しくなると、それこそ「医療崩壊」につながってしまう。

 府北部での「医療崩壊」の心配の声がある。府立医大附属病院と同等の病院を北部に作るべきだと私は今年の2月議会の代表質問で訴えた。そういう際には、国からの支援策も考えるべきではないか。

 コロナ禍は「自然災害」と同じで、被害ゼロにはできないが、被害を大きくしない対策が必要であり、「疫病」であるという視点での必要なピンポイント対策を行うべき。責任回避の対策が多すぎる。

 農業者も農作物が売れずに苦しんでいる。有利な融資等の支援は農業者には適用できないケースが多いが、この際、農業経営基盤を強化するためにも有利な借り換えができるような支援もお願いしたい。

 福知山のお二人の府議からは「JR山陰本線(園部~綾部)間の複線化の早期進展を!」という声も上げていただいており、綾部市としても同様の気持ちだ。ぜひ推進を!

 舞鶴港でのLNG基地実現は原発からのエネルギー転換にとっても重要だ。ぜひ後押しを!

 国道27号線の早期拡幅、由良川築堤(並松町)の早期工事着手もお願いしたい。 

 

 午後は武吉町の四方三知夫さん宅を訪問し、「四方姓のルーツ」について室町時代初期に書かれたと伝わる家系図を見せていただいて調査(別途記事掲載)

 夕方は事務所でブログ書き等を行い、夜は19時からNEXT(今川信吾代表)総会に出席した。


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四方姓は、どこから来たか?

2020年06月20日 | 歴史の探求

 昨年、「四方姓」のルーツについて書いた。「四方という姓がなぜ綾部に多いのか?」(2019年8月27日付)記事がある。「KYOTO SIDE」というインターネット情報誌から取材を受けたことがきっかけだった。

「KYOTO SIDE」の記事綾部市で多い名字、1位の四方(しかた)さん、2位の大槻さん そのルーツに迫る!」2019年9月20日付けで発表されているが、「四方姓」情報が少なく、ほとんど「大槻姓」の説明になってしまっている。

 私の家の「四方姓」江戸時代初期に初代綾部藩主・九鬼隆季公に従って三重県の鳥羽から綾部に移ってきた際に、殿様に「四方」を名乗ることを許されており、途中からの「四方」で、本来の「四方姓」に関する情報はよく分からなかった。(祖母の実家は綾部市寺町の「四方姓」なので、そちらは本来の「四方」かもしれない)

 先日、父から「綾部市武吉町の四方三知夫さんの家に古い家系図が伝わっているそうだから、見せてもらったらどうか?」と勧められて、今日訪問した。たまたま別の家を探していた時畑仕事中の四方さんに声をかけられ、そんな話になったそうだ。

 その家系図最初、永徳二年(1382年、室町時代、将軍:足利義満の頃)にまとめられており、さらに時代が下って、天正10年(1582年)6月28日追記されていると書いてあった。

 本能寺の変があったのが天正10年6月2日であり、6月13日の山崎の戦で明智光秀は敗れ、落ち武者狩りに遭って死亡したとされている。

 系図によれば、当時の当主・四方久之丞長重?の祖父・四方左近丞長興?の時代に明智光秀に仕えたように読める。「天正八年辰八月 明智日向守殿 丹波國を領した時 家臣と相成り忠勤に勤しむ」と書いてある。

 その子、四方喜三右衛門尉長峯?のところには「明知光秀●ヨリ ●籠御免計也」書いてあるが、これは「駕籠に乗るのを許された」ということだろうか?

