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『佐藤賢了の証言』を読んで(下) 戦後も国民をだまし続けた軍要人

2013-08-29 22:27:08 | 大東亜戦争
((上)はこちら

 本書の第三部「言い残しておくこと」の中に、昭和18年の大東亜政略要綱や大東亜会議についての一節がある。
 その中で佐藤はインドネシアについてこう書いている(〔〕内は引用者による註。以下同)。

 東條首相は〔昭和18年〕七月六日、スマトラのパレンバン石油産地に飛び、七日バタビアを訪れた。スカルノ、ハッタ両氏を始め指導者たちを激励すると共に、国民大会に臨んだ。極めて盛会であり、インドネシア民衆の盛り上がる力を如実に感得した。
 五月三十一日、御前会議で決定された大東亜政略指導要綱で、
「マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスは重要資源の供給源としてこれが開発、民心把握につとめ、原住民の民度に応じ、つとめて政治に参与させる。ただし当分軍政を継続す」
 と決められたので、インドネシア訪問の前日、東條首相は臨時国会で、
「インドネシア人の政治参与を許すとともに、その独立に対して、能(あた)う限り速やかにその実現を期する」
 旨を声明し、彼等が始めて政治参与できることとなったので、意気頗る上がっていた。その前からスカルノが委員長、ハッタが副委員長で実施していたプートラ運動(民衆総力結集運動)にはいよいよ熱を加えた。
 インドネシアの政治参与は十八年八月一日、次のように実施された。
 中央参議院  軍司令官に直属する軍政の最高諮問機関である。議長はスカルノであった。
 参議院  各州、および特別市に開設され、議院は州内の県や市から一名ずつ選ばれ、諮問に応じ建議もできた。
 参与  軍政監部各局に、民族運動の指導者が任命され、将来、大臣の見習という格であった。
 州長官  ジャカルタ州ほか三州に、インドネシア人を州長官に任命した(オランダ統治時代には県長以上にはインドネシア人は任命されなかった)。
 以上のようにして、政治参与の道は開かれたが、スカルノ以下の指導者達及び民衆も、ビルマ、比島〔フィリピン〕に独立が与えられたのに、独立が許与されないので大いに不満であった。日本は比島及びビルマには独立を与える旨早く宣言したが、インドネシアには政治参与だけで独立を与える期日は明言しなかった。
〔中略〕
 インドネシアに独立を与えようとしなかったのは、民度も低く、経済も困難なので、独立させてもうまくやって行けそうもない。独立の資格のないものに独立を与えると結局、日本が絶えず内政干渉をしなければならなくなる。
 特にインドネシアは石油・アルミ・ニッケル・ゴム・キナ等重要資源の宝庫であって、戦後各国の利権活動が激しくなることは予想に難くない。独立となれば外国の利権活動とからんで、絶えずその内政が攪乱される。この宝庫は日本の生命線で、この宝庫から閉め出されたから戦争に訴えた。といっても過言でないのだから、この地域はしっかり日本が把握しなければならない。
 しかしその把握、すなわち帰属、および統合の形式は軽々決定し得ないから、東條内閣では一切言明を避けたのであった。東條首相は特に何人にも、政府が宣言したものの外は、一切帰属に関しては厳に言明を封じたのである。
 しかし、こうした考え方は適当でなかった。民族の独立の願望は、民度や経済などで律することの不可能なものがある。長い間の侵略搾取の圧制下に呻吟してきたインドネシア民族の独立の願望が、かくまで熱烈であろうとは、戦争初期には、われわれには十分理解できかった〔原文ママ〕。前述のように偉大な宝庫の帰属をどうしようかは、過度に言質を与えてはならない、ということで頭が一杯であったのはたしかに誤りであった。〔中略〕
戦局いよいよ悪化し、終戦の間際になって 始めて独立許与の声明をしたのはたしかに日本の不手際であった。もし早くからこの挙に出ていたら、戦後、インドネシアの民心は更に親日的なものになったであろうと思われる。
 戦時中のインドネシアの民族独立運動の熱烈であったことは、われわれには十分わからなかった。戦後、これを聞きかつ読んで、大いに反省した次第である。(p.432-434)


「民度も低く、経済も困難なので、独立させてもうまくやって行けそうもない。独立の資格のないものに独立を与えると結局、日本が絶えず内政干渉をしなければならなくなる」
 この箇所には驚いた。
 これはいったい、オランダがインドネシアを支配していた論理とどう違うのだろうか。

 ところで、ここで佐藤が挙げている大東亜政略指導要綱の引用は正確ではない。
 江藤淳・編『終戦史録』(北洋社、1977)の1巻から大東亜政略指導要綱のうちインドネシアに関連する部分をを引用する(太字は引用者による)。

