徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

日本の城 もう一つの名前  ⑮ 高知城 = 鷹 城

2015年10月02日 10時32分45秒 | 城郭への展望

先日、現存十二天守のある城の一つ、高知城に行ってきました。
四国には徳島県を除いて残り3県にその現存の天守のある城があります。

香川県には丸亀城、愛媛県には松山城と宇和島城、そして高知県には高知城があります。

 


高知城は、高知平野のほぼ中央に位置する大高坂山(標高44.4m)上に築かれ戦国時代は、大高坂山城が築かれていましたが、江戸時代初期に掛川から土佐藩主として山内一豊が赴任すると一豊によって新たに着工したのが、現在みられる城です。

一豊によって当初、河中山城(こうちやまじょう)と名づけられましたが、高智山城と名を変えたのち、現在の城名になりました。

 

 別名は「鷹城」と呼ばれています。
その由来は、屋根瓦のグレーと白漆喰壁の白が鷹の色合いを思い起こすことから言われているようです。

 

城の周りは、高知公園として開放されています。
どこにもあるように、そこには県庁、市役所など行政の中心地でもあります。
高知城の本丸の建物が完全に残る唯一の城で、明治初期の廃城令や第二次大戦による空襲をも逃れ天守・御殿・追手門など15棟の建造物が現存し、国の重要文化財に指定されています。

  
   本丸御殿  築城の際、二の丸御殿が出来るまで、山内一豊と見性院(千代)
          が暮らしていた。 

 

したがって、思っていた以上に城郭は広く、現存の城としての風格がありました。

  
  追手門の手前にある池 ハスが咲いていました。       
  遠くに天守が望めます。

  この城には、山内一豊と千代の像がありますが、郡上八幡城にもあります。
 日本の城 もう一つの名前 ⑭ 郡上八幡城(2013年11月12日付け)を参照して  ください。
 詳細は、後日、高知城 その2 として掲載する予定です。


日本の城 もう一つの名前 ⑭ -郡上八幡城=積翠城=

2013年11月12日 19時20分35秒 | 城郭への展望

別名は、積翠城、または虞城とも云われています

青々とした空に山にある城と言うことから積翠城と言われているのではと推測出来のですが・・・・
虞城とは、はっきり分かりません。
虞は、畏怖する意味であり、また虞城とは中国の河南省にある地名であるのですが、なぜそのように言われるのでしょうか?

  

2008年11月に訪れた郡上八幡城は、紅葉がすばらしく、今年も多分、これから紅葉がすばらしいものでしょう。

山内一豊の妻、千代の故郷でもあるこの郡上八幡城は、永禄2年(1559年)に、鎌倉幕府以来の名門 東家の血を引く初代の城主遠藤盛数が築城しました。

 

現在の天守は、大垣城を参考に昭和8年(1933年)に模擬天守として全国的に珍しい木造で造られたものです。

郡上おどりは、郡上八幡で開催される伝統的な盆おどりで、日本三大盆踊りの一つです。
秋田の西馬内の盆踊りと阿波踊りとここ郡上おどりが日本三大踊りと言われています。

この踊りは、諸説ありますが、江戸中期、藩主の青山氏の時代(1758~)に百姓一揆(宝暦騒動)後、四民融和を計るため奨励されたのが発祥の元だそうです。



城自体は、小規模だが、城下から眺める城、そして城から見下す城下のたたずまいは、大変美しく、素晴らしいものでした。

 

 


日本の城 もう一つの名前 ⑬ -松江城=千鳥城ー

2013年10月30日 09時34分39秒 | 城郭への展望

島根県松江市殿町にある平山城で、別名は「千鳥城」と言われています。
千鳥の羽根を広げたように見える入母屋破風の屋根が見事であることから「千鳥城」と言われています。

松江城も4年程前に行った時、1番印象に残っているのが、「堀めぐり」でした。
お城の周りの堀を、屋形船で回り、そこから見る松江城は凛として立派でした。

  

