徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

岩国と安芸の宮島一泊旅行 ⑥ -航路で広島市内へー

2014年09月29日 16時31分44秒 | 旅行・観光

宮島から”世界遺産航路”で広島 平和公園まで直行しました。

 宮島を13時40分に出航し、平和公園近く、原爆ドームの傍にある元安桟橋に14時25分に接岸しました。
宮島を出ると、右側には島々が時々見られ、左側には、工場群が続き、大川に入ると、多くの橋を潜って行きました。
その橋の下を通るため、船は低く、もちろんデッキなどありません。

  

桟橋から2,3分歩くいて原爆ドームに行きました。
多くの修学旅行生や外人が、カメラのシャッターを切っていました。
それは、ドームから平和公園に至るところに見られました。

  

広島

 


平和公園前から路面電車で、JR広島駅に行き、広島から新幹線で帰路につきました。
なお、広島にはなぜ地下鉄がないのでしょうか?という疑問を路面電車で、隣に座っている人が教えてくれました。

  

それは、広島は、三角州形状の地形で、川が多く地盤が緩くなっているからとのでした。

人口100万人を超える政令指定都市で、しかも県庁所在地で地下鉄がないというのは珍しく、どうやら地盤の問題だけではなさそうと思い調べてみると・・・・・。

その理由の一つが広島の路面電車が民営であり、廃止を進める政策の対象外となったこともあったようです
そのため、路面電車による渋滞を避けるため、さまざまな渋滞規制が厳しくされ、それを警察、住民の根強い協力関係があったとも言われています。

市営であったなら、費用面を考慮せずに、地下鉄化されたのではないかとも憶測されているそうです。


なぜ、肝心な時に、失速を繰り返すのでしょうか?

2014年09月27日 20時38分15秒 | 野球・タイガース

巨人の優勝が決まりました。
タイガースは、9年ぶりのV奪回を使命としながらも、そして昨年の二の舞は絶対にしない云われながら、開幕から一度も首位に立つことなく、今年も優勝から見放されました。

ただし、CSで勝ち進めば、日本一になることも夢ではないのですが、今の調子では、心持たない感じです。

タイガースの月間勝敗
    3.4月        19勝10敗
      5月         9勝15敗         28勝25敗
      6月         6勝11敗 1引分    34勝36敗1引分
      7月        15勝 7敗         49勝43敗1引分
      8月        13勝12敗         62勝55敗1引分
      9月26日まで  10勝12敗         72勝67敗1引分


9月に失速したといわれていますが、数字的には、5,6月ほど、大きな負越しではありません。
問題は、その中味なのです。
ここと云うところで、それも当面の敵に連敗して、勢いが削がれたところに問題があります。

昨年の9月は、6勝16敗と大失速し、完全に息切れしてしまいました。
それを、昨年のシーズン終了後、和田監督は、「スタミナ不足、体力だけではなく精神面も含めてと語り、今季は、十分にその対策を打ってきたはずなのですが・・・・

   

昨年と違う点は、4月から夏場にそなえて、月曜日の休みも若い選手に練習させたことです。
投手陣も例年以上に走り込みをしたようです。
それ自体は、悪くはないのですが、これが9月に息切れという形で表れたのではと言われています。

反対に、巨人は、8月には、9月決戦に備え、主力野手の体力の消耗を回避してきました。
それも、豊富な戦力があるからこそ出来たのではと思われがちですが、巨人は、8月の27試合で24人の野手が出場したのに対して、タイガースは25試合で19人。

この差が、若手の台頭がなく、主力に集中した選手起用で、肝心なところで、スタミナ切れとなったのではないでしょうか?
綿密にしたはずの計算は、実は、対策にはなっていなかったのです。


    
      不完全燃焼に終わらないことを祈るばかりです。      


4番打者と守護神不足ということで、昨年、補強したのですが、その個々の力は、成功したのですが、結局、それに頼り切ってしまい、その前後の打者も投手も成長しなかったのです。