 四方三知夫さんの家には天正時代の検地帳だと思われる古文書が残っているので、もしかすると明智光秀の命令で武吉に移ってきたのかもしれない。

 江戸時代には当地を治めた旗本・藤懸氏(城下)の下で庄屋をしておられたことはハッキリしている。

 四方三知夫さんのご先祖は、口上林の武吉町に移られる前は、志賀郷におられたようだ。志賀郷に移られたのは、この家系図が最初に書かれた永徳2年(1382年)より前、室町時代初期ではないかと思われる。

 志賀郷に移る前はどこにいたか?というと、何鹿郡(綾部市)の山家だと書いてある。どうも綾部に移ってきて、最初は山家に居住されていたようだ。

 その前は…というと、京都で「御所の警固をしていた武士」ではないかと思われる。

 どうも「四方」を最初に名乗ったのはこの人ではないかと思うが、四方(佐々木)三郎義宗という人物が、鎌倉時代初期天福元年(1233年)「四院帝」(四条天皇のことか)の時代に「禁官仕ス」とあるので、御所の警固役」として朝廷に仕えていたのではないか。

 この四方三郎義宗の父佐々木政義と書かれており、ここまでくると歴史上の人物としてウィキペディアでも紹介されている。

【佐々木政義】承元2年(1208年)、佐々木義清の嫡男として生まれる。鎌倉幕府第5代将軍・藤原頼嗣の近習となる。父の歿後、隠岐・出雲両国の守護職を相続したが、三浦泰村と諍いを起こし、憤怒に任せて、建長2年(1250年)無断で出家をして心願と号した。この無断出家の罪により政義の職掌・所領は没収され、弟の佐々木泰清が、隠岐・出雲両国の守護を継承した。

 綾部の「四方さん」の多くが使用している家紋「丸に隅立て四ツ目」の由来である近江源氏・佐々木氏と繋がってくる。

 1208年生まれの人の子どもが1233年に武士として朝廷に仕えるというのは、少し年齢が合わないようにも思うが、この系図上ではそうなっている。

 この佐々木政義「近江国志賀」に住んでいると書いてあり、この「志賀(しが、しか)」が「しかた(四方)」の由来ではないだろうか?

 「四方」という地名は富山県にあるが、富山県では「よかた」と呼び、「四方(よかた)」という姓もある。

 「四方(しかた)」という地名がどこにもないのは不思議だったが、滋賀県の「志賀」にルーツがあるのかもしれない。

 綾部の「四方さん」の中には、自分の家は武田氏の関係だとおっしゃる方々もあるし、うちのように途中から名乗った家もあるので一概には言えないが、近江源氏の佐々木氏の末裔だとおっしゃる家が多く、家紋も多くが近江源氏・佐々木氏の「丸に隅立て四ツ目」を使われている。

 最後にまとめると、

 鎌倉時代初期/近江源氏・佐々木義清ー佐々木政義(無断出家で所領没収)―四方(佐々木)三郎義宗(朝廷警固武士になる。最初に「四方」を名乗る)―鎌倉時代末期?室町時代初期?/四方兵部丞忠善の父(綾部に来て、最初は山家に住む)ー四方将監忠輝(志賀郷に移る)ー戦国時代/四方喜右衛門尉長峯(明智光秀に仕えて、志賀郷から口上林・武吉に移ったか?)ー江戸時代/旗本・藤懸氏(城下)の下で庄屋を務め、明治以後も同地に暮らし、現在に至る。

 四方一族が居住した山家、志賀郷は、江戸時代には山家藩の谷氏の領地となっており、同じく谷氏の本家・分家が治めた位田、吉美、西八田、東八田にも「四方姓」が多い。

 また江戸時代には九鬼氏の領地であった綾部地区の中で山家に近い、寺町、味方町も「四方姓」の多い地域である。

 本来の「四方一族」室町時代の間に、現在の綾部市域の各地に広がって、それなりの勢力があったのではないだろうか?

 うちの先祖は九鬼の殿様に従って綾部に来た時に、どういう経緯があったかは分からないが、この「四方」という姓を名乗ることになったのだと思われる。

 

 有意義な訪問で、四方三知夫さんにはお世話になり、ありがとうございました。

 武吉町を通る上杉和知線の和知町との境の峠の登り口には、以前は「薬師寺」という立派なお寺があったとお聞きした。

 そこにあった仏像は今は福知山市のお寺に引き取られているそうだ。こういうことも、いずれ調べてみたい。


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