玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(14)

2015年11月15日 | ゴシック論

 最後に"時間"の問題に触れておかないわけにはいかない。アウラと結ばれる前に、モンテーロは次のように考える。
「目を大きく見開いたまま枕に顔を埋め、来るべきもの、君の力では押しとどめることのできないものを待ち受ける。君は時計に、人間の思い上がりが生み出した、偽りの時間を計るあの役立たずのしろものに二度と目を向けないだろう。時計の針は、真の時間を欺くために発明された長い時間をうんざりするほど単調に刻んでいるが、真の時間はどのような時計でも計ることはできない。まるで人間を嘲笑するかのように、致命的な速度で過ぎ去ってゆくのだ。ひとりの人間の人生、一世紀、五十年といったまやかしの時間を君はもう思い浮かべることはできない。君はもはや実体を欠いたほこりのような時間をすくい上げることはできないだろう」
 ここにはフエンテスの"時間"に対する考え方が示されている。フエンテスがヨーロッパ流のリニアーな時間概念に対して批判的な考えを持っていたことはよく知られている。リニアーな時間とは「時計の針」が刻んでいく時間であり、モンテーロもまたそこから脱出しようとする。
 リニアーな時間とは、過去から現在へと流れ、そして未来へと直線的に進んでいく時間のことであり、「来るべきもの、君の力では押し止めることのできないもの」とは、リニアーな時間の崩壊による、過去・現在・未来が渾然と一体化した時間の到来ということになるだろう。
 コンスエロ夫人の秘儀、あるいは魔術と言ってもいいだろうものによって、アウラは過去から戻ってくるし、リョレンテ将軍もまた過去から甦るだろう。モンテーロは現在から過去へと参入していくのであるが、もはや過去と現在、未来を区別するものとてないのだ。
「アウラ」はだから、魔術によってリニアーな時間が「真の時間」に生まれ変わる物語として読まれる必要があるだろう。「アウラ」の本当のテーマは実はそこにあるのだ。
 しかし、リニアーな時間というものは時計がなくても厳然と存在する。宇宙に諸法則があるならば、リニアーな時間は存在する。あるいはリニアーな時間があるからこそ宇宙に諸法則が存在することができると言ってもよい。
 フエンテスが言う「真の時間」を実現することができるのは、多分"文学"だけである。リニアーな時間を超越して永遠の現在を表現できるのは"文学"だけなのである。そのことをフエンテスはよく知っていただろう。「アウラ」のラスト、コンスエロ夫人とモンテーロが永遠の生に参入していく場面は、そのことの希有な達成であったと私は思う。

「アウラ」について5回も書いてしまった。それは私の「アウラ」という作品に対する深い愛着に起因している。何度読んでも驚嘆の思いを禁じ得ない。それほどの傑作である。カルロス・フエンテスは長編作家としての仕事を多く残しているが、「アウラ」という短編はそうした長編にも匹敵する作品なのである。
 ところで、フエンテスは「アウラ」を書くにあたって、我が国の映画監督溝口健二の「雨月物語」に大きく触発され、原作である上田秋成の『雨月物語』にも読みふけったという。
 私は溝口の「雨月物語」をビデオで持っていて、この項を書くためにもう一度見てみようと思ったが、果たせないでいる。フエンテスは映画が大好きだったし、『脱皮』を読むとロック・ミュージックも好きだったようで、親近感を覚えるのである。
 溝口の「雨月物語」をもう一度見る時間ができたら、さらに「アウラ」について書くことになるかも知れない。
(この項おわり)

 

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