そして、この時には、出雲大社から一畑電車で松江に出て、宍道湖を眺め、小泉八雲宅、松江城に行った、お決まりのコースでした。

松江城は、現存する天守のある12城の一つで、江戸時代初期からの建造物の天守を有する城で、国の重要文化財に指定されています。

江戸時代は、政治・経済の中心でしたが、明治になり、廃城令によって、存城処分(陸軍省所管)となり、天守を除き、その他の建物は全て撤去されました。

 

1600年 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が24万石で月山富田城に入城し、松江藩を築きます。
1607年に、亀田山に築城を開始し、1611年に松江城として落成します。

その後、堀尾氏に子がなく、一時廃絶され、信濃国松本から松平直政が18万6000石で入封し、それ以降は明治維新まで続きます。

     ☆    ☆    ☆    ☆
 
1週間程、出かけますので、お休みさせて頂きます。
帰ってから、またお目にかかります。


日本の城 もう一つの名前 ⑫ ー丸亀城=亀山城=蓬莱城ー

2013年10月27日 08時12分06秒 | 城郭への展望

丸亀市街地の南部に位置する亀山(標高66m)を利用し、縄張りは、ほぼ四角形で、亀山の回りを堀で囲む、輪郭式の平山城で、亀山に位置するため、亀山城とも云われています。

また、別名、蓬莱城ともいわれ、蓬莱とは、中国の神仙思想にもとずく、不老長寿の仙人が済むと言う謂れから、この城にも末永かれとの願いが込められて、呼ばれているのか、真偽のほどは分かりませんが・・・・・

 

この城の特徴は、石垣にあり、穏やかであるが荒々しい野面積みと端正な算木積みの土台から、独特の反りを持たせる「扇の勾配」となっており、山麓から山頂まで4重に重ねられ、高さ60mあり、この高さは日本一で、三の丸だけでも22mあります。

石垣の高さ、美しさから「日本100名城」に選ばれ、現存する12の天守を持つ城の一つで、400年の歴史を誇っています。

 

元はと言えば、この讃岐の国には、高松城があり、1国1城の考えがある江戸時代からして少し事情があります。

室町時代の初期、管領細川頼之の重臣 奈良元安が、この地に砦を築いたことから始まります。
慶長2年(1597年) 豊臣時代、生駒親正が、讃岐17万石を与えられ、高松城の支城として築きます。

その5年後(1602年)に城郭が完成しますが、関ヶ原後の徳川の天下が定まると、一国一城令が発せられますが、これは、必ずしも”一つの国に一つの城”と言うことではなく、”一人の大名に一つの城”と言うことだったのですが、讃岐の国は生駒氏のみの領地であるため、丸亀城は一旦、廃城になります。

ところが、生駒騒動というお家騒動を起こしたため、生駒氏は幕府ににらまれ、出羽の国に転封され、次に着た大名 山崎氏は、讃岐半国を与えられ、山崎氏は、この丸亀に城を再建し、現在に至っています。

そこで、讃岐の国は、高松城を本城とする松平頼重が12万石で入封し、讃岐の国は、高松城と丸亀城の2城が存在することとなりました。

なお、2011年2月15日付けの当ブログには、丸亀城を訪れた時のブログをアップしています。
内容的に重複しているところもありますが、よろしかったら、見てください。


日本の城 もう一つの名前 ⑪ -竹田城=虎臥城ー

2013年10月26日 10時05分02秒 | 城郭への展望

この城も今年9月に訪れたお城です。

別名として、昔から「虎臥城」と云われていたのですが、最近は「天空の城」とも「日本のマチュピチュ」とも云われています。

「虎臥城」とは、縄張りが虎が臥せているように見えることから、そう呼ばれています。

「天空の城」とか「日本のマチュピチ」とは雲海に浮かび上がる古城の累々たる石垣群の威容は、この名前に相応しいものです。

この雲海に、浮かび上がって見える時期的は、秋から冬にかけて日の出前から午前8時頃までで、朝方と日中の気温差が大きい時だそうです。

 

竹田城については、2013年9月16日付けの当ブログに書いています。
  http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/d/20130916

10年前までは、無名の山城だったのが、雲海の写真や映画にも登場し、徐々に知られるようになったようです。
来年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のロケが行われ、これから益々人気が出てくるのではないでしょうか?

