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『佐藤賢了の証言』を読んで(上) 「黙れ」事件について

2013-08-28 22:32:19 | 大東亜戦争
 佐藤賢了(1895-1975)は、昭和期の高級軍人で、東京裁判でA級戦犯として終身刑の判決を受けた。中佐時代に衆議院における国家総動員法の審議において「黙れ!」と発言したことで著名。当時の陸軍の横暴を示すものとされる。

 昔読んだ『佐藤賢了の証言』(芙蓉書房、1976)を読み返していて、ちょっと思うことがあったので書き留めておく。

 この本は、全四部で構成されている。「第一部 私の生きてきた道」は佐藤の手による自伝だが、生まれてから満洲事変のあたりまでで記述が止まっており、「自伝をここまで書き進んだ時、著者は逝去した」との註が付されている。
 満洲事変から敗戦までについて述べた「第二部 弱きが故の戦い」「第三部 言い残しておくこと」については、「(第二部、第三部は著者が陸上自衛隊幹部学校での講演を参考にした)」と第二部の「まえことば」に付されているが、著者である佐藤賢了が自身の講演を参考にして書いたものなのか、それとも他の者が佐藤の講演を元に記述したものなのか、よくわからない。

 第二部の中に、「黙れ」事件についての記述がある。発言の経緯や佐藤の心情を示すため、かなり長くなるが引用する(〔〕内は引用者による註。以下同)。

5 佐藤説明員の「黙れ!」事件

 支那事変はいよいよ長期戦の様相を呈するに至ったので、総動員体制を整える必要に迫られた。そこで、総力戦に即応する体制を整える法的根拠を作る必要が感じられた。
 上海に出兵するやたちまち頑強な抵抗にあい、非常な苦戦に陥った。〔中略〕攻撃は困難をきわめ、いたずらに砲弾を消耗した。〔中略〕
 陸軍省の心配は悲痛なものであった。こうなっては道はただ一つ、民間工場に砲弾製造設備の新設・拡張をやってもらうよりほかに方法がない。〔中略〕当局の苦衷は、容易に企業者たちに通じない。〔中略〕彼らにはその立場からする判断がある。
「〔中略〕軍の要求を真に受けて、固定資本を注ぎ込んだら、戦争がすんで注文がとまり、莫大な損失を蒙る」
 そこで弾薬だけでなく、軍需産業全般に設備の新設・拡張もでき、企業主に損失をかけないですむような特別の工夫を要するのであった。それには、
「政府は必要なる設備の新設・拡張を企業主に命令することができ、それによって損失が生じたら、政府はこれを補填する義務を負う」
 という制度を作るよりほかにない。〔中略〕こうした制度が総動員体制であり、総動員法の狙うところである。〔中略〕
 統制しなければ乏しい物の分配は不公平になる。〔中略〕自由に放任しておいては、戦力・国力造出に必要な生産力の拡充に、重点的に力が向けられるはずがない。
 政界も、財界も、世間一般もどうしてこの情勢、この気持がわかってくれないのか。私は議会における総動員法案審議の成り行きが心配であり、また憤慨に堪えなかった。
 質問の第一陣に立ったのは牧野良三議員である。違憲論を掲げて、得意の雄弁をふるい、ゼスチュアたっぷりの質問演説はあっぱれだった。こうした違憲論は、初めから予期できたことなのだから、近衛首相が受けて堂々と所信を披瀝すれば、出足は満点だったのである。
 ところが首相が欠席しているので、首相代理の広田外相が答弁に立ち、
「こと重大なる憲法問題だから、法制局長官をして答弁させます」
 といって引っ込んだ〔正しくは法制局長官ではなく企画院総裁に答弁させた。この時点で企画院総裁を務めていた滝正雄が少し前まで法制局長官を務めていたための記憶違いと思われる〕。法制局長官が出ようとすると、議員は「首相が出ろ」「国務大臣が答弁しろ」といきり立って、議場はたちまち混乱した。これは議員のいう方が正しい。〔中略〕
 休憩の後、法律問題だからというので塩野司法大臣が立って、違憲でないゆえんを答弁したが、論旨が徹底しないばかりか、派手な人物でないため、本会議での論戦は政府側の完敗という感じであった。
