徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

開通が待たれる「阪神なんば線」

2009年01月29日 09時37分22秒 | 鉄道のよもやま話

阪神電鉄の西大阪線が3月20日に変貌します。
昔、伝法線と呼ばれ、ローカル色が強い沿線でしたが、西九条ー近鉄難波の延伸区間と合わせて「阪神なんば線」に生まれ変わり、古都奈良、大阪ミナミ、ミナト神戸を直結します。

 
    阪神電鉄全線 黄色線部が開通する路線

昨年は京阪中之島線が開通し、周辺が一変しましたが、「阪神なんば線」が開通すれば、それ以上の変化、効果が出るものと期待されています。

新たに出来る路線は、わずか3.4Kmに過ぎませんが、西は、山陽姫路、東は近鉄名古屋や、伊勢、賢島まで約300Kmの路線がつながるのです。
電車が走れば、人が動き、既存の沿線にもにぎわいと活気が生まれます。

「阪神なんば線」が開通すると、三宮と近鉄奈良を直結する快速急行が1時間に3~5本走り、所要時間は平均84分、運賃は片道940円です。

  阪神電車

この路線が繋がることによって、まず考えられる効果は、観光です。
他には、沿線にある学校の通学の利便性甲子園球場と大阪ドームの直結など人の動きが活発になり、沿線の価値観が変わってきます。
後日、追々その変貌の詳細について述べてみたいと思います。


「茶の湯」の心ってどないなん。

2009年01月24日 11時13分08秒 | 独り言・社会・ニュース

日本の文化を語るものの一つに「茶の湯」があります。
湯を沸かしてお茶を飲む。
それだけのことなのですが・・・・400年を超える中で、「侘び」「寂び」と共にお茶を一番美味しく味わうため、「もてなしの心」を追及して延々と受け継いできました。

日常では、意識していなくても、至る所のに「茶の湯」の教えがあるようです。
この「こころ」は、今も商売にも生かされているものが多いようです。

  茶の湯の心は、なにも茶室だけではないのです。

茶の湯を語るのに、「侘び」「寂び」を知らなくてはなりませんが、これを語るには、一冊の本が出来ます。
ともかく一口で表すと「侘び」はわびしいから生まれたもので「簡素な様子」、「寂び」は錆から生まれたもので「劣化した様子」だそうです。

「茶の湯」の基本は「お客様の心をわが心とする」ことだそうです。
楽しさや喜びは自分だけで満足しているより、共に分かち合える人がいたほうが、大きく充実感を得ることができるということです。
そして、お客様が何を求め、どうして欲しいかを感じて対応し、気遣いは当たり前で自分のやり方や考え方を相手に押し付けるものではないのです。

間違っても「どうだ」という態度で見せつけるものでもなく、あくまでさりげなく、心使いのある気働きです。
つまり、押し付けがましくない優しさ、いつまでも包み込んでくれるような居心地の良さ、心の奥がほのぼのとあたたまる感じを目指したものだそうです。

「茶の湯」から生まれた言葉には「一期一会」とか「相手を活かす」「余情残心」「日々是好日」「守、破、離」目にも見よ、耳にもふれよ、香を嗅ぎて、ことを問いつつ、良く合点せよ」などがあります。
かくいう僕は茶道など習ったことは全くありません。 ので茶道の本筋と外れているかもしれませんが、お許しを・・・・
 


江戸時代の中枢(江戸城)・・・その12・・・

2009年01月21日 10時56分55秒 | 江戸時代とは・・・・・

前回、江戸幕府の年中行事には、年始、八朔、五節句、嘉祥、玄猪、月並があると書きました。
年始と月並については、分かると思いますが、その他の行事とは、どんな行事なのでしょうか?

