玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

近況報告(1)

2018年12月06日 | 日記

 6月21日にゴシック論の『夜のみだらな鳥』を終了し、7月10日に「出水市からのはがき」を書いて以来、このブログから遠ざかって半年が経とうとしている。実は7月24日から9月26日まで2カ月の入院生活を強いられ、その後も後遺症のためにものを読んだり書いたりすることができないでいた。
 病気はあの渋澤龍彦の死の病と同じ。しかしこちらは早期発見であったため、手術はせず放射線治療だけで一応完治した。今年に入って喉に違和感が続き、地元の医院で看てもらったが発見できず、長岡市の赤十字病院で見つけてもらった。
 もしかして転移が進んでいるのではとも思ったが、不思議と楽観的で37回の放射線照射と、抗ガン剤の併用で9割方治ると言われて「そんなもんだろう」と納得は早かった。入院は2カ月だが土日は外泊もOKだった。
 最初抗ガン剤の点滴をするときに、「重篤な副作用も稀にある。皮膚が乾いて全身にニキビのようなものができる。口内炎になってものが食べられなくなる」などと脅されたが、最初の点滴は何事もなく終わった。薬は計7回投与したが、顔がかさかさになったり、背中が痒くなったりする程度の副作用で済んだ。
 放射線の方は「15回目くらいから喉が痛くなってきて何も食べられなくなる」と脅されたが、20回を超えてもほとんど副作用はなかった。その後相当に喉の痛みを感じるようになったが、普通に食べることができた。医者には「我慢強いね」と言われたが、そうではなく鈍感にできているんだろう。
 しかし30回目くらいになって突然食欲が失せた。何を食べても砂を噛んでいるようで、まずいと言うよりも食べることが苦痛になってしまうのだ。味覚障害である。退院までに一度だけ食欲が復活したが、すぐまた元に戻ってしまった。むしろ退院後の半月くらいが味覚障害で苦しんだ時期だった。
 退院したら美味しいものを食べようと思っていたが、味が分からないのだから食べても失望を繰り返すばかり。卵掛けご飯と納豆ばかり食べていた時期もあった。
 ところで、今年の初めから11月にパリに旅行することに決めていた。友人のS氏がその頃2ヶ月間パリに滞在するので、いくらでも案内してくれるというのだ。ありがたい話だったが、本当に行けるんだろうかという不安はあった。
 しかし、パリ行きを目標に2ヶ月間の入院も乗り越え、味覚障害もある程度まで回復に漕ぎつけた。退院は9月26日でまるまる2カ月だったのだが、土日は家に帰っていたから正味は1カ月半であった。
 その間ガイドブックでパリの観光名所を調べたり、ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を読んだり、出口裕弘の『ロートレアモンのパリ』を読んだりして、事前準備に怠りはなかった。
『パサージュ論』はパリに18世紀に造られたガラス屋根付きの商店街、パサージュ(今で言えばアーケード商店街)をモチーフに展開した都市論であり、歴史論でもある。
 これを読んでおいて、パリに行ったらパサージュを歩いてみよう。できることならベンヤミンのようにそれを時代について考察する起点にしてみようと思っていたのだが、この目論見は完全にはずれた。
 20世紀初頭の激動の時代に亡命のようにしてパリに滞在し、パサージュを散策するのと、21世紀になっていかにもレトロな雰囲気を増大させた居心地のよいパサージュを歩くのとでは大違い。ほとんど生産的な思考など湧いてくることはなかったのである。
『ロートレアモンのパリ』の方では、ロートレアモン伯爵ことイジドール・デュカスが書いた『マルドロールの歌』の第六歌最後の場面、マルドロールがヴァンドームの円柱の上からマーヴィン少年を詰めた袋に紐を付けて振り回し、投げ飛ばして殺害する場面を思い出し、できればその円柱くらいは見たいものだと思った。
 出口裕弘はデュカスの住んだ居所についても詳しく追跡しているが、私には作家の旧跡を訪ねるというような趣味がないので、読んでもみな忘れてしまった(後で重要なことに気づくことになるが)。

コメント
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