 委員会になってからも首席は塩野司法大臣であった。総動員法には全大臣が関係あるわけだが、司法大臣は一番関係が薄い。また塩野大臣は総動員業務の実体には、ほとんど理解がないようであったから、答弁も要点には触れなかった。議員の側も実務がわからないから、入れ代わり、立ち代わり相も変わらぬ違憲論や、国民の忠誠心無視や、統制不可論に終始して要点に触れるところが少なかった。〔中略〕
 そのうち政府側は、議員の反対を緩和するため「この法律は支那事変には使わぬ。もっと大きな戦争を予想する時使う」と答弁した。たしか滝法制局長官であったと思う。私はこれは大変だと思って、法制局長官のもとへねじ込んだ。〔中略〕
「佐藤さん、そんなにむきになりなさるな。法案さえ通せばそれでよいのです。」使う必要があったら、いつでも使ったらよいのです。答弁の言葉にとらわれる必要はありません。早く通すために、ああいっただけですよ」〔中略〕
 こうした答弁が議会側に意外な好餌を与えた。
「支那事変に使う必要がないなら政府は引っ込めたがよい。大戦争に使うというが、今どこにも大戦争が起こる気配などありはしない。大戦争が起こりそうになったら、いつでも提出したがよい。〔中略〕」
 という議論が起こった。もっともな話だ。次のような意見も出た。「総動員法案には大別して、準備に関する規定と、実施に関するものとがある。いつ起こるかわからぬ大戦争の準備をしようというのなら、準備の規定だけでよろしいではないか。〔中略〕よろしく実施の規定全部を削除すべきだ」
 この意見も抽象論としてはもっともである。しかし実施の規定を削除しては総動員法は死んでしまう。これは法理論や抽象論では納得させられない。総動員の実務、およびそれにつながる軍需動員の実務を例示して説明しなければ諒解させられない。
 私は整備局に前後五年勤務して、もっぱら軍需動員に関する事務に当たった。この説明は私の得意とするところであった。〔中略〕私は重ねて内閣に政府委員にしてくれと申し入れたが、政府委員は通常、勅任官でなければならぬとか、何とかいって容れられなかった。私は当時中佐であった〔軍人の勅任官は少将以上〕。
 私は相変わらず、やきもきしながら委員会に出席していた。〔中略〕
 政府側は相変わらず、のらりくらりお茶を濁した答弁をするのに業を煮やして、板野議員は。〔。は原文ママ〕
「この法案は若い軍人や官僚が作ったのだろう。だから大臣たちはわかっていやしない。誰でもよいから、よくわかっとる人が説明してくれ」
 といったような主旨を述べた。
 私は議会では説明員という資格で、自ら進んで議員の質問に対して答弁する資格はない。国務大臣や政府委員の指示によって、限られたことの説明をするだけである。ところが今、議員から誰でもよい、説明してくれとの発言があったのだから、私にとっては渡りに舟である。私はバネ仕掛けの人形のように飛びあがって、総動員や、軍需動員の実際業務を例にとって滔々と説明しだした。約三十分も説明を続けた。議員たちも静かに傾聴してくれた。一説明員の説明に三十分も傾聴することはめったにないが、内容が今までの法律論や抽象論とは異って、具体的であったからかもしれない。宮脇長吉議員がにわかに立って、「委員長、この者にどこまで答弁を許すのですか」
 と食ってかかった。そこで私は「説明をやめろとおっしゃるならやめます。つづけよといわれるならつづけます」
 といって委員長の指示を待った。
 〔中略〕小川委員長が私に続けろと指示したので、私は説明を続けたところ、宮脇議員はまたガナリ立てて、私の説明を妨害したので、堪忍袋の緒を切って、「黙れッ、長吉」とのどまできたのだが、場所柄を考えて「黙れッ」だけいって、あとの「長吉」を呑みこんだ。(p.116-122)


 何故「黙れッ、宮脇」ではなく「黙れッ、長吉」なのか。
 それは、佐藤は宮脇長吉議員のことを陸軍の教官としてかねてから知っていたからである。
 本書の「第四部 追悼」に収録された、陸軍士官学校で佐藤と同じ29期であった額田坦・元陸軍省人事局長の文にこうある。

