徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

今年のトラは・・・① 明日からキャンプイン

2010年01月31日 13時19分10秒 | 野球・タイガース

今年もいよいよ球春の季節が到来します。
明日からプロ野球のキャンプインです。
毎年、この季節になると期待が膨らんできます。
が、その期待通りにいった試しがないのですが、それでもこれからのキャンプとオープン戦で一喜一憂して、大きな膨らみを持って開幕戦を迎えるのです。

ところで、今年のトラは、どのように展開してゆくのでしょうか?
昨年、4位に転落したリベンジをどのように果たすのか、真弓監督の手腕が問われる大事な1年となります。
そして、チームとしての一番の関心事は、ポスト赤星でしょう。
今年のトラの関心事、すなわち期待値が大きなものが多くある中でも、一番の関心事なのです。

  
  沖縄入りした真弓監督(サンスポより)  ポスト赤星の一番候補のマートン            

今年のトラの守備構想で、ほぼ固まっているのが、キャッチャーの城島、レフトの金本、ショートの鳥谷、サードの新井の4人でしょう。
まだ、決まっていないのが、センターラインであるキャッチャーを除いてセカンドとセンターです。
この二つのポジションが、今季のトラの命運を握っているといっても過言ではないと思うのですが・・・・

まず、ポスト赤星のセンターには、報道などで云われているのが、今季入団した外人のマートン、浅井、それに柴田、ドラフト5位の藤川俊です。
ポスト赤星として期待する要因は、「守備力」なのですが、1番打者としては、「出塁率」が要求され、その二つを兼ね備えるのは、誰かとなれば、非常に難題です。
この中でも最有力とさえているのが、マートンですが、毎年のことながら外人は、やってみないと分かりません。

セカンドは、特に激戦です。 平野、関本、大和、上本が、候補に挙がっていますが、状況に応じて、平野、関本の併用ではないでしょうか?

後は、ライトとフアストですが、ライトは桜井、林、葛城、野原ですが、僕的には桜井が昨年を上回る活躍を期待したいのですが・・・・・
そして、フアストは、ブラゼル、林、関本でしょうが、ブラゼルが有力です。
ここで、林が、ライトとフアストに名前が挙がっているのですが、林は毎年活躍が期待されながら、裏切られており、今季が大事なシーズンになることは必至です。

ピッチャーで期待出来るのは、また期待したい選手については、後日述べます。


江戸時代の生活 ⑨ -教育(寺子屋)①ー

2010年01月27日 16時25分31秒 | 江戸時代とは・・・・・

久しぶりに、江戸時代のことに書きます。
このシリーズは昨年の11月19日に江戸時代の食事を述べましたが、今回から「江戸時代の教育」について書いてみます。

江戸時代の教育体制には、藩校、私塾、寺子屋の種類がありました。
今回は、まず寺子屋のついて書いてゆきます。

この寺子屋教育は、今ある日本の教育だけではなく、科学、技術の発展基盤となっているのが、寺子屋制度にあったのではないかと言われています。
寺子屋は、江戸時代より以前からあったのですが、江戸時代には、広く一般庶民にも広がったことが、江戸時代の寺子屋の特徴なのです。
その制度は、世界にも注目され、日本ユネスコ協会連盟が実施しているのが「世界寺子屋運動」です。
国連もユネスコの主導で世界の子供たちが学校に通えるようにし、就学率の向上を計っています。

     
       今日の絵は”ガーベラと一緒に”  F6号

江戸時代の寺子屋では「読み、書き、そろばん(計算)」の基礎的な知識の習得にとどまらず、実生活のしつけや広く社会的なルールをも含め修身に必要とされる教育を総合的に行われていました。

1850年頃の日本の就学率は70~80%と言われ、明治初期には世界一だったそうです。
現在、世界でも行きたくても学校に行けない子供が7500万人もおり、学校に行けずに、大人になり、文字の読み書きが出来ない人たちの数は7億7600万人にも達しているということです。

江戸時代の寺子屋制度は、なにも幕府が制度を作った訳でもなく、支援している訳でもないのに、なぜこのように、寺子屋が一般庶民に行き渡ったのでしょうか?
このことを含め、次回はもう少し詳しく書いてゆきます。
(数値などは、平成21年7月15日付けの産経新聞を参照しました)


大阪の地名と成り立ち ⑩ -船場ー

2010年01月25日 11時00分20秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

商人の町を代表するところが、「船場」です。
昭和34,5年ごろ、まだ白黒テレビだった頃に、視聴率が60%を超えたコメディが、この船場を舞台に制作され、これで船場という地名が全国区になったのです。