まず、「八朔」は、旧暦の八月一日(朔日)の略で、もともと新穀を贈答して祝う民間行事でした。
田の実の節句ともいわれ、たのみ→頼むにかけ、武家公家の間でも日ごろ、お世話になっている(頼み合っている)人に感謝する意味で贈りものをするようになったそうです。 
鎌倉時代から君臣の間で贈答が行われるようになり、特に徳川家康が天正18年(1590)のこの日、江戸に入城したことにちなみ、年始に次いでの祝日とし、大名及び3千石以上の旗本は、将軍に太刀を(後期は木製だったそうです)献上したそうです。

   
    大手門                    外桜田門

「五節句」は、正月七日(七種)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽)です。

「嘉祥」は、「嘉定」とも書き、陰暦の六月十六日に疫気をはらうため十六個の餅や菓子を神に供えて後に食べる行事です。
もともと疫気をはらうために始まった風習のようですが、江戸幕府においては、将軍から大名・幕臣に菓子を賜る式がありました。

「玄猪」は10月初の亥の日で、胡麻や小豆を入れた猪口を模した亥の子餅を、亥の刻に食べて無病息災を祈るというもので、病を祓う中国の風俗でした。
江戸幕府では、この日諸侯が暮れ六つに登城するため、大手門や桜田門外に大かがり火を焚かせ、登城した諸侯には、紅白の餅を下賜しました。 


世界の国技は・・・・

2009年01月16日 10時32分48秒 | 独り言・社会・ニュース

日本の国技といえば、世間一般的には「相撲」ですが・・・・
別に国や法律が相撲を「国技」と決めているわけではありません。
柔道や剣道、弓道だって日本古来の競技で、国技と呼ばれています。

では、相撲が国技といわれる所以は、相撲の常設館を国技館という名前にしたことからなのです
1909年(明治42年)6月2日に、東京の両国に大相撲の常設館が完成し、その際に、作家の江見水蔭氏が執筆した開館式の披露文で「そもそも相撲は日本の国技である・・・」という内容から、命名委員会(会長は板垣退助)が両国国技館」と決めたことから「相撲」は「国技」と呼ばれるようになったそうです。

  
 
左が東京江戸博物館、右の緑の屋根が国技館、その間がJR両国駅。

本来、「国技」とは、その国で生まれた武道やスポーツ競技を指す言葉でしたが、スポーツ競技が世界中で実施されるようになり、発祥地以外の国がそのスポーツ競技を「国技」と呼ぶようになりました。
さらに、国家としてスポーツ競技の普及強化に努めている場合にも国技と呼んでいるようです。

法律で、国技を決めている国は12カ国あり、その主な国と国技は次の通りです。
 カナダ・・・・・アイスホッケー         スリランカ・・・・・バレーボール
 韓国・・・・・・テコンドー            チリ・・・・・・・・・・ロデオ
 バハマ・・・・セーリング  
   

法律では決めていませんが、その国の国技と呼ばれているものは、・・・・
 アメリカ・・・・・野球、アメリカンフットボール、バスケットボール
 イタリア・・・・・サッカー、バレーボール
 フランス・・・・・フェンシング、ペタンク
 ドイツ・・・・・・・ハンドボール、サッカー

 


江戸時代の中枢(江戸城)・・・その11・・・

2009年01月12日 09時17分44秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸幕府での年中行事のうち、大名や諸役人が参加する主な行事は、年始・八朔・五節句・嘉祥(かじょう)・玄猪(げんちょ)・月次(つきなみ)などがあります。

1月には、行事も多く、1~3日までの年始御礼、2日は天皇への年始祝儀、3日には謡初御祝、7日の七種(若菜)御祝、11日には具足御祝、15日は月次御礼、28日は月次御礼などがあります。

大名の仕事の一つは、江戸城に登城して将軍に拝謁することです。
といっても、いつ登城しても良いということではありません。
月次御礼は毎月1日、15日、28日に、在京大名の登城が許される日というより、登城しなくてはいけない日なのです。

    「くすのき」  F10号
  昨年訪れた知恩院にあるいくつかの楠の一つです。


 