  

この城が、知られるようになったのは、平成18年に「日本100名城」に選ばれたことが火付けになったと言われています。
なお、兵庫県での100選の名城とは、姫路城、篠山城、明石城、赤穂城が選ばれています。

来訪者は、平成17年に1万2000人だったものが、昨年度は、23万8000人、そして今年4月から9月までで22万人となっています。

なお、10月1日から300円の観覧料(高校生以上)を徴収しています。
観光客が急増している中、この費用は、警備費と史跡の維持に充てるということです。
 


日本の城 もう一つの名前 ⑩-長浜城=今浜城=出世城ー

2013年10月25日 11時14分59秒 | 城郭への展望

久しぶりに、このシリーズを始めます。
日本には、最盛期に、25000もの城があったと言われていますが、現存する天守のある城は12城しかありません。

それでも、復元、復興、模擬天守と称して、地域興しの一端として再建されている天守もあります。
天守がなくとも、城郭として、公園として整備されている城跡も多数あります。
それらの城を、思いつくままに、お城の成り立ちや別名などの由来を、このシリーズで書いています。

再開、最初のお城は、今年4月に訪れた長浜城について書いてゆきます。

  



長浜城の別名は、”今浜城”または”出世城”と呼ばれています。
これは、羽柴秀吉が浅井長政攻めで功績ありということで、織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に、当時の地名 ”今浜”を、信長の一字をもらって、”長浜”と改名したことから、今の長浜城となりました。

今でも、その旧地名にちなんで”今浜城”とも云われています。

また、秀吉にちなんで”出世城”とも云われていたようです。
今も、秀吉の名残が多く残っており、この土地の人々にも、秀吉に親しみを感じている人が多いようです。

  
  長浜城 天守跡                   天守から琵琶湖を望む

 

現在の天守は、1983年に犬山城や伏見城をモデルにし、模擬復元されたもので、外観をお城とした市立長浜城歴史博物館として運営されています。
それでも、周りは、お城の雰囲気を十分感じられる公園となっています。
特に、琵琶湖の湖畔から、お城までの桜は見事な眺めでした。


日本の城、もう一つの名前 ⑨ -高松城=玉藻城ー

2013年02月28日 21時20分40秒 | 城郭への展望

2010年5月20日の当ブログには、今でも多くのアクセスがあります。
それは、「高松城天守閣の再建は・・・」と言うものです。
その後の状況は分かりませんが、関心が高いと言うことなのでしょう。

お城の再建を望む声は、なにも高松城だけではなく、各地で観光だけではなく、地域おこしや郷土を見直すという観点から要望が湧いています。
が、再建となると文化財保護法の規制や資金の問題など多くの問題があり、簡単にいかないようです。

  
     月見楼                            玉藻公園の碑     

高松城の別名は「玉藻城」と言われています。
万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と読んだことから、高松城周辺の海域が”玉藻の浦”と呼ばれたことに由来するとされています。

高松城は、豊臣秀吉の四国制圧の後、天正15年(1587年)讃岐一国の領主となった生駒親正によって、”野原”と呼ばれた港町に築かれました。
現在の遺構は、江戸初期、徳川光圀の兄で常陸国から12万石で高松に移封された松平頼重によって改修されたものです。

 

 明治以降の都市化によって現在は、海側に新しい道路が通り、ほとんどの建物は取り壊されました。最盛期に比べ現在は約1/8の8万㎡に減少しました。                          

     
     
 城の北東部にある月見櫓                 再建が取りざたされている天守台                    

      
  城内にある重要文化財の被雲閣は当時の1/3に。  海側に道路が出来、城が削られました。 
         上記、4つの写真は、JRホテルクレメント高松から撮影しました。