毎日放送制作の「番頭はんと丁稚どん」がそれで、船場の商家における家族関係や主従関係、そして商いの仕組みや考え方、伝統や風習、言葉つかいなどを、お笑いと涙の人情喜劇です。
ここで強調されたのが、信用の上に築かれた商売でなくてはならないということで、船場の商人哲学が、誰にでも分かるように演じられていました。

  
   「船場センタービル」 屋上は、高速道路、東大阪線が走っています。

船場という地名は、豊臣秀吉の大阪城築城によって生まれました。
大阪城の掘割で掘り出された大量の土砂は、大阪城の上町台地の西側の低湿地帯に埋め立てられ、そこに新たに造成されたのが「船場」だったのです。

北は土佐堀川、東は東横堀川、南は長堀川、西は西横掘川に囲まれた地域で、船場という名前の由来は、諸説あります。
船着き場説、戦場説、洗馬説、千波説、などがあるのですが、特定は出来ないようです。

「船場」が「繊維問屋の町」として賑わい始めたのは、大阪紡績株式会社(現 東洋紡)が明治15年(1882年)に操業を開始してから、綿花を扱う業者が続々と船場に集まり、「船場八社」と総称される有力糸商が軒をつらね活況を呈し、繊維関連の取引が急増しました。

今、この地で代表的な建造物に「船場センタービル」があります。
この商業ビルは、大阪市を東西に結ぶ幹線道路の「中央大通り」に沿う形で、地下には、市営地下鉄中央線が、そして屋上には、阪神高速13号東大阪線が走っています。

       「綿業会館」

もうひとつ、船場を代表する建物があります。
三休橋筋に面して建つ「綿業会館」で、ルネッサンス風の歴史的建造物で、2003年に重要文化財に、また2007年には近代化産業遺産に指定されています。
1931年に「日本綿業倶楽部」として建てられたものです。


トラの金本、1億円の減俸でも球界最高年俸

2010年01月23日 10時49分49秒 | 野球・タイガース

契約更改で越年組の選手が5人もいたという異常な状態でしたが、昨日、金本が更改し、また藤川も一応合意に達したということで、未更改者は3名となりました。

金本が更改したのが、なんと1億円の減俸で、年俸4億5000万円となったそうです。
これで、城島に抜かれたと思ったのですが、球団が異例の談話を発表し、城島は、年俸4億円と発表したそうです。
球団が、最高年俸選手を誰にするかは、チームの影響が大きいことを加味しての発表なのでしょう。

  昨年4月8日、お立ち台の金本と下柳

これで、金本が4年連続で日本選手最高年俸となりました。
城島の年俸は、4年契約で20億円ということから、年俸5億円となっていたのですが、1年目は4億円で契約していたようです。

藤川は合意に達したようですが、正式の更改はまだで、金額は未発表です。
これで、トラの未更改者は、久保、鳥谷、下柳の3名となりました。
が、どうやら下柳も水面下で了承点に達しているようですが、下柳もどのくらいの減俸で更改するか気になります。

一方、鳥谷、久保に関しては、アップ幅をめぐって話し合いをしているようです。
このように、今年は、契約更改は、すべて水面下で交渉しているのですが、これも球団ともめているということが、表面に出ないようにしているのではないでしょうか?

今年のように契約更改が長期化しているのは、今までの年俸が、優勝争いしていたことで選手の年俸が高騰し続けた結果、昨季は総額35億3000万円余り(外人を除く)で12球団トップだったのです。が今季は、抑える好機だと球団は考えたのですが、外部(マスコミやフアン)から、儲かっているのに出し惜しみしているのでは・・・・との非難を避ける意味もあって水面下交渉になっているのではと思われるのですが・・・・。

         2010年 球団のロゴマーク

春季キャンプもあと1週間とちょっととなりました。
21日には、キャンプの1,2軍の振り分けが発表されました。
今季は、赤星の引退の影響が心配されますが、引退試合を3月のオープン戦の予定だったのですが、赤星が辞退したそうです。
いかにオープン戦といえども開幕を迎える前の大事な時期だからということだそうです。

その赤星の昨季の年俸2億5000万円が引退で減ったのですが、それでも今季のトラのスタメンは、依然、相当な金額になることは確実です。
フアンとしては、その額面通りの活躍してくれれば、優勝も間違いがないと確信しているのですが・・・・・


大阪の地名と成り立ち ⑨ -十三(じゅうそう)-

2010年01月22日 16時02分30秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

どこの地方でも、その土地独特の呼び名の地名があるものです。
大阪も例外ではなく、大阪以外の人には読めない地名や駅名があります。
「十三(じゅうそう)」もその一つなのではないでしょうか?