六、その他の占領地域に対する方策を左の通り定む。
 但し、(ロ)(ニ)以外は当分発表せず。
 (イ)「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握に努む。
 (ロ)前号各地域においては原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ。
 (ハ)「ニューギニア」等(イ)以外の地域の処理に関しては前二号に準じ追て定む。
 (ニ)前記各地においては当分軍政を継続す。


 「帝国領土と決定」していたのだから、政治参与は認めたとしても、独立など有り得なかったのである。

 しかし、佐藤の引用では上記の太字部分が抜け落ちている。
 「当分発表せず」とされた部分を除外して当時実際に発表されたものを、佐藤は元にしているのではないだろうか。

 『終戦史録』は、もともと外務省が編纂して1952年に刊行した全1巻の大冊の史料集である。私が引用した江藤淳・編の北洋社版はそれを6巻に分冊し、一般読者向けにカタカナをひらがなに直したり、漢字をひらがなに開いたり、漢字の旧字体を新字体にしたりといった手が加えられ、江藤による解説や波多野澄雄による補註が付された新版である。
 しかし、「新版にするに当たって、原本を一字一句余さず完全に再録し」たと凡例にはあるので、原本にない文章が加えられているはずはない。
 とすれば、上記の大東亜政略指導要綱の「当分発表せず」とされた部分も、1952年には既に公刊されていたということになる。
 なのに、それを佐藤は隠している。

 佐藤は、1942年4月から1944年12月まで、陸軍省軍務局長を務めている。
 軍務局とは、軍における行政(軍政)を担当し、また軍の政治的意志を司った部署である。その長を務めていた佐藤が、「当分発表せず」とされた部分を含めた大東亜政略指導要綱の全文の内容を知らぬはずがない。
 それを、戦後数十年経ってもなお「当分発表せず」とされた部分を明らかにせず、「軽々決定し得ないから、東條内閣では一切言明を避けた」と述べるにとどめるのは、戦後の読者を惑わすものだろう。

 また、「東條首相は特に何人にも、政府が宣言したものの外は、一切帰属に関しては厳に言明を封じたのである」のくだりは、読みようによっては、「言明を封じた」のは東條であり、自分はそれに従ったにすぎず、今も従っているだけなんだよ、との弁明とも受け取れる。

 こんな態度でありながら、独立を認めなかったのは「不手際であった」「反省した」と書かれても、私は説得力を覚えない。

 しかし佐藤は、独立を明言しなかったと言う一方で、「東條首相は臨時国会で、「インドネシア人の政治参与を許すとともに、その独立に対して、能(あた)う限り速やかにその実現を期する」旨を声明し」と書いている。
 不思議に思って帝国議会会議録に当たってみると、まず、東條が議会で声明したと佐藤が言う「インドネシア訪問の前日」とは、「東條首相は七月六日、スマトラのパレンバン石油産地に飛び、七日バタビアを訪れた」とあるから1943年の7月5日か6日ということになるが、両日とも議会は開かれていない。
 同年の6月16日の衆議院速記録にそれらしき東條の発言があった。大東亜の動向を概観するとして、満洲国、中華民国(汪精衛政権)、タイ、そして独立の準備を進めるビルマとフィリピンに続いて、インドネシアについて言及している。以下引用する(カタカナはひらがなに、漢字の旧字は新字に直した)。

 尚ほ「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」等の原住民は、皇軍の軍政下に営々として協力の度を増大しつつあるのであります、即ち戦争下に於きましても、既に彼等は現地皇軍の心からなる指導に依り、従来の精神的圧迫より解放せられ、現に教育、其の他各種の文化的恩恵に浴し、未だ嘗てなき希望に満ちたる生活を営んで居るのであります、「インドネシア」民衆の為め、洵〔まこと〕に欣快に存ずる次第であります、帝国は此の際更に進んで原住民の念願に基き、それぞれの民度に応じて、本年中には原住民の政治参与に関する措置を逐次執つて参る所存であります(拍手)就中「ジャワ」に付きましては、其の民度に鑑み、民衆の輿望に応へて、能ふ限り速かに是が実現を期せんとするものであります


 これで全てである。大東亜政略指導要綱のとおりであり、「能ふ限り速かに是が実現を期せんとする」のは「ジャワ」における「原住民の政治参与」である。どこにも「独立」の文字はない。
 佐藤は嘘をついている。

 こうした「証言」を残す者は、歴史を愚弄していると言えるだろう。
 つくづく、昭和戦中期というのはろくでもない人間が国の中枢に巣くっていたのだなあと思う。

(関連拙記事
日本にはマレーシアを独立させるつもりはなかった」


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