 さて工兵科の術科担任教官は宮脇長吉工兵大尉殿であったが、頗る熱心で屡々中隊の自習室に見えるので、「また『長吉』が来ているぞ」と私語していたものである。それが後に君が勇名を馳せた『黙れ』事件の基になろうとは、仏様でも御存知なかったであろう。
 後年、君が陸軍省整備局課員として衆議院の委員会で、国家総動員法案について気合いをかけて説明していると、頻りに大きな声で野次る議員があった。見ると昔の宮脇長吉大尉殿である。思わず『黙れ(長吉)』とやってしまった。後に君の曰く、『長吉』の二字が咽喉まで出たがやっと抑えてよかった。もし出ていたら「これ(首をたたいて)だったよ」と呵々大笑したことがある。


 同じ第四部に収録された、林唯義・元衆議院議員(自民党)の談話を元にした文にもこうある。

当時、わたしは直接その真相について佐藤さん自身に聞いたところ、問題の点は、代議士全般に対する誹謗ということではなく、陸軍出身の宮脇長吉氏(十五期、工兵)が自分の育った陸軍に対して実に皮肉きわまる悪意に満ちた質問で食い下がった。たまりかねた佐藤さんは「だまれ長吉!」と云うべきところを押えて「だまれ!」といってしまった。したがって事は宮脇個人と佐藤個人の感情的なものが出たにすぎず、軍の先輩の間の感情的もつれが経緯となって生じた発言にすぎない。後に云う軍が国会を蔑視したとかいう問題では断じてなかったのです。


 しかし、だからといって「黙れッ、長吉」などという言葉がスラッと口に出るものだろうか。

 学生が教師を仲間内で呼び捨てで語るということはあるだろう。私にも覚えがある。
 だが、卒業後何十年も経った、いい年をした大人が、教師を語るときに、呼び捨てにするものだろうか。
 ましてや、自らの属する組織の大先輩に対して、面と向かって、しかも公の場で、下の名で呼び捨てになどできるものだろうか。

 私はこの記述を読んで、十月事件の首謀者たちに上官を上官とも思わぬ態度があったというエピソードを思い出した。
 十月事件とは、1931年9月に勃発した満洲事変に連動して、同年10月に決行が予定されたクーデター未遂事件である。同年3月にも三月事件と呼ばれるクーデター未遂事件が起こっている。
 戸川猪佐武は『昭和の宰相第1巻 犬養毅と青年将校』(講談社文庫、1985)で十月事件が未遂に終わったさまをこう描いている。

この陰謀はどこからか洩れて、結局は木戸幸一内大臣秘書官長の知るところとなった。木戸は内大臣の牧野伸顕にはかった。この筋から、クーデターの中心人物に擬せられていた荒木貞夫教育総監本部長〔陸士9期〕に、
「かような噂があるがいかがか?」という形で、厳重な忠告がもたらされた。〔中略〕元凶は橋本〔欣五郎、陸士23期〕で、本拠が築地の金竜亭にあるとわかった。
 この陸軍首脳の動きを、クーデター側もキャッチして、橋本が陸相官邸に乗りこみ、会議中の荒木を呼び出すという場面が演じられた。
「荒木、決起せい!」と橋本はいったものである。佐官クラスが将軍をそっちのけにして、クーデター計画をこしらえあげ、それに将軍を乗せようという行き方は、すでに陸軍内部の下克上、綱紀紊乱の風潮をあらわすものであった。〔中略〕
 荒木は、このあと金竜亭に乗りこんでいって、そこに陣取っていた長勇〔ちょう・いさむ。陸士28期。のち沖縄戦で自決〕に、
「みなわかっとることだ。おまえ、やめれ」といって、中止を勧告した。
「やめる……が、おヒゲ、あとはたのむ」と、長は答えた。おヒゲ――というのは、荒木が八字髭をたくわえていたので、そんな綽名をつけられていたのだ。
「わかった」ということで、荒木はクーデター派の面々と、二時間、三時間、飲み交わしたものである。当時の荒木は、青年将校たちが抱いている日本主義的な革新思想についても、よく知っていて、シンパめいた発言をしていたので、彼らのあいだではたいそう人気があった。それだけにクーデター派をびしびし取締るようなことはしなかった。
 結局、首謀者の長たちを待合に軟禁、酒、女を与えて、ことを起こさせないほうに運んだ。(p.258-259)


