玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『アウラ・純な魂』(13)

2015年11月14日 | ゴシック論

 コンスエロ夫人の秘儀についても、リョレンテ将軍の回想録の中にきちんと書いてある。子供が出来ないことで悩むコンスエロ夫人について、リョレンテ将軍はこんなことを書いているのだ。
「部屋に入ると、彼女は枕を抱きしめて錯乱状態に陥っていた。彼女は大声で、『やったわ、とうとうできたのよ。あの子に肉体を与えることができたのよ。あの子を呼び出し、自分の命をあの子に吹き込むことができるのよ』」
と。アウラはコンスエロ夫人の秘儀によって、彼女自身の中から生み出された分身なのである。
 しかし、「アウラ」における分身は、通常のゴシック小説における分身とは少し違っているような気がする。私はホフマンの『悪魔の霊酒』を取り上げた時に、ヨーロッパにおける分身はその宗教観がもたらす、霊肉二元論から生じてくると書いたが、それとも少し違うのではないか。
 ほとんどのヨーロッパの分身譚では、自分と自分ではないものの乖離から分身が生まれ、分身同士は当然のように激しく対峙せざるをえない。霊と肉との対立がそこにあるからである。
 しかし、「アウラ」における分身では、そのようなことは起きないであろう。コンスエロ夫人はアウラと対立などしない。なぜならアウラはコンスエロ夫人の秘儀によって生まれてきた分身であり、夫人の内部の霊と肉との分裂によって生まれてきたのではないのだから。そして、リョレンテ将軍とモンテーロもまた対立することはない。リョレンテ将軍の分身としてのモンテーロもまた、コンスエロ夫人の秘儀によって生まれるのであろうから。
 すべてはコンスエロ夫人の冥界に呑み込まれていくのである。分身同士の帰結は対峙・対立ではなく、融合・融和であるのに違いない。これはヨーロッパの霊肉二元論から、メキシコ流の霊肉一元論への回帰を意味しているのではないだろうか。
 最後にモンテーロがアウラとベッドをともにする場面で、アウラが徐々に老婆の姿に変貌していくシーンに、決して嫌悪の情を呼び起こされることがないのは、霊と肉との二元論を超えた次元でのひと組の分身(コンスエロ×アウラ)ともうひと組の分身(リョレンテ×モンテーロ)との融合が実現されるからなのだ。その場面は次のように書かれている。
「君の目の前で、老婆、コンスエロ夫人の老いさらばえ、たるみ、衰えた裸体が月の光を受けて浮かび上がるだろう。君がその肉体に触れ、その肉体を愛すると、彼女は身体を震わせるだろう。君もまた戻ってきたのだ……」
「君もまた戻ってきたのだ」という言葉は言うまでもなく、モンテーロがコンスエロ夫人の夫であったリョレンテ将軍として、"戻ってきたのだ"ということを意味している。モンテーロは決してコンスエロ夫人の愛撫を拒絶しないだろう。コンスエロ夫人の最後の言葉はこうである。
「あの子は戻ってくるわ、フェリーペ。二人で力を合わせて彼女を連れ戻しましょう……」
 モンテーロはそれに喜んで同意するだろう。そうすればもう一度、昔のように若い肉体で愛し合うことが出来るのだから。モンテーロはこうしてコンスエロ夫人の永遠の現在の世界に参入していくのである。
「アウラ」のエロティシズムは、ここで強烈な魅力を発揮する。死に接近することに真のエロティシズムがあるという、ジョルジュ・バタイユ流のエロティシズム観を思い出すかも知れないが、少し違う。そうではなく、「アウラ」のエロティシズムは霊と肉の対立を超え、時間を超越した永遠の現在のなかに置かれるのである。
 モンテーロは体を開いたアウラの姿に、黒いキリストの像を想起するが、女性の体にキリスト像を思わせるのはいささか無理があるとしても、メキシコ流に歪曲された黒いキリスト像は、霊と肉との一元性を象徴しているのかも知れない。