京都東山の高台寺と永観堂を歩いて、もみじの写真は200枚以上撮りました。
一昨日、昨日と載せられなかった一部を写真集として特集します。
景色をきれいに感じる感激は、実際に見なくては分からないもので、写真では、なかなか表現出来ませんが、その雰囲気の一端でも味わって頂ければ、と思います。
京都東山の高台寺と永観堂を歩いて、もみじの写真は200枚以上撮りました。
一昨日、昨日と載せられなかった一部を写真集として特集します。
景色をきれいに感じる感激は、実際に見なくては分からないもので、写真では、なかなか表現出来ませんが、その雰囲気の一端でも味わって頂ければ、と思います。
南禅寺を過ぎると永観堂にはすぐ到着しました。
目の前に紅葉が入ってきたので、大きな門に入ろうとすると、ここは永観堂幼稚園でお帰り口と書いてあり、そこを出てしばらく歩くと門に「禅林寺」とあり、ここが一般に呼ばれている永観堂です。
南 禅 寺 界 隈
正式には「浄土宗西山禅林寺派 総本山 永観堂禅林寺」といわれ、863年に弘法大師の高弟が清和天皇から建立許可を得て建てたそうです。
後に法然上人を宗祖にして総本山となったそうです。
ここの本尊は、「みかえり阿弥陀」様で本堂の正面で拝むのではなく、阿弥陀様の右側に回ったところから拝むようになっています。
つまり、阿弥陀様が右側を向いたところで拝むようになっています。
紅葉を満喫して、永観堂をあとにしました。
今日は、京都東山の一部、阪急四条河原町から高台寺、円山公園を経て南禅寺から永観堂を徒歩で散策し、全部で1万7000歩で7.1Kmを歩いたことになりました。
(万歩計の計測なので、正確ではありませんが、参考値とはなるでしょう)
今度は、どこかで2万歩に挑戦します。
”紅葉を訪ねて”も今年は最後になると思います。
今回は、京都・東山の紅葉の名刹高台寺と永観堂を訪ねました。
阪急、四条河原町から南座を見て、花見小路をぶらぶらと歩いて、まず高台寺(正しくは、高台寿聖禅寺または、鷲峰山(じゅぶさん)高台寺と言うそうです)に向かいました。
一力茶屋などお茶屋さんが立ち並び、京都らしい雰囲気が漂っています。
八坂の塔を目印にして、手前にある高台寺を目指しました。
高台寺の門前は、平日にもかかわらず多くの人がお参り・・・ではなく”もみじ狩り”に訪れていました。
近くまではよく来たのですが、中に入ったことがなく、初めての参拝でした。
思った以上に境内は広く、勅使門から方丈、書院が一直線に並び、左右に庫裏や開山堂、雲居庵があります。
さらに池のまわりには、茶室が3棟あり、これでも火災などで焼失したものが沢山あったようですが、残っている建物の多くは重文となっています。
このように”ねね”(出家して高台院湖月尼と号します)は、家康から多くの財政援助を受けており、寺観は壮麗を極めたものとなったようです。
高台寺を後にして、ねねの道を通って円山公園に出ました。
ここは、やはり桜の季節に訪れたいところで、今は季節はずれの感がします。
しだれ桜は、なにも付けていない枝がむなしく絡んでいました。
知恩院を右に見て、三条通りに出て、京都動物園を右に折れ、南禅寺に向かいました。
この周辺ももみじが鮮やかに色ずき、さすがに多くの人出で、狭い道路に自動車、観光バス、タクシーが引っ切り無しに走り、危険この上ない状態です。
平日でこれだから昨日の祝日の日は、もっと酷かったのではないでしょうか?
いっその事、車両通行禁止にする必要があるのではないでしょうか?
あと、永観堂まですぐですが、この様子は、明日に・・・・・
日曜日の夜、読売テレビの人気番組「行列のできる法律相談」という番組はご存じのことと思います。
そこで、「有名人が描いた絵をオークションし、その資金を元に学校を建設する」という主旨で放送されているのも御存じの方も多いのではないでしょうか?
