「ナチスの手口に学んだら」で問題となった7月29日の麻生太郎副総理兼財務相の講演の報道に対して、マスコミは発言を恣意的に解釈して報じている、麻生の真意はそのようなものではないとの批判があった。
例えば、私がtwitterでフォローしているある方は、当初の読売新聞の報道にこうツイートしていた。
これに対して、私が
と述べたところ、
といったツイートが返ってきたが、しかし麻生は、朝日新聞デジタルの「発言の詳細」によると
と、憲法は良くてもヒトラーという悪いものが出てくるとは言っているものの、喧噪だの熱狂だの狂騒だのという話はしていない。
そして、
と言っているのだから、麻生が、ナチスの下で憲法は「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」「みんないい憲法と……納得して……変わっている」と考えていることは明らかだ。そう考えないと、この方のおっしゃるように前後が矛盾してしまう。
もっとも、それでも「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」と、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」もまた矛盾するので、このあたりは要するに適当なことを言っているのだろう。
では、ナチスは憲法を「だれも気づかない」うちに変えたのか、あるいは「みんないい憲法と……納得し」た上で変えたのか。
また、ナチスは「きちんとした議会で多数を握って」出てきたのか。「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」のか。
そもそも「ナチス憲法」などというものはなく、ナチスは全権委任法によりワイマール憲法の効力を停止したにすぎないことは以前述べたとおりだが、その経過について、もう少し詳しく説明しておきたい。
1918年、ドイツは第一次世界大戦に敗れ、皇帝は退位し、帝制は倒れた。臨時政府はワイマールの地に国会を招集し、第1党となった社会民主党の党首エーベルトを初代大統領に選出し、新憲法を制定した。国民主権が定められ、大統領は国民の直接選挙により選出されるとされ、任期は7年、緊急命令権が認められていた。国会では過半数を制する政党はなく、連立内閣がめまぐるしく交代した。
1925年にエーベルトが死去すると、後任の大統領には第一次大戦の英雄であるヒンデンブルク元帥が保守派に担がれて当選した。賠償とインフレに苦しんだドイツ経済は立ち直りを見せ、国際連盟に加盟するなど国際社会に復帰し、議会政治も定着し、国民の生活は安定しつつあった。
ナチスの前身は1919年に結成されたドイツ労働者党というミニ政党であった。軍人であったヒトラーはこの党の調査を命じられてこれに接触し、彼らに勧められて入党し、特異なカリスマ性で党を牛耳った。党は1920年に国家社会主義ドイツ労働者党と改称し(ナチスは俗称)、勢力を拡大し、極右団体の指導者格となった。
1923年、ナチスはバイエルン州のミュンヘンで革命政権の樹立を試みたが失敗し(ミュンヘン一揆)、ヒトラーは入獄してナチスのバイブル『わが闘争』を口述した。1924年末には釈放されて、党を再建した。しかし1920年代後半のドイツは比較的安定しており、ナチスの出番はなかった。
1929年10月のウォール街の株式大暴落に端を発した世界恐慌はドイツ経済を直撃した。失業者が激増し国家財政は破綻した。1930年、社民党のミュラーを首班とする連立内閣は与党間の不統一により瓦解した。ヒンデンブルク大統領は、側近シュライヒャー将軍の進言により、後継首相に第3党である中央党(カトリック系の中道政党)のブリューニングを指名した。この内閣はそれまでと異なり、国会の多数派に拠らず大統領の権力に依拠したものであり、以後同様の内閣が3代続き「大統領内閣」と呼ばれる。
ブリューニング内閣は増税と緊縮財政による再建を図り、大統領緊急命令によりこれを実行した。国会がこれに拒否権を行使すると、国会の解散をもって応じた。
1930年9月に行われた総選挙で、ナチスは12議席から107議席に大躍進し、社民党に次ぐ第2党となった。
社民党 143
ナチス 107
共産党 77
中央党 68
国家人民党 41
ドイツ人民党 30
民主党 20
バイエルン人民党 19
その他 72
計 577
共産党も前回の54議席から77に伸ばし、両党の武装組織がベルリン市街で衝突した。ブリューニング内閣は大統領の権限を多用して政権を維持したが、不況は悪化し、首相の人気は低迷した。
