玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『別荘』(3)

2015年11月19日 | ゴシック論

⑧ ⑦とも関連してくるが、ベントゥーラ一族の親たちは、なにか自分の存在が脅かされるような話題になると、決まって「もうこの話にも分厚いベールを掛けることにしましょう……」などと言って、その話題を打ち切ることを習性としている。「分厚いベールを掛ける」という言葉も何回も出てきて、この言葉はベントゥーラ一族の現実回避の姿勢を象徴しているのだと思われる。このことにも触れておきたい。

⑨『別荘』という小説で何をおいても最もショッキングなことは、親達がたった一日、ピクニックに出掛けた間に、別荘に残された子供達の間では一年間という長い時間が経過しているという驚くべき設定にある。
 第一部と第二部の大きな断絶がそこにある。第一部では親たちと子供達はまがりなりにも一定の時間を共有しているのに、第二部ではそうではない。このような現実離れした時間構造をドノソはいったい何のために仕掛けたのかという問題は、『別荘』を読む上で最も重要な問題であるのかも知れない。
 しかし、この途方もないギャップの仕掛けがなければ、この小説のダイナミズムは失われてしまうので、これは小説構成上の仕掛けとしての重要性に止まるということもできる。実際にどうなのか、そのことも問うてもよい。

⑩主人公は誰か? ということも、この小説を読む上で重要なテーマである。9歳のウェンセスラオが、この小説ではもっとも出演時間が長く、しかも魅力的な人物に仕上げられているが、ドノソは小説の途中で顔を出して、「ウェンセスラオが小説の主人公というわけではない」とまで言っている。
 本当だろうか? ドノソは「この本の基調、この物語に独特の動力を与えているのは、内面の心理を備えた登場人物ではなく、私の意図を達成するための道具にしかなりえない登場人物なのだ。私は読者に、登場人物を現実に存在する者として受け入れてもらおうとは思っていない」と書いている。
 このような論理からすれば、主人公など存在しなくてもかまわないということなのだろうか。あるいは、こうした議論からドノソの小説に対する基本的な考え方が窺えるのであり、主人公は誰か? ということよりももっと重要な問題が出てくるような気がする。③とあわせて考えるべきであり、この問題に答えることが『別荘』への最終的な結論となるだろう。

 以上十のテーマを整理してみたが、これらのテーマは複雑に絡み合っていて、お互いに干渉しあっているために、すべてを解明することができるかどうかおぼつかない。しかも別に隠されたテーマがあるのかも知れない。
 しかし、私のゴシック論の最終的なゴールのひとつは、この『別荘』に他ならないのだから、やれるところまでやってみるしかないだろう。

コメント
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