「放出」、「喜連瓜破」、「私市」、「柴島」、「弥刀」、「土師ノ里」、「上牧」などがそうですが、どれだけ読めますか?  (正解は、最後に記載しています)

「十三」の地名の由来は、条理制説、渡し説、堤説、十三塚説、重蔵説があります。
条理制説は、古代の条理制では土地を細かく方形に区切られ、条と里の単位で配列されていました。 ○○郡○○条○○里○○坪と表記され、十三は、西成郡の十三条にあたっていたからと考えられていました。
しかし、今の十三の地域は淀川の河口であり、当時は湿地帯で田んぼを整備するような所ではないと思われます。
川の堤防が出来たのが明治29年以降だそうで、それまで川が氾濫すればなすままになっていたと考えられ、古代に整備されていたとは到底考えられないのではないでしょうか?

渡し説は、淀川の上流から数えて「十三番目」の渡しがあったから。
堤説は、十三とは淀川の堤防のことで、もとは十三(つつみ)と呼ばれていたから。
十三塚説は、戦国時代の武将を供養する「十三塚」が建立してあったから。
重蔵説は、淀川の対岸に重蔵(=十三)という名の長者が、船をつないだ場所だから。
どの説が有力か、決定的なものはありません。

   
  阪急電鉄 十三駅 左から 神戸線 宝塚線 京都線のそれぞれの駅表示

十三と言えば、戦前は、淀川の北岸沿いに武田薬品を中心として大小の工場が集まっていました。
戦後は、阪急電鉄の駅があり、特に駅の南西部には飲酒店、パチンコ店などの歓楽街を形成しています。
「十三駅」
は、阪急電鉄の重要な駅で、京都本線、宝塚本線、神戸本線の3線が梅田を出ると、十三駅でそれぞれに分かれている分岐点です。

冒頭の読みは、下記の通りです。
「はなてん」「きれうりわり」「きさいち」「くにじま」「みと」「はじのさと」「かんまき」
 


大阪の地名と成り立ち ⑧ -御堂筋ー

2010年01月20日 11時29分25秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

今日20日は、「大寒」です。
一年で一番寒い日と言われているのですが、今日の気温は大阪では16℃と予報されています。
この気温は、昨年の平均気温では、3月末から4月の初めの気温なのです。
つい2,3日前は、氷点下の日もあったことを思えば、最近の気温の変化は、例年以上に大きいようです。  

ちなみに、年平均気温で最高気温の最低値は8.7℃、最低気温の最低値は、1.9℃です。これは2月3日ごろまでで、それ以降は、上昇してゆくのですが、2月3日は節分、2月4日は立春で、この頃までは、なんやかやと言っても、寒い日が続くようです。

  
     現在の御堂筋                  
 開通時の御堂筋

大阪の代表的な道路と言えば「御堂筋」しかないというほど、有名です。
大阪をモチーフとした歌では、圧倒的に御堂筋が多いそうです。
それだけに、御堂筋が「大阪の顔」なのでしょう。

この「御堂筋」は、第7代の大阪市長 関 一氏で、御堂筋が完成したのが、昭和12年(1937年)のことです。
大正末から昭和初期にかけての大阪は、人口、面積、工業生産額において東京を上回る全国一の都市でした。
この最盛期に市勢拡大を図り、地下鉄の建設、大阪湾の整備拡充、中央卸売市場の開設、全国初の自治体立大学(現大阪市立大学)の創設等々、現在の大阪の基盤を築いたといっても過言ではありません。

反対に云えば、これ以降の市長さんがあまりにも、大阪の発展に寄与出来なかった、否しなかったのではないかと思わざるを得ません。

交通運輸の円滑化、交通量の増大を見越して建設されたもので、江戸時代には「淀屋橋筋」と呼ばれる道幅6mの狭いものを、43.6mに拡大しました。
梅田から難波まで、全長4027mで全6車線の幹線道路で、その下には地下鉄を並行して建設しました。

   
  
 地下鉄工事        昭和8年ころ、阪急百貨店の左が梅田停留所

大阪の地下鉄は、東京に次いで建設されたのですが、公設としては、全国初です。
梅田、心斎橋間が昭和8年に、難波までは昭和10年に完成しました。
同時に、電柱を全部地下に埋めました。

