玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

ホセ・ドノソ『別荘』(6)

2015年11月22日 | ゴシック論

②―1
 ホセ・ドノソの1960年の短編に「アナ・マリア」という作品がある(白水社『現代ラテン・アメリカ短編選集』所収、中川敏訳)。初期の作品で、まだドノソが手探りで小説を書いていた時代の作品である。
 この「アナ・マリア」に"三歳になっているかどうか"という女の子が登場する。アナ・マリアはその子の名前である。アナ・マリアは両親に虐待され、いつもひとりで裸のような恰好で公園で遊んでいる。ある老人がアナ・マリアを哀れに思い親切に声をかけると、彼女は老人に「わたしの恋人(ミ・アモー)」とか「めんこい(デインド)」などと呼び掛けるようになる(三歳だからまだ覚えたての言葉なのだ)。
 その老人もまた妻から無視されていて、彼女はある日家を出て行く。老人は寂しくひとり公園にアナ・マリアに会いに行く。最後の場面は、
「手を取って女の子は柳の木の陰から夏の真昼の炎暑のなかへ老人を連れ出す。女の子が手を引いて連れて行く。女の子は言った。
『行きましょ、行きましょ。』
老人は女の子についていった。」
虐待される無垢な女の子と、疎外される純朴な老人との奇妙な共感を描いたこの作品は、早い頃からのドノソの子供へのこだわりを証拠立てている。
『この日曜日』では「私」のいとこ達がおばあさんの家でする「マリオラ・ロンカフォールごっこ」と、スラム街の子供達の大人の偽善に対する戦いが描かれていた。
 そして、「夜のガスパール」ではドノソ自身の少年時代を思わせるマウリシオの、純粋であるが故の大人達への侮蔑と、ラヴェルの「夜のガスパール」のような一種異常な音楽に惹かれていく姿が描かれていた。
「夜のガスパール」を読めば、それは子供達へのこだわりというよりは、純粋であった子供時代を失いたくないというドノソの真っ直ぐな気持ちの表れであることが分かる。ドノソは子供のままでいたいという強い思いを持っていたのに違いない。それは彼の最高傑作『夜のみだらな鳥』にも顕れてくるだろう。
 しかしドノソの子供達は、無垢なままでいることができない。純粋であろうとするマウリシオが、ラヴェルのゴシック的な曲に惹かれていくように、大人達のようにはなるまいとする意志は、無垢な子供達を無垢とは無縁な世界に連れて行く。
 それが『この日曜日』における「マリオラ・ロンカフォールごっこ」であったり、『別荘』における「侯爵夫人は五時に出発したごっこ」であったり、「夜のガスパール」におけるラヴェルの曲であったりするのだ。
 いや、そうではなく、子供自身がもともと決して無垢で純粋な存在ではあり得ないということを、ドノソは言いたいのかも知れない。ドノソが影響を受けたヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』では、姉弟は無邪気であるが故にこそ邪悪な幽霊に取り憑かれてしまうのだから……。
 しかしいずれにしても"子供対大人"という対立軸が、ホセ・ドノソにとって揺るぎないものであることは間違いない。「アナ・マリア」で両親に背を向ける女の子、『この日曜日』でチェバの偽善に対して闘うスラム街の子供達、「夜のガスパール」で母親と対峙するマウリシオにそれを見ることが出来る。もちろん『ねじの回転』でも、姉弟は大人としての女家庭教師に徹底的に歯向かうだろう。
『別荘』ではそのような対立軸がはるかに複雑なものとして描かれる。なにしろ35人のいとこたちがそこに集い、大人達との戦いの場に投げ込まれてしまうのだから。


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