玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(10)

2015年11月10日 | ゴシック論

「アウラ」は分かりにくい小説ではあるが、何回か読んでいくとすべてがクリアに了解される瞬間が、必ずやってくる。フエンテスが凝りに凝った手法を凝らしているからなのだが、その手法とはゴシック小説の手法以外のなにものでもない。
 最初にモンテーロがコンスエロ夫人の屋敷に入っていくところからしてゴシック的なのであり、この作品にはゴシック的な道具立てが満載になっている。
 導入部に多くの謎を仕掛けるところが、まずゴシック小説の大きな特徴であり、フエンテスもそのことを忘れることはない。アウラの最初の出現の場面は次のように描かれる(「君」というのはモンテーロのこと)。
「君があの寝室に入ってはじめて夫人が身体を動かす。老女がもう一度手を伸ばすと、すぐそばで激しい人の息づかいが聞こえる。夫人と君との間にもう一本別の手が伸びてきて、老婆の指に触れる。横を見ると、若い娘がそばにいるが、真横にいる上に、突然音もなく現れたので、全身を見ることができない」
 アウラの最初の出現はまるで幽霊の出現のように描かれているのであり、アウラという不可思議な娘とはいったい何なのであるか、という謎が最初に仕掛けられているのである。
 それもまた、コンスエロ夫人の不可解な言葉に先導されている。夫人はモンテーロが見る兎についての問答で、主人公と次のような会話を交わす。
「サガ、サガ、どこにいるの? こちらよ、サガ……」
「サガって誰なんですか?」
「お友達よ」
「兎のことですか?」
「ええ、もう戻ってきますわ」
 兎のサガが戻ってくるのかといえばそうではない。「戻ってくる」のは姪のアウラに他ならず、コンスエロ夫人は「アウラのことですわ、私のお友達、姪ですの」と言って、出現したアウラを紹介するのである。
 ここにも大きな謎が隠されている。姪のアウラはコンスエロ夫人にとって、いつもそこにいる存在ではなく、「戻ってくる」存在なのだという謎が……。
 この不可解で朦朧とした会話のスタイルは、ヘンリー・ジェイムズがその多くの作品の中で使用したものであり、彼の心理小説の謎めいた部分を代表していると同時に、彼の作品のゴシック性を特徴づけている部分でもある。
  さらに「アウラ」では、ゴシック小説特有の空間の閉鎖性が際立っている。コンスエロ夫人も姪のアウラも、屋敷から出ることは一切ない。夫人は次のように述懐する。
「私たちは壁に閉じこめられているんですよ。モンテーロさん。私たちのまわりに壁が出来て、光をうばわれてしまったんです。(中略)この家には私たちの思い出が籠もっています。ですから、死ぬまでここから出てゆかないつもりです……」
 そして主人公モンテーロ自身、コンスエロ夫人の屋敷に入ってしまった以上、そこから出て行くことは許されることではない。身の回り品を取りに自分の家に戻ろうとしても、使用人に取りに行かせたとの理由で、そのことは拒否される(使用人などどこにもいないにも拘わらず)。
 当然自分の家でリョレンテ将軍の遺稿を調査することも拒絶されるのである。彼はコンスエロ夫人の屋敷に永遠に閉じ込められなければならない。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(9)

2015年11月10日 | ゴシック論

 最後を飾るのは「アウラ」という作品である。この短編集の中で間違いなく最高の傑作と言えるし、おそらくフエンテスの作品全体の中でも傑出した作品だと思う。さらにはラテン・アメリカ文学の短編作品の中でも大傑作の部類に入る作品であろう。
 フェリーペ・モンテーロは新聞広告に、月四千ペソの報酬で、フランス語の出来る若い歴史家を募集しているのを見つけ、その家を訪ねる。そこには相当な年齢の老女コンスエロ夫人とその姪アウラが住んでいる。モンテーロはコンスエロ夫人に夫のリョレンテ将軍が残した回想録を出版したいので、住み込みを条件に、その原稿を完成させて欲しいと依頼される。
 このような設定のお話を我々はどこかで読んだことがある。ヘンリー・ジェイムズの『アスパンの恋文』である。『アスパンの恋文』では、主人公がアメリカの大詩人アスパンの恋文を求めて、かつてアスパンの恋人であったジュリアナ・ボルドローの屋敷にもぐり込むのであった。そこには彼女の姪ティータも一緒に住んでいた。
 依頼されて住み込むのと嘘をついてもぐり込むのとの違いはあれ、老女とその姪だけがひっそりと暮らす屋敷に同居するという設定は同じである。またそれが"書かれたもの"に関わる理由を持っている点も共通している。また閉鎖的な空間としての屋敷のゴシック性も、老婆の突然の出現をクライマックスとしているところもそっくりである。
 カルロス・フエンテスは「アウラ」の設定を、ヘンリー・ジェイムズの『アスパンの恋文』に借りていることは明白であると私には思われる。「アウラ」もまた「純な魂」のようなゴシック的心理小説の要素を持っていることから、それはゴシック的心理小説の創始者であったヘンリー・ジェイムズへの敬意の表れと見ることが出来る。
 ただし、『アスパンの恋文』で超自然的現象が起きることはないが、「アウラ」ではそれが起きる。前に見たように『アスパンの恋文』のゴシック的要素は弱いのだが、「アウラ」のゴシック性は極めて強いのである。
 そして『アスパンの恋文』は、あれほど意味不明で朦朧とした作品を書き続けたジェイムズにしては、例外的に読みやすく分かりやすい作品であり、私はそのことに不満を感じてもいる。一方「アウラ」は分かりにくい作品である。コンスエロ夫人とアウラの関係も、リョレンテ将軍とモンテーロの関係も、さらにはコンスエロ夫人やアウラの発する言葉もまた、不分明で、謎に満ちていて、『アスパンの恋文』以外のヘンリー・ジェイムズの作品のように分かりにくい。
 モンテーロがコンスエロ夫人の屋敷を訪れる導入部からして、朦朧としている。まず、明かりがないのである。こんな風に描かれている。
「玄関のドアを後ろ手で閉めると、屋根のついた真っ暗な狭い路地に踏み込む。苔や植物、腐った根、眠気を誘うむせかえるような芳香が漂っているところを見ると、どうやら中庭らしい。明かりがないかと思って捜すが、見あたらない。上着のポケットを探ってマッチ箱を取り出すと、突然遠くからしゃがれた甲高い声が聞こえてくる」
 声は「マッチはするな」「まっすぐ十三歩進んで、右にある階段を二十二段登れ」と言うのである。
 この部分を、冥界に入っていく主人公に課せられるイニシエーションと読めば、その後に起きることはすべて冥界の出来事だということになり、「アウラ」の大枠をつかんだことになるだろう。主人公はそこから二度と出ることはないのであるから。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする