3月18日付け朝日新聞朝刊の天声人語。
末尾近くの、
「安倍さんの祖父の岸信介氏らは条約発効に伴って公職追放が解かれている。それはともかく、」
唐突なこの一節は何だろうか。
この流れでこんな話を持ち出す必要があるのだろうか。
いや、筆者の意図はわかる。
安倍晋三が岸信介の孫であることを改めて思い起こさせること。
その岸信介はA級戦犯容疑者として拘束され、釈放された後も主権回復までは公職追放されていたことをも思い起こさせること。
まるで祖父の公職追放解除を祝いたいのだろうと言わんばかりだ。
こんな下衆な文章を大新聞の1面コラムに載せていいのか。「天声人語書き写しノート」なるものも販売されているというのに。
あるいは、こんな下衆な文章が書けないと大新聞の論説委員は務まらないのか。
同じ日の夕刊のコラム「窓 論説委員室から」は川戸和史が「満州国と安倍バブル」と題して次のように述べている。
祖父が取り仕切った満洲国は破滅したから、「安倍バブル」もわが国を破滅させるおそれがあると言わんばかりである。
満洲国が破滅したのは必ずしもその構想自体が誤っていたからではなく、もっと別の要因によるものだと思うが。
朝日には、安倍首相と戦中・戦後の歴史をセットで語る時には、必ず岸信介に触れなければならないという決まりでもあるのか。
しかも、「それはともかく」「であったことはさておき」と、あたかも本筋ではなく、ただちょっと触れてみただけという逃げの姿勢がまたいやらしい。
こういうことを言うと、いや安倍は自ら岸の孫であることをウリにしているのだから、岸の負の面も継承すべきであるといった反論があるのだが、私はそれはおかしいと思う。
本人が自分の出自や祖先を語るのはよい。自分にまつわることであり、その発言の責任は自分がとればよいのだから。
しかし、他人が、ある人の出自を、その人を批判する材料として用いるのはよくない。
何故なら、人は親を選べない。先祖が行ったことは本人の責任ではない。
その人の責任ではないことで、その人を批判するべきではないと思うからだ。
誤解しないでいただきたいのだが、私は公人の出自を全く明らかにすべきではないと言うのではない。
公人が、出自はもちろん、家族や学歴、職歴、趣味嗜好、交友関係など、ある程度プライバシーをさらけ出さなければならないのは仕方ない。それがその人物を判断する材料に成り得るからだ。
しかし、本人のあずかり知らないことや、本人ではどうにもならないことを、本人を批判する材料として用いるのはよくない。それは、アンフェアだからだ。
安倍晋三が岸信介の孫であること。岸信介が満洲国を取り仕切ったこと。A級戦犯容疑者として拘束され、釈放後も主権回復まで公職追放されていたこと。
これらはいずれも安倍本人にはどうしようもないことである。その人自身ではどうしようもないことを、その人を批判する材料として用いるべきではない。
主権回復の日に疑問を呈すのに岸信介に触れる必要はないし、満洲国と「安倍バブル」を論じるにしても岸信介に触れる必要はない。上で引用した2記事は、いずれも岸信介の箇所がなくても成立するものだ。それを敢えて触れるというのは、それによって安倍政権にマイナスのイメージを与えようという意図があるからにほかならないだろう。
公人の出自をもって、公人本人を批判する人に対しては、ではその批判者自身の出自はどうなのかと問いたい。
批判者自身の先祖はどうなのか。戦中・戦後はどう過ごしたのか。一族郎党はどのような人物なのか。
そうした点を明らかにしないまま、立場上プライバシーを明らかにせざるを得ない公人の出自をもって、その公人を批判するとすれば、それはフェアとは言えないのではないか。
暗闇から石を投げるようなものではないか。
半年ほど前に、朝日新聞社の子会社が発行する雑誌が、「出自を根拠に人格を否定するという誤った考えを基調とし、人間の主体的尊厳性を見失っている」記事を載せて問題となり、朝日新聞社自身も「前例のない深刻な事態として、非常に重く受け止めています。差別を許さず、人権を守ることは朝日新聞社の基本姿勢であり、」「この基本姿勢を当社内にも改めて徹底する」と述べているのだが、どうも全く懲りていないように見受けられる。
「占領は終(おわ)った。六年八カ月間の長い長い占領は終った」と1952(昭和27)年4月28日の小欄は筆を起こしている。末尾は「占領よ、さようなら」の言葉で締めくくった。独立という、戦後の新しいステージへの静かな高揚が伝わってくる▼サンフランシスコ平和条約が発効したその日、日本は主権を回復した。同時に沖縄、奄美、小笠原は本土から切り離された。沖縄ではその後20年にわたって米軍統治が続くことになる。「屈辱の日」として記憶されてきたゆえんである▼平和条約をめぐって、国論を分かつ議論が起きたのはよく知られる。東西の両陣営と講和するか、米国など西側だけとの講和か、である。世論は沸騰した。しかし「日本」とは本土だけを指し、沖縄は忘れられていた▼それから61年、「主権回復の日」の式典なるものを政府が初めて行うそうだ。沖縄から反発の声が上がったのは当然だろう。復帰後も基地は集中し、治外法権的な地位協定は残る。今なお「占領よ、さようなら」と言えずにいる人は少なくあるまい▼「日本には長い占領期間があったことも知らない人が増えている」と安倍首相は言う。その通りだろうが、4・28は沖縄などを「質草(しちぐさ)」にしての主権回復だった。沖縄では日の丸も自由に掲げられなかった▼安倍さんの祖父の岸信介氏らは条約発効に伴って公職追放が解かれている。それはともかく、沖縄への想像力を持たずしてこの日は語れない。万歳三唱で終わるなら、やる意味もない。
末尾近くの、
「安倍さんの祖父の岸信介氏らは条約発効に伴って公職追放が解かれている。それはともかく、」
唐突なこの一節は何だろうか。
この流れでこんな話を持ち出す必要があるのだろうか。
いや、筆者の意図はわかる。
安倍晋三が岸信介の孫であることを改めて思い起こさせること。
その岸信介はA級戦犯容疑者として拘束され、釈放された後も主権回復までは公職追放されていたことをも思い起こさせること。
まるで祖父の公職追放解除を祝いたいのだろうと言わんばかりだ。
こんな下衆な文章を大新聞の1面コラムに載せていいのか。「天声人語書き写しノート」なるものも販売されているというのに。
あるいは、こんな下衆な文章が書けないと大新聞の論説委員は務まらないのか。
同じ日の夕刊のコラム「窓 論説委員室から」は川戸和史が「満州国と安倍バブル」と題して次のように述べている。
〔前略〕東大教授の安富歩さんは、バブル経済と満州事変などの戦争が似ていると指摘してきた。
「安倍バブル」に1980年代のバブルの熱気はないが、今の閉塞感はむしろ事変の当時により近いかもしれない。安富さんに聞いた。
「社会の倫理が崩壊して暴走の歯止めを失うプロセスはバブルも戦争も同じなのです。過ちを犯さないためには、政治家が本質的な問題は何かを国民に率直に訴え、ごまかさずに正面から取り組むことです。しかし、往々にして政治家は話をすり替えて国民に安易な逃げ道を示し、大失敗する。満州国は新興財閥を動員して大陸に王道楽土を建設すると、良いことずくめの話でしたが、結果は破滅的な損失でした」
満州国を取り仕切った一人が安倍晋三首相の祖父、岸信介元首相であったことはさておき、アベノミクスも一歩間違えば政府の誘導と民間の依存心の悪循環を生む危うさが漂う。
「既得権益を破って成長産業を育てるという真の課題から逃げ、脱デフレの期待をあおるのでは、逆に問題を悪化させます」と安富さん。
気をつけよう、王道楽土の甘い期待は高くつく。
祖父が取り仕切った満洲国は破滅したから、「安倍バブル」もわが国を破滅させるおそれがあると言わんばかりである。
満洲国が破滅したのは必ずしもその構想自体が誤っていたからではなく、もっと別の要因によるものだと思うが。
朝日には、安倍首相と戦中・戦後の歴史をセットで語る時には、必ず岸信介に触れなければならないという決まりでもあるのか。
しかも、「それはともかく」「であったことはさておき」と、あたかも本筋ではなく、ただちょっと触れてみただけという逃げの姿勢がまたいやらしい。
こういうことを言うと、いや安倍は自ら岸の孫であることをウリにしているのだから、岸の負の面も継承すべきであるといった反論があるのだが、私はそれはおかしいと思う。
本人が自分の出自や祖先を語るのはよい。自分にまつわることであり、その発言の責任は自分がとればよいのだから。
しかし、他人が、ある人の出自を、その人を批判する材料として用いるのはよくない。
何故なら、人は親を選べない。先祖が行ったことは本人の責任ではない。
その人の責任ではないことで、その人を批判するべきではないと思うからだ。
誤解しないでいただきたいのだが、私は公人の出自を全く明らかにすべきではないと言うのではない。
公人が、出自はもちろん、家族や学歴、職歴、趣味嗜好、交友関係など、ある程度プライバシーをさらけ出さなければならないのは仕方ない。それがその人物を判断する材料に成り得るからだ。
しかし、本人のあずかり知らないことや、本人ではどうにもならないことを、本人を批判する材料として用いるのはよくない。それは、アンフェアだからだ。
安倍晋三が岸信介の孫であること。岸信介が満洲国を取り仕切ったこと。A級戦犯容疑者として拘束され、釈放後も主権回復まで公職追放されていたこと。
これらはいずれも安倍本人にはどうしようもないことである。その人自身ではどうしようもないことを、その人を批判する材料として用いるべきではない。
主権回復の日に疑問を呈すのに岸信介に触れる必要はないし、満洲国と「安倍バブル」を論じるにしても岸信介に触れる必要はない。上で引用した2記事は、いずれも岸信介の箇所がなくても成立するものだ。それを敢えて触れるというのは、それによって安倍政権にマイナスのイメージを与えようという意図があるからにほかならないだろう。
公人の出自をもって、公人本人を批判する人に対しては、ではその批判者自身の出自はどうなのかと問いたい。
批判者自身の先祖はどうなのか。戦中・戦後はどう過ごしたのか。一族郎党はどのような人物なのか。
そうした点を明らかにしないまま、立場上プライバシーを明らかにせざるを得ない公人の出自をもって、その公人を批判するとすれば、それはフェアとは言えないのではないか。
暗闇から石を投げるようなものではないか。
半年ほど前に、朝日新聞社の子会社が発行する雑誌が、「出自を根拠に人格を否定するという誤った考えを基調とし、人間の主体的尊厳性を見失っている」記事を載せて問題となり、朝日新聞社自身も「前例のない深刻な事態として、非常に重く受け止めています。差別を許さず、人権を守ることは朝日新聞社の基本姿勢であり、」「この基本姿勢を当社内にも改めて徹底する」と述べているのだが、どうも全く懲りていないように見受けられる。
政治家なんだからしょうがないじゃん、で、おしまい。政治家のことを知る権利が国民にはあるのでねぇ。
この程度の批判が嫌ならば、とっくの昔に政治家を辞めてるって。
あと、「批判者自身の先祖はどうなのか」と、政治家との違いを無視するのは、バカにされて終わりですよ。ハハハ。
かって日本統治時代に日本に協力した人の子孫は、相続した財産をその子孫から没収などという、基地外じみた法律と同様な意味を持つのだと。
朴新大統領のお父さんは、日本の陸軍士官学校を3位で卒業し、満州建国に多大な貢献をし、政権を握ってからの行動は、満州国の創建のやり方を踏襲し行動は敏捷でした。満州国時代のコネ、日本の士官学校の仲間など、知る限りの日本の有能な人材を集めて、国家建設に使おうとしていました。国家建設のお手本は岸信介だと思い、彼の知恵と力を借りようと思って近づいたのです。
岸信介は朴に親書を送っています。韓国発展のために協力を惜しまないという趣旨の親書を送ったのです。その返書が朴から岸信介に送られました。その手紙の現物も残っています。
朴ら青年将校のクーデターは、日本の教育を濃厚にうけた彼らの頭に、日本の「明治維新」を想定した行動であると朴は語っています。30代40代の彼らにとって、日本の岸らは先生であり、満州国の建設、大東亜共栄圏は役立つ参考書であったとも言っています。
それからすると、現朴大統領や先代が韓国発展に尽くした人の子孫は、殆どが韓国の反日法に触れる筈でしょう。
朝日の言っている論理は、明らかに現実と乖離したものと言えます。自分達の調査能力も事実の追求能力もなく他国が言うことをそのまま伝えるだけの名ばかり新聞など、日本には必要ないでしょう。
その考えはごもっともだと思うけど、そこのツッコミは2の次だと思うけどね。
一番重要なのは、「これどう見ても印象操作だろw」というところなのでは?
安倍を批判する際に、その出自やら何やらを使って、「本質とは関係ないところ」を指摘する事がよくあることは有名だと思う。この手法は、それこそかつて麻生などもよくやられていたしね。
岸信介、統一教会、突然の辞職、アベノミクス…
色々意味なく突っ込まれているところも多く、更には「実際はどうだったのか?」という点があえて無視されることも多い。
明らかに、かなりタチの悪い印象操作。
「政治家なんてこんなもんだよ。」と、そう思わせるような情報ばかり。
確かに、日本の政治はそういうことで激変することが少なくないけど、そっちの方がロクでもないと思うけどねぇ。
「言われても仕方ない。」ではなく、「言うべきことを言うように努める。」というのが、報道の世界での基本倫理なんじゃないの?
朝日が色々言われるのは、こういういやらしい行為に従事し続けて、言うべきことを思いっきり切り捨てている点だと思うね。
おかしいのはあなたでしょう。
例えば、先祖が稼いだ富を相続しておいて、借金は相続しません。と言ってるようなもの。
先祖の功名で票を稼いでいるのだから、批判するなではバランスが取れない。
そもそも、良い評価は良くて、批判はダメです。というのは、言論封殺、思想統制ではないか。
良い評価も批判もあるのが政治だろうし、先祖の良い面だけ利用しますは通りません。
もっと分かりやすく言えば、ある人が、一人を殺し、一人を救ったとする。その息子が、「僕の親はこんな素晴らしい人なんです!!」と町中に触れ回ったら、どうだろうか? 被害者側が激怒することは間違いない。
筆者は共和主義者で自由主義者らしく、それは僕も非常に同意しているのだが、なぜこんなに執拗に朝日批判しているのか理解不能。
筆者の立ち位置からすれば、読売も同じくらい批判されてもおかしくないし、産経はもっとダメだろうと思うんだが…
なんか恨みでもあるんですか?
主旨から外れたことをごちゃごちゃ批判してもねえ、というのがコメント読後の感想。
>政治家なんだからしょうがないじゃん、で、おしまい。政治家のことを知る権利が国民にはあるのでねぇ。
別に知る権利のことなんか誰も問題にしていないのにねえ。
政治家のことを知ることと、政治家の出自に基づいてその政治家を批判することとは違うしねえ。
>この程度の批判が嫌ならば、とっくの昔に政治家を辞めてるって。
別に批判が嫌だという話もしていないのにねえ。
>あと、「批判者自身の先祖はどうなのか」と、政治家との違いを無視するのは、バカにされて終わりですよ。ハハハ。
人の出自を、その人を批判する材料として用いるのはよくないという一般論が、「政治家と記者をごっちゃにする」ことなんですか。
政治家も記者も同じ人間だと言ったら、「政治家と記者をごっちゃにする」ことになるわけですか。
そんな批判、バカにされて終わりですよ。ハハハ。
だったら、政治家に限ってはその出自を批判材料として用いることが許される理由を示してくださいよ。「しょうがないじゃん」だけでは話になりません。
またしてもつまらない茶々入れでしたね。
すみません、かえってわかりにくいような……。
>被害者側が激怒することは間違いない。
激怒するかもしれません。その責任は息子がとればいいでしょう。発言したのは息子なのですから。
安倍晋三が岸信介を賞賛するその内容に何か問題があるのなら、その内容自体を批判すれば済むことです。安倍が岸の孫であること自体を批判する必要などありません。
私は単に、人の先祖を批判することがよくないと言っているのではありません(そんなことを言っていたら、誰をも批判することはできなくなってしまいます)。
ある人を批判する手段として先祖のことを持ち出すという手法がよくないと言っているのです。それは、本文中にも書いたように、本人には責任がなく、どうすることもできないことだからです。