 セリフの一字一句まで正確ではないだろうが、こうした雰囲気の下で説得が行われたのだろう。

 二・ニ六事件で退陣した岡田啓介内閣で陸相を務めた林銑十郎(陸士8期)は、閣議で決まったことを陸軍の部下に反対されて撤回することがしばしばあったと、岡田は回顧録で述べている。
 日中戦争で陸相、対米英蘭戦開戦時には陸軍参謀総長を務めた杉山元(陸士12期)は、押せばどちらにでも動くことから「便所の戸」とあだ名されたといわれる。

 「黙れ」事件も、これら昭和陸軍の組織としての欠陥の発露の一つであり、決して、佐藤と宮脇の個人的な問題ではないのではなかろうか。

 佐藤は、先に引用した箇所にこう続けている。

「政党の腐敗、議会のだらしなさを憤慨している陸軍の少壮将校が、二・二六事件の一周年記念日に、熱海で会談して議会対策をした。佐藤は熱海会談に参加し、その決議に基づいて、どなったのだ。議員が今のようなていたらくでは、またピストルが飛ぶかもしれない」
 この流言飛語を飛ばしたのは、元長崎県知事であった西岡竹次郎〔1890-1958、西岡武夫・元参議院議長の父〕氏だったという。これは「麹町老人」といわれた政界の黒幕、秋山定輔〔1868-1950〕氏の指しがねで、議会をしずめ、近衛内閣に議会を乗り切らそうとした謀略であったそうである。
 私はそのことを「麹町老人」からあとで直接聞いた。熱海会談など全くのデマであった。私の関知するところでもなく、そんな事実もない。私がこんな挙に出たのは誰の指図でもない。私は杉山大臣に詫びて、処分を請うたくらいであった。爾後、登院を自発的に遠慮した。処罰は受けなかった。
 この事件を世間では大きく取り扱いすぎる感があった。まるで陸軍が議会を圧迫し、その勢力を衰頽させたかのようにいったのである。実に、ばかげたことである。一説明員の一喝で衰頽するような議会なら、放っておいても潰れるであろう。そればかりでなく、開戦当時、一課長にすぎなかった私が、大臣たちと並んでA級戦犯の仲間入りする光栄(?)に浴したのもこの事件のお陰のようだ。(p.122)


 確かに、「黙れ」事件は、まるで陸軍が議員を一喝して、国家総動員法を可決させたかのように語られることもあるが、そういうわけではない。
 昭和13年3月3日の帝国議会会議録を確認すると、佐藤の「黙れ」発言に対して議員らが抗議し、委員長に促されて佐藤はその場で発言を取り消している。
 そして翌日の委員会では冒頭に杉山元陸相が陳謝している。
 審議はその後何日もかけて進められ、最終的には全会一致で可決している。
 だから、陸軍が議会を恫喝して意のままとしたというような話ではない。
 しかし、少壮将校の傲慢さ、尊大さの現れだとは言えるだろう。

 佐藤が続いて紹介している次のエピソードも、それを示しているのではないかと思える。

 議会にからむ、もっと大きな失態を告白しよう。大本営が設立されてまもなく、陛下から大本営の首脳者に御陪食を賜わった。私は参内の前にちょっと議会の様子を見に行って、中国問題に関する委員会に出席したとたん、御陪食のことを忘れてしまった。
 委員会が終わってから気がついたがもうまに合わぬ。ない〔原文ママ〕東条陸相の退出を待って報告すると、陸相もあわてて、言下に「軽謹慎を命ず」と叫び、「自分は今から参内して陛下にお詫びを申し上げる。おまえは松平宮内大臣の許へお詫びに行け」と命じた。
 明治いらい、御陪食を忘れたのは私だけだと聞き、まったく恐懼の至りであった。(P.123)


(もっとも、大本営が設立されたのは日中戦争中の昭和12年で、東條が陸相となったのは昭和15年だから、「設立されてまもなく」では時期が合わないのだが)



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