四方源太郎日記(京都府議会議員・綾部市選挙区)

これからの綾部のために、さらなる「挑戦」を!

四方という姓がなぜ綾部に多いのか?

2019年08月27日 | 歴史の探求

 綾部で最も多い姓は「四方(しかた)」だ。「大槻(おおつき)」も多いし、「塩見(しおみ)」「村上(むらかみ)」「田中(たなか)」「梅原(うめはら)」「渡辺(わたなべ)」などが多いようだ。

 村上や田中、渡辺は綾部だけでなく、全国的に多い苗字であり、塩見は綾部よりも福知山の方が多いので、そのルーツは福知山にあるように思う。

 大槻や梅原は綾部や高津の豪族に由来し、江戸時代の最初に帰農したものと考えられる。

 四方がなぜ、綾部に多いのか?その謎についての問い合わせがあり、改めて調べてみた。

 

 祖父・源太郎が晩年に遺していた文章には「綾部の殿様、九鬼公が三重県松阪から綾部へ転封になられた時、羽室家、大槻家などと四方家も屋敷を与えられ、家号は鍛冶屋といい、殿様から花木瓜(はなもっか)の家紋をいただいた」とある。

 伯父・洋は、祖父・源太郎が死の間際に語ったこととして上記の内容に加え「九鬼の殿様の家庭教師のような家柄であった。殿様といっしょに松阪から、綾部へやってきた」と書き遺している。

 我が家に残る記録は、これのみだ。

 今回の調査の中で分かったこととして、綾部の他の四方姓の方は、先祖からの言い伝えとして「近江源氏(佐々木氏)の一族が戦に敗れて落ち延びて来て、素性を明かさないために四方と改姓した」と聞いておられるそうだ。

 四方と共に九鬼家に用いられた羽室家、大槻家のうち、羽室家はグンゼ創業者・波多野鶴吉の生家でもある。「波多野鶴吉翁伝」には羽室家の由来として「京都の公卿・葉室氏が帰農したもので、家号は京屋という」という説(他にも説あり)が紹介されている。

 大槻家戦国時代に高津城主であった豪族・大槻氏の一族だと考えられる。

 九鬼の殿様は綾部に入った際に、元々から綾部に勢力を張っていた「土着権力」であった羽室、大槻、四方に一定の庇護を与えることで、土着勢力との融和を図ろうとしたのではないかと思う。

 四方、大槻の多さに比較して、羽室は綾部でもさほど多い姓でないのは、波多野鶴吉もそうだったが、「羽室家は分家して財産が散逸するのを嫌って、次男三男は早めに他家へ養子に出した」という話があるし、公家の出身であれば、一族であっても簡単には名乗れなかったのかもしれない。

 九鬼の殿様国道173号の三和町との境にある質山のあたりにあった正暦寺を現在の場所(お城のあった大本・長生殿の背後にある本宮山の田野川をはさんで東北)に移している。由良川から正暦寺を見上げると砦のようでもあり、城の守りとして寺を移したのではないかと考えられる。

 同じく、熊野新宮神社今の場所の隣り(市民センターのところ)に移した。これも由良川からの上陸ポイントになっており、敵が川から攻め込んで来た場合の砦であったと考えられる。

 うちの家は正暦寺の檀家で、熊野新宮神社の氏子であり、城防衛の施設を守る役割を与えられた人たちの中にいたのではないかと考えられる。一方、羽室家の菩提寺広小路の浄光寺であり、ここもちょうど江戸時代初期は城下町の西の入り口に当たる場所であり、羽室家にも城下の防衛に当たらせたのではないだろうか?

 殿様から与えられた四方家の屋敷は今の大本・みろく殿の奥あたりにあったと思われる。これはちょうど、お城(陣屋)のあった大本・長生殿の真下になる。城の真下に土着権力者の屋敷を置くとは考えにくい。

 殿様からいただいたという我が家の家紋「花木瓜」を見てみると、もしかしたら…と思うことがあった。

 祖父は「花木瓜(はなもっか)」と記しているが、ネットで調べるとそんな名前の家紋はない。どうも「五つ木瓜 隅立て四ツ目」という紋になるようだ。ただ、この紋は珍しいようで、うちの息子がお宮参りの着物を作る際に「こんな家紋はないから間違いではないか?」と言われたらしい。

 そして、綾部の他の四方姓に言い伝えられている近江源氏の佐々木氏(六角氏)の家紋「隅立て四ツ目」であることも分かった。

 綾部の上林は織田家に侵攻されるまでは近江の浅井氏の勢力下であったので、近江源氏の佐々木氏(六角氏)の勢力も上林方面から流れてきていたのかもしれない。綾部でも四方姓が特に多いのは中上林、山家、東八田、西八田、吉美、物部(白道路)、豊里(位田)、綾部(味方、寺町)という地域ではないかと思うが、ほぼ綾部の全域に広がっているのが、他の姓とは違う特徴だ。

 九鬼の殿様元々から綾部に広がっていた佐々木氏の流れを引く四方一族の家紋を「木瓜」で囲んだ家紋を作り、それを自らが三重県から連れてきた従者に与え、四方という姓を名乗らせたのが、うちの先祖だったのではないだろうか?

 それで信頼されて城の真下に住まわせてもらって、「鍛冶屋」という家号であるように武具の調整などを行っていたのではないだろうか?

 そういえば、大本が戦前に発行していた機関誌には「本宮山の北麓に丹波守義光という名刀鍛冶が住んでいたことがあった」と記されているが、その場所は屋敷のあったあたりになる。

 綾部には「株講」という親戚縁者の集まりがあり、他の四方さんの家にはこの「株講」があるが、うちの家にはそれがないのは、後から入ってきて「四方」を名乗ったからかもしれないなと思った。

 全ては推測であるのだが、今回、「四方」姓についての調査依頼があったことで、改めて調べたり、想像してみた。長文だが、自らの覚えとしてもここに掲載しておこうと思う。

 

追記 記事「四方姓はどこから来たか?」(2020年6月20日付)

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