数字がすべてではありませんが、今の実績の数字を見る限り、よくも3位にいると思われます。
得点より失点の方が多い。 巨人や広島は、得点の方が多い。

チーム打率(0.265)は、巨人のそれ(0.256)よりも良く、防御率は、つい最近まで4点代で、これはヤクルトの次に悪くなっています。
チーム本塁打数は中日と最下位争い、盗塁数は、リーグ最少と、これで勝率が5割超えているのが不思議なくらいです。

そして、首位打者も打点王も、セーブ王もいて、この成績というのも摩訶不思議と言わざるを得ません。
これだけの駒を持ちながら、それを上手く活用でなかったのは、首脳陣の采配にも問題があると思わざるを得ません。


まだ、CSがあります。
ここで以前のロッテのように、下剋上の可能性もゼロではありませんが、いま一つ、それを乗り切るだけの勝負強さとか勢いとか云うものが、現状では見当たらないのは寂しい限りです。 


これからの新幹線と今・・・・-その4- 東海道新幹線

2014年09月26日 20時24分41秒 | 鉄道のよもやま話

新幹線の話をするには、東海道新幹線が外せません。
計画時には、世界三大バカに次ぐもので、4大バカとまで言われました。

つまり、エジプトのピラミッドとか万里の長城とか、戦艦”大和”などのように、図体が大きいだけで役にたたないということの一つだとも言われた時期がありました。

しかし、そのような危惧も吹っ飛ぶように、半世紀にわたって利益率が5割を維持する驚異のドル箱路線となりました。
もちろん、1964年の開通以来、下降傾向になったことがあります。

   

1964年の開業時の輸送量は、39億人㌔であったものが、年々増加し、山陽新幹線が開業した1975年には351億人㌔とピークをむかえますが、1978年には283億人㌔と1970年代の水準に戻ってしまいます。

理由には、色々あります。

まず、料金の高騰です。
1972年の東京ー大阪間の4130円(現在の貨幣価値に換算して9983円)が、9300円(現在の貨幣価値に換算して12769円)と125.2%増となった。
そして、0系新幹線の電車の設備等が古くなり、不評を買ったことと国鉄職員の接客態度も問題になったこと。
他に、所要時間が1965年以来3時間10分から速くならなかったこと。

    100系   



0系新幹線は、1985年に100系が登場して、解消されます。

また、1992年には「のぞみ」が登場して、東京ー大阪間2時間30分で結ばれ、1987年には国鉄の民営化により、職員の意識が変わったと云われています。

結果、1978年の挫折が、今日の繁栄の基礎になったと言えるのではないでしょうか・・・・
その後輸送量の推移は、1988年まで大きな変化はありません。
その後は、順調に輸送量を伸ばし、1987年の321億人㌔だったものが、2012年には、469億人㌔となっています。

安全面やスピードもさることながら、海外からの評価は、ビジネスとして成功を収めている点にあります。


 


映画 「 柘榴坂の仇討 」

2014年09月23日 15時45分09秒 | 映画・社会

時は、江戸末期から明治の初め、動乱と新しい時代の幕開けの明治維新。

先週見た映画 「るろうに剣心 」は、同じ時代でも、新しい時代への動乱を描いた、”動”なる映画でしたが、今回の「 柘榴坂の仇討 」 は、新しい時代になっても、武士としての魂を捨てず、忠義を貫こうとする、”静”なる物語となっています。
ネタばれがありますので、承知ください・・・・・・

   

安政7年(1860年)3月3日。
江戸城桜田門外で、時の大老、井伊直弼(中村吉衛門)の登城途中の行列を18名の水戸脱藩藩士らが襲います。
その時、主君直弼の駕籠を警備していた志村金吾(中井貴一)だけは、刺客の一人を追いかけ、持ち場を離れたため、生き残り、主君を守り切れなかったことを悔やみます。

そのため、仇を討つ密命を受け、切腹もさせてもらわれず、襲撃一味を探し求めることとなりました。
武士の矜持を持つ金吾は、妻のセツ(広末涼子)の助けもあり、敵を探し続けます。