1932年3月には任期満了による大統領選挙が実施され、ヒトラーや共産党のテールマンが立候補したが、ヒンデンブルクが1900万票を獲得して再選された(ヒトラーは1300万票で2位)。ブリューニングはこの再選に尽力したが、大統領の信任を失い、同年5月に内閣は総辞職した。
後継首相に指名されたのは騎兵出身のパーペン男爵だった。パーペンは中央党に属するプロイセン州議会議員であったが、政治的には無名であり(国会議員ではない)、シュライヒャー将軍の傀儡として起用された。首相就任に反対した中央党はパーペンを除名した。シュライヒャーは国防相として入閣した。彼は以前からナチスに接近し、そのワイマール体制への取り込みを図っていた。
国会に基盤を持たないパーペンはナチスに協力を要請し、ナチスの国会解散の要求に応じた。1932年7月に行われた総選挙で、ナチスはさらに倍以上の議席を獲得し、ついに第1党となった。しかし過半数を得ることはできなかった。共産党も議席を増やし第3党の座を維持した。社民党は第1党から転落したが第2党にとどまった。
ナチス 230
社民党 133
共産党 89
中央党 75
国家人民党 37
バイエルン人民党 22
ドイツ人民党 7
民主党 4
その他 11
計 608
パーペンやシュライヒャーはヒトラーに副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求し、交渉は決裂した。
9月に国会が招集され、議長に第1党であるナチスのゲーリングが就任した。パーペンは大統領令により直ちに国会を解散しようと図ったが、ゲーリング議長はパーペンの発言より共産党が提出した内閣不信任決議案の採決を先行させ、これが512対42の圧倒的賛成で可決された後、国会は解散された。
11月に同年二度目の総選挙が行われ、ナチスは第1党の座は維持したものの議席を減らした。第2党の社民党も議席を減らしたが、第3党の共産党は議席を増やした。
ナチス 196
社民党 121
共産党 100
中央党 70
国家人民党 52
バイエルン人民党 20
ドイツ人民党 11
民主党 2
その他 12
計 584
パーペンは再びヒトラーに副首相としての入閣を要請したが、ヒトラーも再び拒否し、パーペン内閣は総辞職した。パーペンは国会を停止し政党や労組を解散させて新憲法を制定するというプランを提唱したが、シュライヒャー国防相は、パーペンの案ではナチスや共産党の蜂起を招き国防軍も治安を維持できないとしてこれに反対し、自分であればナチスを分断し社民党や中央党をも与党に取り込めると主張した。ヒンデンブルク大統領はシュライヒャーに組閣を命じた。シュライヒャー首相兼国防相はナチス左派の領袖シュトラッサーに入閣を求め、シュトラッサーはナチス党内で政権参加を主張したが、ヒトラーは彼を裏切り者呼ばわりし、党議は拒否に決した。シュトラッサーは党の役職を辞任して国外に去り、ナチス分断は失敗した。シュライヒャーは他の政党の取り込みにも失敗し、ついに軍部による独裁を提言したが、大統領に拒否され辞任した。
大統領はお気に入りのパーペン前首相に再び組閣を命じ、パーペンはナチス及び右派政党である国家人民党と連携を図り、大統領もこれを容認した。1933年1月30日、ヒトラーはついに首相に就任した。副首相はパーペン、経済相に国家人民党の党首フーゲンベルク。ナチスからはフリッツ内相とゲーリング無任所相の2名しか入閣しなかった。パーペンはヒトラーを取り込んだつもりでいた。
ヒトラーはすぐさま国会を解散し、3月5日に総選挙が行われたが、その直前の2月27日国会議事堂が炎上した。オランダ人の共産主義者の青年が実行犯として逮捕されたが、ナチスはこれを共産党の武装蜂起の一端であると宣伝して、党員や支持者を大量に逮捕するなど大弾圧を加えた。
選挙の結果、ナチスはさらに議席を増やしたが、それでもなお過半数には達しなかった。社民党は第2党のままであり、苛烈な弾圧にもかかわらず共産党も第3党を維持した。
ナチス 288
社民党 120
共産党 81
中央党 74
国家人民党 52
バイエルン人民党 18
民主党 5
ドイツ人民党 2
その他 7
計 647
3月23日、全権委任法が国会で成立した。この可決には3分の2を要するとされたが、与党であるナチスと国家人民党だけではそれに達しなかった。しかし中央党などの諸政党もナチスの圧力により賛成に転じた。共産党は出席できず、反対したのは社民党のみで(社民党も一部の議員が逮捕されていた)、441対94の圧倒的賛成により可決した。
ヒトラー政権は6月に社民党を禁止し、国家人民党や中央党などの諸政党も解党した。7月には政党の新規結成は禁止され、ナチスのみが唯一の政党として残った。フーゲンベルクは閣外へ去り、パーペンは副首相にとどまったが何の力も持たなかった。ナチスの一党独裁体制が確立された。
外交官を務めた加瀬俊一(1903-2004)は『ワイマールの落日』(光人社文庫、1998、親本は文藝春秋、1976)でこう書いている。
また、フランスの学者クロード・ダヴィドは『ヒトラーとナチズム』(長谷川昭安訳、文庫クセジュ(白水社)、1971)でこう書いている。
確かに、ナチスは選挙で第1党となった。しかし単独過半数を得ることはできず、他勢力との連立によってようやく政権を獲得した。
その段階においても、ワイマール体制を維持してきた既成政党である社民党や中央党は一定の支持を確保していたのであり、決して国民がこぞってナチスを支持し、熱狂したのではない。
したがって、麻生発言の「きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきた」「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」といった箇所は、やや問題がある。
そして、ヒトラーはかねてから議会による民主制を否定し独裁制を採るべしと主張していたのであり、全権委任法はヒトラー内閣誕生の当然の帰結だった。そういう意味では「ある日気づいたら……変わっていた」わけでもないし、暴力を背景とした圧力により賛成させ、反対派は弾圧したのだから、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」わけでもない。
以前の記事で、「麻生はナチスの独裁確立やワイマール憲法の末路について、あまりよく理解していないか、誤って理解しているのではないか」と述べた所以である。
例えば、私がtwitterでフォローしているある方は、当初の読売新聞の報道にこうツイートしていた。
これさ「ナチスがワイマール憲法をいかに変えたか?それは喧騒と熱狂の間に変えてしまった。そんな事はせずに静かに議論しよう。ナチスの手口を知ってそうならないようにしよう」みたいな事を言ったらしいな。つまり読売新聞のミスリードっぽい。
これに対して、私が
それはちょっと違うと思います。主旨は「静かに議論しよう」だったのでしょうが、麻生は、ナチスは静かにワイマール憲法を変えた、その手口に学べと言っているのです。ナチスが喧騒と熱狂の間に変えたなどとは言っていません。理解しがたい発言です。
と述べたところ、
記事を読むと「ナチスがワイマール憲法を変えた時のように狂騒の中で決めないで欲しい」と言ってるって事だと思うんだけど?「冷静に考えて欲しい」と言ってると思うんだけど?
ナチスが政権を取った時は「ナチスが第一党に躍り出た時で、その時に過半数以上を取り、議会を完全に掌握。さらに民主も、ナチスなら間違いない。ヒトラーに任せて大丈夫」って、時期でこれが「狂騒」
そもそもワイマール憲法が骨抜きにされたという批判は「ヒトラーと言うカリスマが民衆を狂騒の中に落としいれ、合法的に憲法を骨抜きにした」って、批判されているわけで。その前提を踏まえるて憲法を変えようとしている自民党の発言としては「静かにやろうや」「あの手口を学んではどうか」との発言は矛盾するわけ。
といったツイートが返ってきたが、しかし麻生は、朝日新聞デジタルの「発言の詳細」によると
僕は今、(憲法改正案の発議要件の衆参)3分の2(議席)という話がよく出ていますが、ドイツはヒトラーは、民主主義によって、きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきたんですよ。ヒトラーはいかにも軍事力で(政権を)とったように思われる。全然違いますよ。ヒトラーは、選挙で選ばれたんだから。ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。間違わないでください。
そして、彼はワイマール憲法という、当時ヨーロッパでもっとも進んだ憲法下にあって、ヒトラーが出てきた。常に、憲法はよくても、そういうことはありうるということですよ。ここはよくよく頭に入れておかないといけないところであって、私どもは、憲法はきちんと改正すべきだとずっと言い続けていますが、その上で、どう運営していくかは、かかって皆さん方が投票する議員の行動であったり、その人たちがもっている見識であったり、矜持(きょうじ)であったり、そうしたものが最終的に決めていく。
