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2人区の導入により3大政党制?

2009-09-10 23:56:37 | 珍妙な人々
 石原慎太郎がまた妙なことを言っている。

 7日付産経新聞朝刊の月イチ連載「日本よ」より。

 歴史の転機になり得るか

 今回の総選挙の結果を見て、何か空恐ろしい思いを禁じえなかった。

 その直前に行われた都議会議員の選挙にもすでにその兆候が露骨に現れていたが、総選挙の結果はそれをさらに拡大したものとなった。要するに「エニワン・バッド・自民党」ということで、都議会選挙ではわずか九日前に立候補した者が、自民きっての実力ベテラン議員をただ最年少ということで蹴(け)落とし、乱立を恐れて未公認だった多くの民主系候補がわずか三日前に公認されすべて当選をはたした。反自民の風なるものについてしきりにいわれてはいたが、あの結果を眺めて改めて日本人の本質的な性情について考えさせられた。

 山本七平氏の名著『空気の研究』にあった通り、日本人は事に関する空気にいかにも弱い。つまりその場の空気が作り出す風に容易に吹き飛ばされてしまう、個々の自我の希薄さ故にだろう。

 戦争少年だった私の記憶としては太平洋戦争の末期、戦の末(すえ)が見え見えになってくると「本土決戦、一億玉砕」が声高に唱えられ、当時逗子に住んでいた私は目の前の相模湾に突然現れた米国艦隊を目にしながら、この自分も明日明後日には死ぬのだなと自覚していた。それが一朝明けると「一億総懺悔(ざんげ)」となってしまう。

 間もなく進駐してきたアメリカ兵に町で盾ついて殴られた私は、それが知れて教頭に呼び出され、学校に迷惑がかかったらどうするのだと叱責(しっせき)されたものだ。

 今回の選挙の結果も本質的にその同じ流れの中のことで、役人まかせで破綻(はたん)した杜撰(ずさん)極まりない年金問題に端を発し、総理の重ねての浮薄な言動等で国民に愛想つかされ軽蔑(けいべつ)侮蔑(ぶべつ)されてしまった自民党の自業自得もあろうが、四年前の小泉首相の刺客を立てての劇場型選挙でのオーバーヒートと同断で、自民、民主がそのままひっくり返っての結果とあいなった。

 この二つの選挙の空気を造りその風をあおったのはメディアだが、今は戦争批判にかしましい某大新聞がかつて戦争中に書きまくりあおりたてた風と本質変わりはしない。

 ファッショとは「ものを束ねる」という意味だが、強い風になびいて素直に吹き飛ばされる日本人の性情は本質ファッショ好きなのかも知れない。

 誰かが意図して作る風に弱い性情とは、いい換えれば主体性の欠落、怜悧(れいり)な判断が及ばぬということだ。

 山本氏がその典型的な事例として取り上げていた、護衛の航空機を失い尽くし制空権を失った戦況の中で、中央の参謀本部の、「大和はいったい何をしているのか」という冷たい空気を察して、空からの護衛も持たずに孤り出撃していき満身創痍(そうい)であえなく沈んだ日本海軍の象徴「戦艦大和」の末路は、悲劇と呼ぶにはあまりに軽薄無残でしかない。

 総選挙という国民の重大な選択がその轍(てつ)を踏んで行われたとは思いたくないが、しかしその結果の態様と本質にはいささか不安を抱かずにいられない。

 しかしまた、こうした劇的な反転がなければ、日本の政治の本質は変わらないのかも知れない。


 民主党は「空気」で勝ったと言わんばかりである。
 石原は、わが国が「一億総民主」と化したとでも考えているのだろうか。
 もしそうなら、それは、議席数の大差による錯覚に囚われているにすぎない。
 同じ日の産経の政治面の記事が述べているように、自民と民主の得票率の差は議席数の差ほど大きくはない。

珍現象続発 地滑り的勝利 議席再配分…小選挙区比例代表制

 民主党が圧勝したさきの衆院選と自民党が勝利した平成17年の衆院選は、特定政党が「地滑り的勝利」を収めるなど、小選挙区制度の特徴が顕著に表れた。一方で、少数党の埋没傾向が強まり、制度自体の問題点や矛盾点を指摘する声が出始めている。(田中靖人)

 17年9月のいわゆる「郵政選挙」では、自民党が公示前237議席から296議席へ躍進、全480議席に占める割合は61・6%となった。与党の公明党(31議席)との合計は327議席となり、参院が否決した法案を再可決できる3分の2(320議席)を超す巨大与党を生んだ。民主党は177議席から113議席へと減らし、議席占有率は23・5%となった。