>先祖の功名で票を稼いでいるのだから、批判するなではバランスが取れない。
安倍晋三が岸信介を高く評価するのに対して、いや岸にはこのような負の面もあったではないかと反論するのならわかります。それには何の問題もないと私も思います。
しかし、主権回復の日と沖縄との関係を論じながら唐突に岸信介の公職追放解除を持ち出したり、岸信介が取り仕切った満洲国は破滅したから「安倍バブル」も破滅への道かもしれないなどと論じるという手法は、単なる岸批判でも安倍批判でもなく、安倍は岸の孫であるが故に岸の政治責任を負うべしという、封建時代のような感覚の産物ではないかと思います。
>そもそも、良い評価は良くて、批判はダメです。というのは、言論封殺、思想統制ではないか。
言うまでもないことですが、言論の自由は無制限のものではありません。社会的に許されないレベルがあります。
ここで挙げた記事がそうだと言うのではありません。しかし、これらの記事が用いた手法の根底には、先の週刊朝日などによる橋下徹批判や、故新井将敬に対する人身攻撃などと同種の思考法があると私は考えます。
私はそれを批判しているのです。
たしかに最近何度か朝日批判の記事を書きましたが、別に執拗というほどとは思いませんが。
私が朝日批判を書く機会が多いとすれば、それは、私が朝日新聞を購読しており、目に触れる機会が多いからでしょう。
私は朝日の論調に疑問をもつことが多いですが、新聞として全体を見た場合、朝日は購読するに値する最もマシな新聞だと思っています。
日経もいいのですが、経済紙という性質上、家庭で購読するのはためらわれます。
読売は、一時期購読していたこともありますが、論調に疑問をもつことは少ないものの、つまらなかったという印象です。毒にも薬にもならないという感じでした。
産経は、これも一時期購読していたこともありますが、興味深い記事もあるのですが、細かい記事が少ないのと、論調が著しく偏っているのでやめました。
ちなみに、産経の変な記事は購読していなくてもネットニュースなどで目にする機会があるので、当ブログでもしばしば批判しています。よかったら、サイドバーから検索してみてください。
>なんか恨みでもあるんですか?
別にありません。
朝日新聞の入社試験に落ちたとか、朝日新聞の報道被害を受けたとか、朝日新聞に何度も投稿しても掲載されないとか、朝日新聞の販売店員に嫌な思いをさせられたとか、そういったことは全くありません。
ただ、私の親も朝日を購読していたので、子供の頃から読んでいますが、成人するころになって、いろいろと「だまされていた」という思いをもつようにはなりました。
あと、私は「立ち位置」に基づいてブログを書いているのではありません。
自分の「立ち位置」からすれば、A紙よりB紙、B紙よりC紙の方がより離れている。したがってC紙は強く批判するがB紙は中くらい批判し、A紙の批判はできるだけ控える――私はこんな党派的な思考法は嫌いです。
私はただ、その時その時に書きたいと思ったことを書いているだけです。
論旨そのものにだって印象操作がいろいろありますよね。「静かな高揚」とありますが、高揚しているのは筆者、又は朝日新聞であるはずなのに、まるで全国民であるかのように書く。「今なお「占領よ、さようなら」と言えずにいる人は少なくあるまい」と言いつつ、「さようなら」と言ったのが、他ならぬ天声人語であるという点は全く触れない。そもそも「天声人語」という言葉自体が、「朝日新聞の声」を「天の声」だと自称しているのだから、ある意味ですごいです。
「沖縄では日の丸も自由に掲げられなかった」という点は覚えておくといいかもしれません。いずれ正反対の論旨が出てくるかもしれませんから。