 

城郭の形式は輪郭式平城で本丸を中心に二の丸、三の丸、北の丸、東の丸、桜の馬場、西の丸が時計回りに配置され、三重に堀が回されていました。

かっては、城壁が瀬戸内海に直接面し、外濠、中濠、内濠の全てに海水が引き込まれ、城内に軍船が出入り出来るようになっており、日本初の”海城”です。

 なお、高松で名高い栗林公園は、頼重の隠居所として城の南西に造築されたものです。


日本の城、もう一つの名前 ⑧ -会津若松城=黒川城ー

2013年02月18日 10時39分20秒 | 城郭への展望

NHKの大河ドラマの「八重の桜」は、会津藩の国元のお城は会津若松城で、幕末には官軍の砲撃によって、お城は大きく傾きます。

大政奉還の舞台となった二条城とともに、江戸時代の幕引きとなったのが、この会津若松城と言えるでしょう。

このお城の落城とともに江戸時代は終わりを告げるのです。
その意味においても、この会津若松城は、日本の歴史上需要なお城の一つです。


本来は、若松城ですが、地元では一般的に鶴ケ城といい、地元以外では、会津若松城と呼ばれることが多く、文献上は黒川城とか会津城とされています。

国の史跡としては、若松城祉の名称で指定されています。

以上の他、会津鶴が城とも云われ、多くの名前を持っています。

  
     復元・整備された鶴が城              生々しい砲弾跡が残る鶴が城の走り長屋


若松城は、至徳元年(1384年)葦名直盛が造った「東黒川館」が始まりと言われ、後に会津領主の葦名盛氏が改築し、現在の城閣の原型を築き、その時の名前は「黒川城」でした。

 文禄元年(1592年)、黒川城に入った蒲生氏郷は、大大名として相応しい近世城郭に改造し城下町を整備し、町の名前も「黒川」から「若松」へと改名しました。

この「若松」という名前は、氏郷の出身地、現在の滋賀県蒲生郡日野町にある蒲生氏の氏神の参道にあった「若松の社」に由来し、同じく領土であった松阪の「松」という文字も由来していると言われています。

文禄2年(1593年)望楼型7重(5重5階地下2階)の天守が完成し、名を「鶴ケ城」に改められました。
なお、望楼型7重と言いながら実際は5重なのですが、比喩言葉で7重とは、幾重にも重なるという意味があります。

 会津藩の悲劇などと言われるのは、幕末、松平容保が京都守護職に就任した時から始まります。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発、やがて戦火は会津へと移りました
城下は戦火に見舞われ、白虎隊の悲劇が生まれ、約1ヶ月に及ぶ籠城戦を耐え抜いた鶴が城は奥州一の名城として、天下に知られました。

その名城も明治政府陸軍省の命により、明治7年に取り壊されました。
その後、旧藩士らの尽力により、陸軍省から払い下げられ、昭和9年には国から史跡として指定され、昭和40年に、昔の姿そのままに復元されました。

  
   現在、復元された鶴が城               戊辰戦争後の鶴が城には、鯱はありません。


その姿に、不明なところがただ1点あります。
現在の天守閣には、鯱が上げられていますが、明治初年の古写真には鯱がありません。
これを理由に平成22年(2010年)の改修工事に合わせて、鯱を取り外すべきという意見がありました。
江戸時代の絵図には鯱が描かれているものもあり、正確なところは不明だそうです。


日本の城、もう一つの名前 ⑦ 松本城=深志城、烏城

2013年01月19日 10時41分25秒 | 城郭への展望

松本の地は、古くから「深志」と呼ばれ、室町時代の初め、信濃守護の小笠原貞宗が、今の松本城のやや南方に居を構え、深志に城を築きました。

戦国時代に、小笠原氏を滅ぼした武田信玄が、深志城を拡張し、これが後の松本城の基礎になりました。
天正18年、豊臣秀吉が小笠原の北條氏を滅ぼすと徳川氏は関東へ移封となり、そこに入封してきたのが旧徳川家康の家臣の石川教正で、現在の松本城を完成させました。