と、憲法は良くてもヒトラーという悪いものが出てくるとは言っているものの、喧噪だの熱狂だの狂騒だのという話はしていない。
そして、
昔は静かに行っておられました。各総理も行っておられた。いつから騒ぎにした。マスコミですよ。いつのときからか、騒ぎになった。騒がれたら、中国も騒がざるをえない。韓国も騒ぎますよ。だから、静かにやろうやと。憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。
わーわー騒がないで。本当に、みんないい憲法と、みんな納得して、あの憲法変わっているからね。ぜひ、そういった意味で、僕は民主主義を否定するつもりはまったくありませんが、しかし、私どもは重ねて言いますが、喧噪(けんそう)のなかで決めてほしくない。
と言っているのだから、麻生が、ナチスの下で憲法は「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」「みんないい憲法と……納得して……変わっている」と考えていることは明らかだ。そう考えないと、この方のおっしゃるように前後が矛盾してしまう。
もっとも、それでも「ある日気づいたら……変わっていた」「だれも気づかないで変わった」と、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」もまた矛盾するので、このあたりは要するに適当なことを言っているのだろう。
では、ナチスは憲法を「だれも気づかない」うちに変えたのか、あるいは「みんないい憲法と……納得し」た上で変えたのか。
また、ナチスは「きちんとした議会で多数を握って」出てきたのか。「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」のか。
そもそも「ナチス憲法」などというものはなく、ナチスは全権委任法によりワイマール憲法の効力を停止したにすぎないことは以前述べたとおりだが、その経過について、もう少し詳しく説明しておきたい。
1918年、ドイツは第一次世界大戦に敗れ、皇帝は退位し、帝制は倒れた。臨時政府はワイマールの地に国会を招集し、第1党となった社会民主党の党首エーベルトを初代大統領に選出し、新憲法を制定した。国民主権が定められ、大統領は国民の直接選挙により選出されるとされ、任期は7年、緊急命令権が認められていた。国会では過半数を制する政党はなく、連立内閣がめまぐるしく交代した。
1925年にエーベルトが死去すると、後任の大統領には第一次大戦の英雄であるヒンデンブルク元帥が保守派に担がれて当選した。賠償とインフレに苦しんだドイツ経済は立ち直りを見せ、国際連盟に加盟するなど国際社会に復帰し、議会政治も定着し、国民の生活は安定しつつあった。
ナチスの前身は1919年に結成されたドイツ労働者党というミニ政党であった。軍人であったヒトラーはこの党の調査を命じられてこれに接触し、彼らに勧められて入党し、特異なカリスマ性で党を牛耳った。党は1920年に国家社会主義ドイツ労働者党と改称し(ナチスは俗称)、勢力を拡大し、極右団体の指導者格となった。
1923年、ナチスはバイエルン州のミュンヘンで革命政権の樹立を試みたが失敗し(ミュンヘン一揆)、ヒトラーは入獄してナチスのバイブル『わが闘争』を口述した。1924年末には釈放されて、党を再建した。しかし1920年代後半のドイツは比較的安定しており、ナチスの出番はなかった。
1929年10月のウォール街の株式大暴落に端を発した世界恐慌はドイツ経済を直撃した。失業者が激増し国家財政は破綻した。1930年、社民党のミュラーを首班とする連立内閣は与党間の不統一により瓦解した。ヒンデンブルク大統領は、側近シュライヒャー将軍の進言により、後継首相に第3党である中央党(カトリック系の中道政党)のブリューニングを指名した。この内閣はそれまでと異なり、国会の多数派に拠らず大統領の権力に依拠したものであり、以後同様の内閣が3代続き「大統領内閣」と呼ばれる。
ブリューニング内閣は増税と緊縮財政による再建を図り、大統領緊急命令によりこれを実行した。国会がこれに拒否権を行使すると、国会の解散をもって応じた。
1930年9月に行われた総選挙で、ナチスは12議席から107議席に大躍進し、社民党に次ぐ第2党となった。
社民党 143
ナチス 107
共産党 77
中央党 68
国家人民党 41
ドイツ人民党 30
民主党 20
バイエルン人民党 19
その他 72
計 577