 だが、小選挙区の得票率は自民47・7%に対し、民主36・4%と差はわずか9ポイント。特に民主は前々回(15年11月)から0・2ポイントしか下げておらず、得票率が相対的に多い政党が議席数で過大評価される小選挙区制の特徴が強く表れた。

 今回は自民が公示前から192議席減らす一方、民主が196議席増やす逆転現象が起きたが、得票率も自民がマイナス9ポイント、民主がプラス11ポイントとほぼ入れ替わっただけで、得票率と議席数の乖離(かいり)は埋まっていない。


 得票率では、自民が約38%、民主が約47%だということだ。
 小選挙区制により差が拡大したにすぎないのだ。

 戦中期との比較など、論外である。反対を表明できる者が3割もいたか? 今自民党支持者は非国民扱いされているか?

 もう一点。

 それにしても今行われている小選挙区制度というのは弊害が多すぎる。

 かつてこれが取り入れられようとした時私は与党内にあって、守旧派の名に甘んじながら最後まで反対を唱えてきた。他の問題についてはかなり意見を異にする野中広務氏と親しくなったのもそれがきっかけだった。

 国民が前述したような性情のこの国にあっては、現行の選挙制度は結果の振幅が大きすぎ結果として行政のロスが多すぎることになりかねない。政権交代の是非といったオールオア・ナッシグの選択ではなしに、選挙も通じてより具体性のある、かつ幅の広い討論が行われるためには二大政党ではなしに、ドイツのように三つの政党が存在しその連立が三通りに行われるような態様が望ましいと思われる。

 とにかく今の選挙制度では政治家が日頃選挙に気をとられ大きな発想を行う余裕があり得ない。東京では国会議員の選挙区が区議会議員のそれよりも小さいという奇体な現象をみせてもいる。

 その結果野中氏が慨嘆していたが、冗漫な本会議の折には夜の議決までの間選挙区が比較的間近な議員たちは議場を抜け出して選挙区回りをしてまた戻るという空疎な現象が現れているという。

 加えて比例代表というシステムは、選挙区を持たず日頃死に物狂いの努力もせず、その名声?だけで当選の相伴に預かるという不合理不公平な結果をもたらしてもいる。

 総選挙という国家の命運を決める重大事が、メディアなどが作るヒステリックな風に吹き飛ばされず、幅の広い討論をもたすことで国民が冷静な判断と選択が行えるように、国会議員の数も減らして、例えば全国で定員二人の中間選挙区に改良されるべきと思われる。それは必ず三大政党といった政治体制をもたらすものと思うが。

 いずれにせよ今回の選挙の結果を踏まえて、官僚支配の下ではなし得なかった国家の大計が編み出され、実現されていくことで国民の不安不満が払拭(ふっしょく)され、国民の一人一人が国家としての強い意志に自らの人生をゆだねられるような政治が到来することを願わざるを得ない。


 「定員二人の中間選挙区」が「必ず三大政党といった政治体制をもたらすものと思う」?
 先生、わかりません!

 石原は先にドイツの例が望ましいと書いているのだから、「三大政党」は「二大政党」の誤植ではないのだろう。

 定数2人で3大政党……わからない。

 2人で2大政党だと言うのならわかる。また、定数3人で3大政党と言うのならわかる。
 しかし、2人区なら3大政党になるというのは、どういう理屈なのかわからない。
 どなたかわかるという方がおられたら、是非解説していただきたい。

 石原は都議選の結果を慨嘆するが、都議選でも2人区が多数あった。こちらのサイトで選挙結果を見ると、2人区のほとんどで、民主と自民が1名ずつ当選している(1つの区のみ、民主と公明が当選し自民が落選している)。公明党や共産党などが入り込む余地があるのはほとんど定数3人以上の区ではないか。
 石原は何を言っているのだろうか。

 また、仮に3大政党が1人ずつ候補者を立てて2人区で争うとすると、3人のうち1人は必ず落ちるわけだから、熾烈な選挙戦となるだろう。やはり選挙区回りは欠かせなくなるのではないだろうか。

 あと、石原は今回の選挙結果をファッショ的だと批判するが、このエッセイの締めくくりの文、

国民の一人一人が国家としての強い意志に自らの人生をゆだねられるような政治が到来することを願わざるを得ない。


こういう発想こそがファッショ的ではないだろうか。国家主義を抜きにしてファシズムは有り得ない。

 「空気」といったあいまいなものではなく、はっきりとした国家の意志に人生をゆだねられる国民。
 それが石原の理想の国家像なのだろう。
 そんな者のファッショ批判などに何の意味があるだろうか。


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