 


そこで今でも地元では「深志城」と呼ばれていましたが、もう一つの別名として「烏城」とも云われています。
その姿が真っ黒であることから「烏城」と付けられたのですが、岡山城も「烏城」と呼ばれています。
でも、一般的には松本城は「からすじょう」、岡山城は「うじょう」と言うように使い分けられています。

  
                                  月見櫓の壁の白さが目立ちます。


なぜ、壁に黒い板で覆ったのでしょうか・・・・

この板は下見板と云われ、板に黒い漆を塗っています。
壁の2/3を下見板で覆っているのですが、当時は、上から下まで白い漆喰だけでは雨にあたる下の部分が壊れやすくなるので、板を使う必要があったのです。

秀吉の大阪城も真っ黒い板で覆っていました。
理由は、雨で崩れにくくすると同時に、黒い板の上に黄金を張り付け模様を付け、黄金色を目立たせ、権威を表していました。

しかし、徳川家康の時代には、新しい白漆喰を開発し、真っ白い江戸城を建て、新しい時代の到来を現したのではないでしょうか?
天守は、戦う砦から、権威を示す意味をもつようになりました。

松本城の月見櫓は、白漆喰の壁で作られています。
ここにも、泰平の世になって徳川の世の中が来たことを示すため増築したのかも知れません。
1600年以降、江戸時代の天守はほとんど白漆喰を用いています。


日本の城、もう一つの名前 ⑥ -丸岡城=霞ケ城ー

2012年12月18日 15時54分32秒 | 城郭への展望

去る11月21日に丸岡城を訪れた時のブログは下記をご覧ください。

 http://blog.goo.ne.jp/ganbaro433/e/7422ddfa82939c654a7868811e254809


  

ここでは、その丸岡城の別名 霞ケ城について書きます。
まず、お城の所在地は、福井県坂井市丸岡町霞町1丁目ですが、勿論、その地名は後から付けられたもので、別名は地名からのものではありません。

天正三年(1575年)織田信長が越前の一向一揆を平定後、柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が豊原からここに移り築城した。
豊原は一向一揆の本拠地であったため、築城後もこの丸岡城に、一揆の残党が押し掛けてくることもしばしばありました。
その度に、井戸の中から大蛇が表れて、城に”かすみ”をかけて城の危機を救ったという伝説から「霞ヶ城」と呼ばれたそうです。

現在も春先には、この地には”かすみ”におおわれるそうです。

 
  この井戸から大蛇が・・・・・         今の鯱は、石ではありません。木彫り銅版張りです。

この古いお城には、他にも色々と言い伝えられていることがあります。
”日本一短い手紙”については、11月21日の訪問記にも書きました。
なお”石の鯱”については、もとは木彫り銅版張りであったものを昭和15年~17年の修理の際、戦争中と言うこともあり、銅版の入手が困難でやむなく、全国でも珍しい石製に造り変えたものだそうです。
そして、昭和23年の福井大地震により落下しそのまま残っています。
なお、現在の天守閣にのっている鯱は、元の木彫り銅板張りに復元したものです。

 
 「人柱お静」の慰霊碑                昔のツイッターでしょうか・・・・・

もう一つ伝説があります。
「人柱お静」というもので、柴田勝豊が築城の際、天守閣の石垣を何度積んでも崩れるので人柱を入れることに進言するものがありました。

人柱に選ばれたのが、2人の子供を抱えていた”お静”でした。
お静は、2人の子供を侍に取り立ててもらうことを条件に、人柱となりました。
が、その後 勝豊が他に移封され、お静の子供は侍に取り立てられることはありませんでした。

お静は、これを恨み、毎年、春には堀に溢れる豪雨が降り、これはお静のたたりとして、小さな墓を建て霊を慰めたということです。