ところで、「御堂筋」の御堂は、どこから云われるようになったのでしょうか?
本願寺津村別館(北御堂)が提供した境内地に道路を通したことで、難波別院(南御堂)と沿道に面し、北御堂と南御堂を結ぶことから「御堂筋」と幹線全体の名称となったそうです。

その上、道路の両方の建物を百尺(約31m)の高さ制限を設けたことで、外観は整然とした道路となり、関市長がパリなどを模範としたということです。
平成7年(1995年)には、建物を4m後退することを条件に軒高50m、最大高さ60mまでに緩和されました。

御堂筋は、日本の道100選の一つで、二つの国道で繋がっています。
梅田阪神前から梅田新道までが国道176号線、梅田新道から難波西口までが国道25号線です。 なお、梅田新道では、東側からは、国道1号線の終点となり、西側への国道2号線の始点でもあります。

御堂筋のイチョウ並木の黄葉は、大阪の秋の風情として、まさに大阪のシンボルです。


大阪の地名と成り立ち ⑦ -坂から阪へー

2010年01月18日 08時54分11秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

いつから、大坂が大阪に変わったのでしょうか?

大阪駅が、当初は堂島が建設候補地だったことは、以前に述べました。
地元の反対や土地買収の費用不足などから、地価の安い梅田に築かれたのですが、この時の名称が「大阪停留所」と記載されてあったそうです。

江戸時代の多くの書物には「大坂」と書かれていました。
いつから「大阪」に統一されるようになったのか、はっきりしないのが実情なようです。

  昨年11月に描きました。
                              ”柿” F6号        

江戸時代後期には、すでに「坂」は不吉な文字とされて、一部には「阪」が使われていたそうです。
これは、文化5年(1808年)刊行の「摂葉落穂集」などにも「阪」が書かれ、不吉とは「坂」を分解すると「土(つち)」に「返る」となり、死を想像させるというものです。

地名表記が統一管理されるようになったのは、明治以降で、それまでは、字の読めない人も多く、耳で聞いた音が重視されたので、表記はかなり自由だったのです。
その流れが明治になっても引き継いでいたのですが、明治10年代中頃には「阪」に統一されたようです。

その理由は、未だにはっきりしないのですが、公印に「阪」が使われたから、これに右へならえしたという説や「坂」が「士族の反乱」のイメージがあるからだとも、諸説あります。
「士族の反乱」のイメージとは、これも「坂」を分解すると「士(さむらい)」が「反す」となるというものです。
これらは、あとでこじつけた解釈なのではないでしょうか?

いずれにしても、「大阪」と固定化されたのは、明治10年代だったろうということで、はっきりした意味合いは分からないというのが実情なようです。


大阪の地名と成り立ち ⑥ -なにわから大坂へー

2010年01月17日 08時33分59秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

昨年からの続きです。
大阪一帯が「なにわ」と呼ばれたのは、以前に「難波宮」のことで書きましたので、大体のことは、読んで頂ければ、お分かりのことと思います。

では、その「なにわ」がいつから、なぜ「大坂」になったのでしょうか?

おおよそ、「大阪城」を築いた秀吉が、この城を「難波城」ではなく「大坂城」と名付けたのかが、キーワードとなるのではないでしょうか?
この時の「大坂城」は「阪」ではなく「坂」でした。

しかし、それより以前の明応5年(1496年)に、浄土真宗の中興の祖と呼ばれる「蓮如」が文に「大坂という所在は、住吉より・・・・」と書かれ、蓮如がこの年に建立したのが石山本願寺となり、浄土真宗の本山となりました。

この石山本願寺が勢力を増大するに従い、小さな範囲でしかなかった「大坂」が、広域範囲を「難波」に代わって「大坂」が一般に取って代わっていったものと思われています。

  昨年2月23日撮影 ”大阪城”

「大坂」の地名の起こりについては、上町台地の坂を意味していた「大江の坂」と呼ばれていたことに由来されるという説や書物によっては「小坂」とか「尾坂」とか書かれ「おさか」と読まれていたこともあったのですが、「大坂」の地名に「大きな坂」の意味はないのではないのでしょうか?