明治に入り、警視庁を退職した秋元(藤竜也)から事件の顛末を聞くことが出来ました。
それによると、伊井直弼を襲撃したのは、水戸浪人が17名、薩摩浪人が1名の18名。
うち、当日斬られたものが2名、自決したものが4名、自訴して切腹したものが7名、残り5名が行方不明でした。

そして、事件後13年経ち、襲撃した水戸脱藩藩士らの多くは亡くなり、残るは佐橋十兵衛(阿部寛)だけとなります。

水戸浪士 佐橋十兵衛は、直吉と名を変え、車夫として身をやつし、孤独の中に生きていました。

 

  


この13年間、時代は大きく変わり、徳川も井伊家も無くなり武士という価値観もかわり、ましてちょんまげも刀の帯刀も禁止されている中志村は昔ながらの武士として、本懐を遂げるべき奔走します。

そんな中、明治6年2月7日、仇討禁止令が布告されます。
そして、仇の最後のひとりの男 佐橋と出会った志村は、佐橋の人力車に乗り、柘榴坂で降ります。

二人は、お互いの思いを込め対峙します。
佐橋は、桜田門外での襲撃の際、訴状を出して、行列を止めた張本人で、その時、志村は、直弼から聞いたことを佐橋に伝えると、二人の戦闘意欲はなくなり、お互い涙します。

「かりそめにも命を賭けた者の訴えをおろそかに扱うな。  よしんば、その訴えで命を落とそうとも甘んじて受けるべき・・・・・」


岩国と安芸の宮島一泊旅行 ⑤ -弥山と豊國神社他ー

2014年09月21日 08時59分25秒 | 旅行・観光

弥山は、宮島の中央部にある標高535mの山で、古くから信仰の対象となっています。
平安時代に空海が弥山を開山し、真言密教の修験道場となったということです。

山頂には2013年に立て直された展望台があり、瀬戸内海国立公園内に位置し、弥山の山麓は、世界遺産の「厳島神社」の登録区域の一部となっています。

  

 
    

山麓にある世界遺産「厳島神社」は、社伝によると、推古天皇元年(593年)に、当時の豪族が社殿を創建したことから始まりました。
現在の社殿と同じような規模には、平清盛が仁安3年(1168年)ごろ造営して、平家の氏神となりました。

その周辺には大願寺を伽藍の中心とする五重塔、豊國神社(千畳閣)、多宝塔などがあります。
大願寺は、1201年ごろ再興されたと伝えられ、厳島神社の普請奉行として寺社の修理、運営などを一手に担っていました。

  

  
          千畳閣の内部                             多宝塔 

その中で豊國神社(千畳閣)は、豊臣神社が九州に出陣の際、戦没した武将の霊を慰めるため、また平和と繁栄を祈願して、宮島に、桃山時代の建築様式を天正15年(1587年)に建てたものです。
秀吉が亡くなり、工事が中止され、未完ながら国の重要文化財に指定されています。

  
        町家通り 金鳥居の辻から五重塔を望む    



五重塔は、応永14年(1407年)に、また多宝塔は、大永3年(1523年)に、また清盛神社は、昭和29年(1954年)清盛 没後770年を記念して建立されました。

このように、厳島神社は、推古天皇元年から1400年以上に亘って逐次新しいものを加え、生まれ変わってきたようです


映画 「るろうに剣心 伝説の最期編 」

2014年09月19日 09時47分33秒 | 映画・社会


2時間以上のこの映画、ほとんどがアクションシーンでした。
あれは、早送りしているのか、それともCGなのか?
あまりにも早く、素早く、巧みの技は、いわゆる今までのチャンバラではなく、中国の清瀧刀的(カンフー?)な感覚ではないでしょうか?

