玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(4)

2015年11月04日 | ゴシック論

 さて、この「女王人形」に出てくる屋上の部屋のアミラミアの人形は、何を象徴しているのだろうか。木村榮一によれば以下のとおりである。
「この装飾過多としか言いようのない部屋に置かれた人形は、直ちにメキシコ人の信仰を集めている褐色の聖母、すなわちグアダルーペの聖母を連想させる」

グアダルーペの聖母像


 屋上つまり天上にいるのは、メキシコ流に変形されたキリスト教の聖母なのである。では、一階の玄関で「僕」を迎える奇形のアミラミアは何を象徴しているのだろうか。
 木村榮一はこれを、地下、冥界の住人であるアステカの神、コアトリクエの姿の他ならないと言う。アミラミアの姿は以下のように簡単に描写されるだけなのだが、それでもコアトリクエの姿に似ているというのだ。
「胸のあたりが大きく盛り上がっているせいで、服がまるでカーテンのようになっている。その白い服の上に、青い格子縞のエプロンをしているせいで変にコケティッシュな感じがする」
 木村榮一はコアトリクエについて次のように説明する。
「1790年に発見された石像を見ると、頭部がなく、胴が異様に短く、蛇のスカートと呼ばれる部分には、蛇の鱗を象徴する格子縞が刻まれている」

コアトリクエの像


「「僕」が見てはならないものを見てしまったのだ」と木村榮一は言うが、はたしてそうか。フエンテス自身と思われる「僕」はむしろそれを直視しなければならないのではないか。だからこそフエンテスは、アミラミアの二つの姿、メキシコ流に歪曲されたキリスト教の聖母像と、アステカの古代神コアトリクエの二つの姿を登場させなければならなかったのではないか。
 小説の最後に「僕」が驚愕する姿は必ずしも描かれてはいない。驚愕するのはむしろアミラミアの方である。「僕」に対してアミラミアは次のように言う。
「だめ、カルロス。帰って、二度とここには来ないで」
 しかし、彼女の表情はどうであったか。フエンテスは次のように書く。
「荒んだ感じのする、詮索するような目でじっと僕を見つめているが、その目にはまた人恋しげで不安そうな表情が浮かんでいた」
 そして、父親の声が家の奥から聞こえてくる。
「どこにいるんだ。ベルが鳴っても、出てはいかんと言ってあるだろう。戻ってこい、化物め。また鞭をくらいたいのか」
 最後にフエンテスは、「僕」とアミラミアの姿を描いて一編を閉じる。
「雨が僕の額、頬、口をつたって流れ落ちる。小さな手がおびえたように持っていたコミックスの雑誌が、濡れた敷石の上に落ちる」
 この描写から「僕」が奇形のアミラミアを不動の姿勢で直視していること、そして僕=カルロスの出現に驚愕し、父親の声に脅えているのはアミラミアの方であることが分かる。
 もうひとつ分かることがある。アミラミアの父母は、奇形になる前の彼女の思い出を聖母のように飾り立てて屋上の部屋に安置し、現実のアミラミアを「化物」と呼んで虐待しているということが。
 つまりはメキシコ人自身がアステカの神を「化物」と蔑み、キリスト教の神をあがめているということに対する違和の思いをこそフエンテスは書きたかったのだろう。
 ならば、「チャック・モール」でフエンテスが、アステカの雨の神をユーモラスに描き、決して不気味な存在として描いてもいないし、恐怖の対象としてもいないことの理由が理解されるのである。