織田信長と10年以上もの戦い続けた石山本願寺は、天正8年(1580年)に敗北して焼失しました。
2年後に信長は本能寺で亡くなりましたが、「大坂」の地勢を絶賛していた信長の意思を継いで、秀吉は石山本願寺跡地に城を築き、ここを「大坂城」と命名することで、主君信長に抗い続けた本願寺勢力を完全に制圧したことを広く世に知らしめる意味もあったようです。

ここに「なにわ」が「大坂」に完全に移行したのです。
(この内容は、主にベスト新書、若一光司氏著の「大阪地名の由来を歩く」を参照しました。)

 


九州旅行 五日間 ⑭ -龍馬と長崎ー

2010年01月14日 13時45分41秒 | 旅行・観光

九州旅行も最終日、五日目となりました。
この日は、長崎に向け、最初の訪問先は、坂本龍馬が設立した亀山社中です。

長崎は坂が多いことで有名ですが、この亀山社中のある家も坂の途中にあります。
坂の上に風頭公園があり、我々一行は、そこまでバスで行きました。
そこからは、坂を下るだけで、そこの道は、龍馬通りと言われています。

   

坂の上の風頭公園に、長崎湾を眺めている龍馬像が立っています。
この一帯はまだ観光地とした様相はありません。
細い道が曲がりくねって続いており、龍馬通りからは、その辺りに住む人々の生活が見えます。
そこは、まったく普通の家です。

  

今年の大河ドラマは、「龍馬伝」で、これからのドラマの進行にしたがって、この地は益々多くの人が訪れることになることでしょうが、先にも述べたように、曲がりくねった細い路地では、人の行き交いもままならないと思われます。

龍馬通り沿いには、龍馬のブーツ像亀山焼窯跡などがあり、坂を下がれば寺町があり、長崎市街地に出ます。
そこから、すぐ、メガネ橋があり、長崎らしい町並みが続きます。

   
   龍馬通り           メガネ橋   のどこかにハート石があります

亀山社中は、日本初の商社と言われており、薩摩藩の援助により龍馬が中心となって組織されました。
社中のメンバーには、神戸海軍操練所出身者が多く、航海技術を生かして物資の運搬や貿易の仲介を行いました。
それが、薩長連合へつながる役目をはたしてゆくのです。
その亀山社中も金銭的に行き詰まり解散しますが、その後、今度は土佐藩をスポンサーにして「海援隊」を結成します。
土佐を脱藩した龍馬は、土佐藩から見れば犯罪者ですが、倒幕勢力の中で重要かつ無視できないほど大きな存在になっていたのです。

龍馬と長崎の関係は、土佐を脱藩して勝海舟に入門した(1862年)龍馬が、海舟に同行して長崎に行ったのがきっかけでした。
その翌年の1865年(慶応元年)の夏に亀山社中を結成しています。

  
    大浦天主堂(国宝だそうです)     日英の旗が・・・・グラバー邸

   
  ちゃんぽんの発祥の店”四海楼”   大きなクリスマスツリーのある長崎駅

亀山社中からメガネ橋を見学して、後は、長崎観光の定番である天主堂、グラバー邸とまわり、天主堂下には、長崎ちゃんぽん発祥の店と言われる”四海楼”で、昼食のちゃんぽんを食べ、長崎、九州五日間の旅は終わりました。


九州旅行 五日間 ⑬ -雲仙ー

2010年01月11日 11時01分09秒 | 旅行・観光

かなり、日にちが開きましたが、昨年からの続きです。
昨年の11月29日に出発した九州旅行も四日目で、熊本城をあとにして、熊本港から島原湾クルーズで島原外港に向かいました。

本来は、船から普賢岳がはっきりと見えるのですが、今日はかすんでぼんやりとした普賢岳でした。

一路、今日の宿泊場所の雲仙温泉をめざして、普賢岳が見え隠れしながらだんだんと目の前に迫ってきました。

普賢岳(1359m)は、長崎県の島原半島中央部にある火山で、平成2年(1990年)から平成7年(1995年)にかけての火山活動で形成された平成新山の方が高く(1483m)なり、これが長崎県最高峰だそうです。

 <!-- 普賢岳 溶岩の流出跡 -->

標高1080mにある仁田峠の展望台から普賢岳と平成新山が望め、普賢岳が噴火して火砕流が流れた跡が、はるか島原湾から天草方面まで一望出来ます。
この日は、少々かすんでいました。

  

九州特産のツツジであるミヤマキリシマは、5月上旬から6月上旬にかけて、この一帯は花の色である淡紅紫色に包まれるそうです。
ちなみに、地元では”ウンゼンツツジ”と呼ばれています。

  

今日の宿泊は、湯けむりがたなびく雲仙温泉です。
明日はいよいよ九州旅行 五日目最終日で、長崎での坂本龍馬が残した足跡を訪ねます。