シリーズ最終章にあたる今回の作品は、「京都大火編」の続きです。
その前回の最期のシーンに鮮烈に登場したのは、比古清十郎(福山雅治)で、緋村剣心(佐藤 健)の師匠であった。

明治政府初め日本中の脅威となっている志々雄真実(藤原竜也)と対峙するため、剣心は師匠に奥義の伝授を請い、ここで二人は激しい打ち合いの稽古に入ります。

  

 ここで剣心は、自分に欠けているものは何かを探り、その激しい打ち合いの中で「 どう死ぬか 」ではなく「 どう生きるか 」を模索します。

後半に入ると、アクションシーンの連続となります。
剣心の相手には、まず、蒼紫(伊勢谷友介)、続いて、宗次郎(神木隆之介)とそして最後には志々雄との死闘。

  

剣道などのタテに門外漢の僕ですが、目が回る動きには、ついていくことが出来ません。
正直最期には肩がこり、フーとため息がでました。

この最終章は、剣心の動きがすべてであり、漫画的と言ってしまえばそれまでですが、こう云う映画もあっても良いのではないでしょうか・・・・・


岩国と安芸の宮島一泊旅行 ④ -厳島神社ー

2014年09月14日 16時13分31秒 | 旅行・観光

宮島口からJR西日本フエリーで宮島に渡りました。
所要時間は約10分。
厳島神社の大鳥居を参拝出来るよう迂回するとのことで、右舷でカメラを構えました。

宮島


予約したホテルには、早く着いたのですが、10分程待っていると、部屋に案内され、荷物を置いて早速、出かけました。

厳島神社へは、海寄りの道とその左側の表参道商店街(清盛通り)とまだその左側の町家通りがありますが、今日の往路は、海づたいの道としました。
厳島神社への参拝は、明日とし、今晩はお風呂に入りゆっくりすることとしました。


第2日目

この日の干潮は、9:48です。
大鳥居に着いたのが、9:05でしたが、すでに大鳥居の足元まで行くことが出来ました。
拝殿は、工事中で、錦帯橋といい、どうも今回の旅行は、全景が見られないという不運?
旅行は7月初旬時点で決めていたのですが、調査不足だったようです。

  


反り橋は、平成24年11月から工事に入り、今年の9月30日に完成予定です。
もともと渡れる橋ではないということです。
また、平舞台の工事は、7月14日~10月14日までだそうです。

  

  
  平舞台の工事                        反り橋の工事

 

厳島神社の参拝のあと、弥山(みせん)へロープウエーで行くことにしました。
そのロープウエーの乗り場までは、シャトルバスに乗りますが、その乗り場が分かりにくかった。
次回はその弥山について・・・・


岩国と安芸の宮島一泊旅行 ③-岩国から宮島へー

2014年09月11日 10時50分10秒 | 旅行・観光

PM12:00から、ハイヤーで、岩国市内観光とJR宮島口まで4時間で依頼していました。
錦帯橋と岩国城を見学して約1時間経過し、あとは市内観光と思ったのですが、運転手は、これから宮島口へ行きますとのこと。

岩国~宮島口は、約1時間ほどと思っていたので、まだ1時間ほどあるので、史跡の長屋門などに行ってくださいと言ったのですが、無言で宮島口の方に車を走らせました。

運転手の考えもあるのかと思い、この件は、これ以上話をしませんでした。
これが悪かったのか、宮島口に付いたのはPM2:10でした。

運転中の話では、あの土砂災害がこの岩国でもあり、岩国でも3人死者が出ているなどの話があり、また、普段は国道2号線は良く混んでおり、今日は案外すいているという話もしており、それで早く岩国を出たのかなぁとおもったのですが・・・・

  
             フェリーから厳島神社の大鳥居を・・・・・     


 

あとで聞くと、PM2:15には宮島口に行ってくれと僕が言ったとか・・・・そんな覚えはないのですが・・・・・・
PM3:55出発のフエリーに乗りたいので、PM3;30~45頃に到着してほしいとは言ったのですが、どうもそれが、間違いの元だったのでしょうか・・・・
というのも、この時間以降のフエリーは大鳥居に近づかないので、それまでに乗りたい旨を言ったんですが、それがどこでどう勘違い?されたのでしょうか?

