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大阪の地名と成り立ち ⑧ -御堂筋ー

2010年01月20日 11時29分25秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

今日20日は、「大寒」です。
一年で一番寒い日と言われているのですが、今日の気温は大阪では16℃と予報されています。
この気温は、昨年の平均気温では、3月末から4月の初めの気温なのです。
つい2,3日前は、氷点下の日もあったことを思えば、最近の気温の変化は、例年以上に大きいようです。  

ちなみに、年平均気温で最高気温の最低値は8.7℃、最低気温の最低値は、1.9℃です。これは2月3日ごろまでで、それ以降は、上昇してゆくのですが、2月3日は節分、2月4日は立春で、この頃までは、なんやかやと言っても、寒い日が続くようです。

  
     現在の御堂筋                  
 開通時の御堂筋

大阪の代表的な道路と言えば「御堂筋」しかないというほど、有名です。
大阪をモチーフとした歌では、圧倒的に御堂筋が多いそうです。
それだけに、御堂筋が「大阪の顔」なのでしょう。

この「御堂筋」は、第7代の大阪市長 関 一氏で、御堂筋が完成したのが、昭和12年(1937年)のことです。
大正末から昭和初期にかけての大阪は、人口、面積、工業生産額において東京を上回る全国一の都市でした。
この最盛期に市勢拡大を図り、地下鉄の建設、大阪湾の整備拡充、中央卸売市場の開設、全国初の自治体立大学(現大阪市立大学)の創設等々、現在の大阪の基盤を築いたといっても過言ではありません。

反対に云えば、これ以降の市長さんがあまりにも、大阪の発展に寄与出来なかった、否しなかったのではないかと思わざるを得ません。

交通運輸の円滑化、交通量の増大を見越して建設されたもので、江戸時代には「淀屋橋筋」と呼ばれる道幅6mの狭いものを、43.6mに拡大しました。
梅田から難波まで、全長4027mで全6車線の幹線道路で、その下には地下鉄を並行して建設しました。

   
  
 地下鉄工事        昭和8年ころ、阪急百貨店の左が梅田停留所

大阪の地下鉄は、東京に次いで建設されたのですが、公設としては、全国初です。
梅田、心斎橋間が昭和8年に、難波までは昭和10年に完成しました。
同時に、電柱を全部地下に埋めました。

ところで、「御堂筋」の御堂は、どこから云われるようになったのでしょうか?
本願寺津村別館(北御堂)が提供した境内地に道路を通したことで、難波別院(南御堂)と沿道に面し、北御堂と南御堂を結ぶことから「御堂筋」と幹線全体の名称となったそうです。

その上、道路の両方の建物を百尺(約31m)の高さ制限を設けたことで、外観は整然とした道路となり、関市長がパリなどを模範としたということです。
平成7年(1995年)には、建物を4m後退することを条件に軒高50m、最大高さ60mまでに緩和されました。

御堂筋は、日本の道100選の一つで、二つの国道で繋がっています。
梅田阪神前から梅田新道までが国道176号線、梅田新道から難波西口までが国道25号線です。 なお、梅田新道では、東側からは、国道1号線の終点となり、西側への国道2号線の始点でもあります。

御堂筋のイチョウ並木の黄葉は、大阪の秋の風情として、まさに大阪のシンボルです。