共産党も前回の54議席から77に伸ばし、両党の武装組織がベルリン市街で衝突した。ブリューニング内閣は大統領の権限を多用して政権を維持したが、不況は悪化し、首相の人気は低迷した。
1932年3月には任期満了による大統領選挙が実施され、ヒトラーや共産党のテールマンが立候補したが、ヒンデンブルクが1900万票を獲得して再選された(ヒトラーは1300万票で2位)。ブリューニングはこの再選に尽力したが、大統領の信任を失い、同年5月に内閣は総辞職した。
後継首相に指名されたのは騎兵出身のパーペン男爵だった。パーペンは中央党に属するプロイセン州議会議員であったが、政治的には無名であり(国会議員ではない)、シュライヒャー将軍の傀儡として起用された。首相就任に反対した中央党はパーペンを除名した。シュライヒャーは国防相として入閣した。彼は以前からナチスに接近し、そのワイマール体制への取り込みを図っていた。
国会に基盤を持たないパーペンはナチスに協力を要請し、ナチスの国会解散の要求に応じた。1932年7月に行われた総選挙で、ナチスはさらに倍以上の議席を獲得し、ついに第1党となった。しかし過半数を得ることはできなかった。共産党も議席を増やし第3党の座を維持した。社民党は第1党から転落したが第2党にとどまった。
ナチス 230
社民党 133
共産党 89
中央党 75
国家人民党 37
バイエルン人民党 22
ドイツ人民党 7
民主党 4
その他 11
計 608
パーペンやシュライヒャーはヒトラーに副首相として入閣するよう求めたが、ヒトラーは首相の地位を要求し、交渉は決裂した。
9月に国会が招集され、議長に第1党であるナチスのゲーリングが就任した。パーペンは大統領令により直ちに国会を解散しようと図ったが、ゲーリング議長はパーペンの発言より共産党が提出した内閣不信任決議案の採決を先行させ、これが512対42の圧倒的賛成で可決された後、国会は解散された。
11月に同年二度目の総選挙が行われ、ナチスは第1党の座は維持したものの議席を減らした。第2党の社民党も議席を減らしたが、第3党の共産党は議席を増やした。
ナチス 196
社民党 121
共産党 100
中央党 70
国家人民党 52
バイエルン人民党 20
ドイツ人民党 11
民主党 2
その他 12
計 584
パーペンは再びヒトラーに副首相としての入閣を要請したが、ヒトラーも再び拒否し、パーペン内閣は総辞職した。パーペンは国会を停止し政党や労組を解散させて新憲法を制定するというプランを提唱したが、シュライヒャー国防相は、パーペンの案ではナチスや共産党の蜂起を招き国防軍も治安を維持できないとしてこれに反対し、自分であればナチスを分断し社民党や中央党をも与党に取り込めると主張した。ヒンデンブルク大統領はシュライヒャーに組閣を命じた。シュライヒャー首相兼国防相はナチス左派の領袖シュトラッサーに入閣を求め、シュトラッサーはナチス党内で政権参加を主張したが、ヒトラーは彼を裏切り者呼ばわりし、党議は拒否に決した。シュトラッサーは党の役職を辞任して国外に去り、ナチス分断は失敗した。シュライヒャーは他の政党の取り込みにも失敗し、ついに軍部による独裁を提言したが、大統領に拒否され辞任した。
大統領はお気に入りのパーペン前首相に再び組閣を命じ、パーペンはナチス及び右派政党である国家人民党と連携を図り、大統領もこれを容認した。1933年1月30日、ヒトラーはついに首相に就任した。副首相はパーペン、経済相に国家人民党の党首フーゲンベルク。ナチスからはフリッツ内相とゲーリング無任所相の2名しか入閣しなかった。パーペンはヒトラーを取り込んだつもりでいた。
ヒトラーはすぐさま国会を解散し、3月5日に総選挙が行われたが、その直前の2月27日国会議事堂が炎上した。オランダ人の共産主義者の青年が実行犯として逮捕されたが、ナチスはこれを共産党の武装蜂起の一端であると宣伝して、党員や支持者を大量に逮捕するなど大弾圧を加えた。
選挙の結果、ナチスはさらに議席を増やしたが、それでもなお過半数には達しなかった。社民党は第2党のままであり、苛烈な弾圧にもかかわらず共産党も第3党を維持した。
ナチス 288
社民党 120
共産党 81
中央党 74
国家人民党 52
バイエルン人民党 18
民主党 5
ドイツ人民党 2
その他 7
計 647
3月23日、全権委任法が国会で成立した。この可決には3分の2を要するとされたが、与党であるナチスと国家人民党だけではそれに達しなかった。しかし中央党などの諸政党もナチスの圧力により賛成に転じた。共産党は出席できず、反対したのは社民党のみで(社民党も一部の議員が逮捕されていた)、441対94の圧倒的賛成により可決した。
