玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(5)

2015年11月05日 | ゴシック論

「チャック・モール」のところで見落としていたことがある。メキシコ人とキリスト教に関するフィリベルトの考察の部分である。
「僕がメキシコ人でなければ、おそらくキリストを崇めたりしないだろうな、それに……いや、これは自明なことだよ。スペイン人がやってきて、十字架にかけられ、脇腹を槍で突かれて血まみれになって死んでいった神を崇めろというんだぜ。生贄になって供犠にされた神だよ。それが君の儀式や君の生活にこの上もなく近い感情だとしたら、ごく自然に受け入れるだろう」
 さらに、
「キリスト教を供犠と典礼という熱情的で血なまぐさい側面から眺めれば、これはインディオたちの宗教が装いを変えてそのまま自然に延長されたものだと考えられるだろう」
 この部分にフエンテスのキリスト教観が示されているのは明らかである。メキシコのインディオが、アステカの神を捨て、キリスト教を素直に受け入れたのは、キリスト教の供犠という血なまぐさい側面への共感からであったというのがフエンテスの考え方である。
 だとすれば「女王人形」における、グアダルーペの聖母とアステカの神コアトリクエも、供犠と血なまぐささにおいて通底しているのでなければならない。カルロス・フエンテスもカルロス=僕も、そのことを直視しなければならないというのが「女王人形」のテーマであり、「見てはならないものを見てしまった」などということでは決してない。
 フエンテスのゴシックへの偏愛の理由がよく分かるような気がする。インディオたちが受け入れたキリスト教と、アステカの神への信仰の同質性を見ているのであるならば、フエンテスが「供犠と典礼という熱情的で血なまぐさい」ゴシック小説を愛したのはあまりにも当然のことだっただろうからだ。
 しかし、ゴシック小説を愛することと、ゴシック小説を書いてしまうこととは違っている。『アウラ・純な魂』に収められた六編の短編は、「生命線」と「最後の恋」を除いて、ほぼ完璧なゴシック小説だと言えるが、それはフエンテスがゴシック小説の有効性を信じていたことを示していると私は思う。
『脱皮』において特にそうだと思うが、ゴシック小説への帰依が功を奏しているのは明らかで、このことはラテン・アメリカの作家たちがゴシック小説の"物語性"を決して否定しようとはせず、それをむしろ有効に利用する形で小説を形成していくことで、ラテン・アメリカの文学を豊かにすることはあっても、陳腐なものにすることはなかったことを証し立てている。
 その典型的な例を我々は、ホセ・ドノソの『別荘』と『夜のみだらな鳥』に見ることが出来るだろう。
 しかしあと二編、カルロス・フエンテスの短編作品を読まなければならない。