旅行から帰ってその旨を旅行業者に言うと、半額返金してくれました。
でも、今までこのようなことがなかったので、なにか納得できないスッキリした気分にはなれませんでした。
もっとも、もっとハッキリこちらの考えと、運転手の考えを聞いておくべきだったのかも知れませんが、4時間という時間で頼んだ以上は、プロの運転手に、途中であれこれ指示べきではないと思ったのですが・・・・
今後とも、気持ちよく旅行が出来るようにしたいものです。
 

さて、2時間弱も早く着きましたが、ともかく宮島口からフエリーに乗り込みました。
幸いに船内はすいており、大鳥居に近づく右側でカメラを構えました。

おかげで、船上から海に浮かぶ大鳥居を写真やビデオを撮ることが出来ました。
あくる朝の大鳥居は、引き潮で大鳥居のそばまで行くことが出来、その対比が出来ました。

  

  早く着いたお陰でしょうか、ホテルに荷物を預け、ゆっくりと散策することが出来ました。

  

   平 清盛像             ホテルからの夕日 左の方向に大鳥居があります。   

 大鳥居の足元までは次回に・・・・


岩国と安芸の宮島一泊旅行 ② -岩国城(別名 横山城)ー

2014年09月08日 19時32分55秒 | 旅行・観光

錦帯橋から見える岩国城には、ロープウエーで登ります。

現在の天守は1962年(昭和37年)に外観復元されたもので、四重六階の桃山風南蛮造です。
南蛮造とは、最上階をその下層より大きく造り、その間の屋根を省略した様式です。

復元の際、錦帯橋からよく見えるように旧本丸の約50m南側に位置を変えています。

 


  

   錦帯橋から岩国城を望む                  ロープウエーから岩国市内を望む

   
      ロープウエーを降りてお城まで・・・・
    

   岩国城   


岩国城は、1608年(慶長13年)に初代岩国城主の吉川広家が、蛇行した錦川に囲まれた天然の要害の地である横山の山頂に築城しました。
そのため、別名”横山城”と言われています。

 
    天守から                             城内・・・

 

しかし、幕府の一国一城令により、築城から僅か7年後の1615年(元和元年)には取り壊しとなり、政務は山麓の居館(現在の吉香神社あたり)で行われていました。

この一国一城令によって建物だけではなく、石垣も破壊するように命じられ石垣も破壊されました。
しかし、石垣の下部約1/4が地中に埋まっており、1995年に発掘復元されました。

 


岩国と安芸の宮島一泊旅行 ① -錦帯橋ー

2014年09月05日 19時17分14秒 | 旅行・観光

この夏、関西方面は、雨が多く、又、広島の土石流災害と心配事があったのですが、当日は天気も良く、まずまずの旅行日和でした。

手術後の状態が心配でしたが、休み休みマイペースで行くことにしました。
二日間で、僕の万歩計は、2万6千歩となりましたが、なんとか無事に帰ることが出来ました。


第1日目は、
新幹線で広島で”こだま”に乗り換えて新岩国駅まで行きました。
事前に、12時から市内観光と、宮島口まで、4時間の予約をしていたタクシーで、まず錦帯橋に向かいました。
乗ると同時に、JR西日本フエリーの宮島口発15:55に乗りたいと、運転手に先に言ったのですが、これが後で問題となりました。
それは、あとで・・・・

まず、出鼻を挫かれたのが、この錦帯橋が工事中であり、あの美しい曲線美と橋の特徴である裏面の構造部分が見れなかったことです。

  

8月25日~10月14日まで、防腐処理工事のため、通行は可能ですが、せっかくの姿が台無しでした。

日本三大名橋や日本三大奇橋に数えられ、名勝に指定されています。
5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3m、幅員5.0mで、継ぎ手や仕口という組み木の技術によって作られているということです。

”流れない橋を架けたい”
というのが初代岩国藩主吉川広家が、岩国城を築城して以来の藩主の願いでした。
岩国城と城下町をつなぐ橋は、錦川の氾濫に悩まされていました。

  岩国城へのロープウエーから

 

3代城主の吉川広嘉は、明の帰化僧である独立性易(どくりゆうしょうえき)から、杭州の西湖には6連の橋があることを聞き、これをヒントに1673年に作られたということです。 
しかし、翌年に流失しますが、橋台の敷石を強化し再建したところ、この改良が功を奏し、その後、250年、昭和の時代まで流失することはなかったそうです。

その後、定期的に修復され、現在に至っているようです。