ヒトラー政権は6月に社民党を禁止し、国家人民党や中央党などの諸政党も解党した。7月には政党の新規結成は禁止され、ナチスのみが唯一の政党として残った。フーゲンベルクは閣外へ去り、パーペンは副首相にとどまったが何の力も持たなかった。ナチスの一党独裁体制が確立された。
外交官を務めた加瀬俊一(1903-2004)は『ワイマールの落日』(光人社文庫、1998、親本は文藝春秋、1976)でこう書いている。
ヒトラーはナチス文献が宣伝するように、国民革命の大潮流に乗って、政権を獲得したのではない。いわば、謀略によって裏階段から首相官邸に忍びこんだようなものでもある。現に、ナチスは選挙〔引用者註:政権獲得前の〕において三七パーセント以上を獲得したことはない。だから、もし残りの六三パーセントが一致して抵抗したら、政権を奪取することはできなかったはずである。
そうならなかったのは、まず、共産党がナチスよりも社民党を、「社会ファシズム」と呼び、最大の敵として戦ったからであり、他方、社民党が労組出身者にひきいられる無気力なプチ・ブル集団に転落し、また、中道保守派が分裂抗争を反復して、反ナチス大同団結の必要に目ざめなかったからである。中央党に到っては、最後までナチスと妥協を試みるような不見識を暴露したのである。だが、ヒトラーをして名を成さしめた最大の責任は、右翼保守派のナショナリストが負わねばなるまい。彼らは敗戦後も格別痛めつけられず、むしろ、陽の当たる場所にいたにもかかわらず、共和体制になじまず、これを敵視し、機会があればワイマール体制を打倒し、帝制を回復して昔の権力を再び握ろうと画策した。しかも、派閥抗争に勢力を徒費し、敗戦-インフレ-不況-失業の連打にうちのめされて、絶望にある大衆の救済を怠った。だから、大衆は救世の指導者が出現することを待望した。ヒトラーはこの心理を巧みに衝いたのである。(p.232-233)
また、フランスの学者クロード・ダヴィドは『ヒトラーとナチズム』(長谷川昭安訳、文庫クセジュ(白水社)、1971)でこう書いている。
不満と不安とにかられたドイツ国民が急進的な政党にはしり、やけっぱちになったのはむりもないところである。しかし、ここで注意しなければならないのは、右翼勢力の進出はまちがいない事実であったにしても、その進出ぶりが野火のように急であったとする説があやまりであるということである。ちなみにヴァイマル共和制時代におこなわれた選挙の結果を順をおってしらべてみるならば、社会民主党とカトリック中央党が共和制の最後まで安定した勢力をたもっていたことがわかる。〔中略〕それでは理屈にあわないということになるが、理由は簡単である。それはナチ党がすべての右翼系政党を吸収する一方、穏健派はしだいに急進的となり、人民党や民主党は姿を消していったからである。由緒ある正統右翼、国家人民党がナチ党と対立していたとする説を今日でもしばしば耳にすることがある。しかし、この国家人民党こそ金融界、産業界、国防軍などとならんで、はじめはヒトラーを買収し、やがてヒトラーの命令にいっさい服さねばならなくなったのである。のちナチ党への抵抗運動が組織されたのも、これら伝統的保守勢力のなかからであった。かつて唯一の支持者としてヒトラーに独裁者への道をひらいてやり、いままたそのゆきすぎをくいとめるために抵抗をこころみるのであるが、ときすでにおそかったのである。(p.50-51)
確かに、ナチスは選挙で第1党となった。しかし単独過半数を得ることはできず、他勢力との連立によってようやく政権を獲得した。
その段階においても、ワイマール体制を維持してきた既成政党である社民党や中央党は一定の支持を確保していたのであり、決して国民がこぞってナチスを支持し、熱狂したのではない。
したがって、麻生発言の「きちんとした議会で多数を握って、ヒトラー出てきた」「ドイツ国民はヒトラーを選んだ」といった箇所は、やや問題がある。
そして、ヒトラーはかねてから議会による民主制を否定し独裁制を採るべしと主張していたのであり、全権委任法はヒトラー内閣誕生の当然の帰結だった。そういう意味では「ある日気づいたら……変わっていた」わけでもないし、暴力を背景とした圧力により賛成させ、反対派は弾圧したのだから、「みんないい憲法と……納得して……変わっている」わけでもない。
以前の記事で、「麻生はナチスの独裁確立やワイマール憲法の末路について、あまりよく理解していないか、誤って理解しているのではないか」と述べた所以である。