色々な儀式は、あくまで将軍が主体であり、将軍への拝謁行為を通じて、各自の将軍との関係や身分・格式が表徴されることに特徴があり、ことに大名・諸役人が一斉に参集して行われる年始の儀式は、武家社会の身分秩序を包括的に示し、重要なものとなっています

登城した大名の控えの部屋、殿席については以前に述べましたが、どこで将軍に拝謁するかが、その大名の格式によって違うのです。

それを礼席といって、大名は、年始、八朔、五節句、月次ごとに異なっています。
例えば、殿席が大広間や留之間の大名は、年始、八朔、五節句は白書院ですが、月次は黒書院となっています。
また、諸役人についても色々と異なり、例えば町奉行、勘定奉行の年始は大広間ですが、八朔、五節句は白書院であり、月次は羽目之間となっています。

当然のことながら、年始のように公的な性格が強い儀式は玄関に近い部屋、月次のように日常的な儀式は、表であっても奥に近い部屋で行われていたようです。


「正月」とは・・・・いつまで???

2009年01月09日 09時06分29秒 | 独り言・社会・ニュース

「正月」とは、本来1月の別称なのですが、一般的には1月1日から3日まで(三が日)なのです。
また地方によっては「松の内」(もともとは1月15日まででした)を指すことも多くあります。

「松の内」を短縮することについては、寛文2年(1662年)に江戸幕府により1月7日をもって飾り納めを指示する通達をだし、それが徐々に関東を中心に広まったと考えられています。

同時に左義長いわゆる「どんど焼き」も禁止されています。
松の内短縮指令の理由を飾り付けを燃やす火祭りによる火災の予防の一環だと言われています。

  懐かしいお正月風景

1月7日は七日正月と呼ばれ、江戸時代には1年の節目を意味する五節句の最初の日であり「人日(じんじつ)」として祝われました。

また、1月20日までを正月とすることもあり、1月20日を「二十日正月(骨正月)」と呼ばれています。

新暦の元日を軸とする「大正月」と旧暦の15日を軸とする小正月と呼ぶものがあります。
大正月を男の正月と呼ぶのに対して、小正月を女の正月と言うところもあります。

官公庁は12月29日から1月3日までを休日としており、一般企業もこれに準じていることが多く、公共交通機関もこの期間を正月ダイヤを組んでいます。

   
          変わらない初詣風景  生田神社と二宮神社

一方、小売業では1970年代ごろまでは松の内ころまで休業していた店が多かったのですが、生活様式の変化によって1990年代以降は元日のみ休業し、2日から時間短縮して店を開いていました。

しかし、最近は、何時からなのでしょうか、元日から営業する店が多くあり、お正月の雰囲気が大きく変わってしまいました。
 


神戸厄除け八社巡り

2009年01月06日 09時32分25秒 | 独り言・社会・ニュース

生田裔神八社(いくたえいしんはちしゃ)と言われる神社が、神戸に点在しているのをご存じでしょうか?
生田神社を囲むように点在している裔神八社のことで、港神戸守護神厄除け八社とも言われています。
一宮神社から八宮神社まで数字の順に八社巡りをすると厄除けになるとされています。

 

その神社巡りをしようと地図で所在地を調べると、数字の順に行くのには時間が掛りそうなので、適当に回ることとしました。
もちろん、徒歩で行くのですが、全部を回ることが出来ず、途中挫折しました。
厄落としにはならなかったのではないでしょうか?

この八社の並び方(点在地)については、現在はかなりズレテいるのですが、北斗七星に似ていたそうです。
また、北斗七星の6番目の星は正確には2つあり、全部で八星となります。

そこで、八社のうち八宮神社には六宮神社が合祀されているので、てっきり北斗七星と同じ条件にしてあるのかと思ったのですが、残念ながら、この合祀は明治初期に道路拡張工事のために合祀となったそうで、ミステリーな話にはならないようです。

    
              ビルの囲まれた二宮神社と四宮神社      

 三宮駅を10時過ぎに出発し、まず、二宮神社、一宮神社、そして県庁の近くにある四宮神社まで行くと、11時半となり、足も疲れてきたので、昼食にしました。
だらだらと、アップダウンの道を地図を見ながら歩くと実際の距離以上に足に響くようです。

ということで、五宮神社は少し山手にあるので、飛ばして八宮神社に向かいました。
六宮神社が合祀されているのですが、今までの他の神社では初詣の雰囲気がしたのですが、ここは、静まりかえって、華やかさが全くありません。
お堂の中にもお供え物一つもなく、寂しい限りでした。

  
   寂しい八宮神社             整列して参詣を待つ生田神社

そこから元町に出て、商店街を覗き、南京町を通り三宮神社にたどり着きました。
ここは、会社の一団と思しき背広姿と着物姿の団体が社をしめ、一般の参拝者を塞いだ状態になっていました。
今日は、初出勤の日で、多くのサラリーマンがお参りに来て、賑やかな様子でした。
それ以上に賑やかののが、生田神社でした。

多くの参詣者には、若いカップルが目立ち、もっと驚いたのが、拝むのにきれいに整列して順番を待っているのです。
いままで、多くの神社仏閣にお参りに行っているのですが、大人しく整列して、お賽銭をあげるのを見たことがありません。
いつからなのでしょうか? これで、若い人たちが行儀がよくなったと判断するのは早計でしょうが・・・・

九日からの十日戎は、社殿の前は毎年、押し合いして揉まれてお賽銭を投げたのですが、ここと対比して考えると、お参りも神様次第なのでしょうか?

結局、五宮神社と七宮神社を後日に行くこととしました。いつのことになるのか・・・・


丑年の由来・・・・・

2009年01月04日 10時09分18秒 | 独り言・社会・ニュース

丑とは、干支の2番目。 
方角の名で「東北東(北から東へ30度の方角)」
もと十二支は月を表すもので「丑」は旧暦12月を、時刻では午前2時頃(草木も眠る丑三つ刻)を指します。
丑年とは、西暦年を12で割った際、余りが5となる年。
今年は、平成己(つちのと)丑(うし)二十一年。
そして、明治142年、大正98年、昭和84年。

丑の本来の読みは「ちゅう」。
漢書では、「丑」は、「曲がる」、「ねじる」を意味し、芽が出かかっているが、まだ曲がっていて地上に出ていない状態、伸びきれずにいる状態を表すものと解釈されています。
今年も、「丑」の言葉通りに、殻を破ることが出来ずに、切羽詰まった状態となるのでしょうか?

         色紙に描きました  

「紐」(ひも、ちゅう)という漢字は、「糸へん」に「丑」と書き、柔らかいという意味を含んでいます。
この「丑」を「うし」と呼ばせたのは、一般庶民に十二支を浸透させるため、動物の名前を当てたものとされていますが、干支の順番や選ばれた理由は定かではありません。 

一般的には、神様が十二支の動物を決める際、牛は歩くのが遅いため早くから出かけ、門前に一番にたどり着きますが、背中に乗っていたネズミが飛び降りたため、二番になったという話がありますが、これは十二支に動物が割り振られた後に作られたもので「丑」に「うし」が当てられた由来ではないようです。

牛にかかわる諺(ことわざ)には、
 「商いは、牛のよだれ」
  よだれのごとく、細く長く、切れ目なく辛抱強く、粘り強く。
 「牛は水を飲んで乳とし、蛇は水を飲んで毒とす。」
  同じものでも使い方によって毒にも薬にもなります。
 「牛も千里、馬も千里」
  遅いか早いか、巧いかまずいかの違いがあっても結局行き着くところは同じです
  。  あわてることはないのです。

あなたは、今年をどの牛で過ごしますか?