いつもの番組は、島田紳助の司会がさえる軽妙なトークでタレント化した弁護士が相談に答えるというものです。
が、昨晩、今年の初めに第1回のオークションをし、昨晩2回目のオークションの状況が放映されました。
第1回オークションで建てられた学校
この番組で、久しぶりに心が温まったのですが、なにもこのオークションで感激した訳ではありません。
第1回のオークションで遂に学校が出来たことの報告とともに建設状態も放映されました。
建設にあたり、オークションした絵をタイルにして、学校の壁に貼る計画があったのですが、あいにくカンボジア現地ではタイル工がおらず、日本からタイル工が行くことになりました。
そこで、一人のタイル工の方がボランテアで行って貼ってくることとなりました。
そのタイル工の方は、お子さんが生まれてすぐ難病に罹り、10歳で他界されたのですが、そのお子さんも向学心が旺盛だったそうで、カンボジアの子供にも勉強をしてほしいという希望をもってカンボジアに行かれました。
そして、最後のタイルを貼る時に渡されたタイルには、何と亡くなったお子さんの笑顔が描いてありました。
それを知らされていなかったタイル工は、その場で泣き崩れました。
久しぶりに、良い話に、涙が出て、心が温まりました。
今日は、24節気の一つ「小雪」です。
24節気とは、太陰暦を使用していた時代に季節を現わすための工夫として考え出されたもので1年を24等分したものです。
「小雪」の時期は、陽射しは弱まり、冷え込みが厳しくなる季節を表しています。
12月7日は「大雪」で、朝夕には、池や川に氷を見るようになる季節です。
日本には、四季を楽しみ、それを生活に取り入れている言葉がたくさんあります。
”郡上八幡のもみじ” F6号
また、この日は、「いい夫婦の日」でも知れています。
まったくの語呂あわせに過ぎないのですが、この日の制定は、通産省と余暇開発センターが1988年(昭和63年)に提唱したもので、勤労感謝の日と組み合わせて秋の連休となるように祝日化を考えているそうです。
その他に「回転寿司記念日」というのもあります。
これは、回転寿司チエーン「廻る元禄寿司」の元禄産業が制定したもので、この日は回転寿司を考案した同社の元社長の誕生日でもあるそうです。
まだまだ、あります。
「ボタンの日」「大工さんの日」「松葉ガニの日」「和歌山県ふるさと誕生日」「長野県りんごの日」などがありますが、衝撃な「ケネディが暗殺された日」でもあるのです。
1963年(昭和38年)11月22日午後12時30分(日本時間では23日午前5時30分)アメリカ大統領ジヨン・F・ケネディが何者かによって暗殺されました。
日本では丁度この日、日米の衛星放送回線が稼働し、その記念すべき最初のアメリカからリアルタイムのニュースが、この衝撃的なケネディ暗殺のニュースだったのです。
この瞬間を今でも鮮明に覚えていますが、初めは悪い冗談と思ったものです。
季節が寒さに向かうこの日、暗殺という「寒い」ニュースが飛び込んできました。
現在も、「寒い」ニュースが多く発生していますが、この時期、「暖かいニュース」が欲しいものですね。
江戸時代は格式の社会です。
幕府は身分、儀式などについてさまざまな決まりを設け、大名や幕臣を統制していました。
この格式は、本丸御殿に登城する際にも設けられました。
まず、大名や役高5000石以上の役人などは、大手門の橋の手前、下馬所において駕籠や馬から下りる定めで、そこから先は供の人数を減らし、定められた以外の多くの家臣をこの場所に残して登城しました。
その後、わずかの家臣とともに、大手門をくぐったのち、下乗橋を渡り、大手三之門、中之門、中雀門を通ってようやく玄関に到達します。
なお、御三家は中之門の手前まで駕籠に乗ることが出来ました)
下記、大手門からあなたも登城して玄関式台へ番号順に進んでください。
① 大手門 ② 三之門跡 ③ 三之門前 同心番所
(昭和34年に再建) (この先は二の丸) (警備役人の詰所)
④ 三之御門前の百人番所 ⑤ 中雀御門跡 本丸御殿に達する最終の門
(鉄砲隊百人の詰所 (関東大震災で大破)
江戸城の本丸玄関図がありませんので、
川越藩の本丸御殿玄関を・・・これで江戸城の玄関を想像してください。
そこから、さらに供の人数は減らされ、玄関からは大名一人の行動となります。
いかに数千人の家臣を持つ大大名に対しても、登城時からは将軍の威光を示し、将軍の臣下であることを実感させる工夫がなされていたと言えます。
例えば、下乗橋まで供の出来る人数は、1万石以上では、侍4~5人、草履取り1人、挟み箱持ち1人、六尺(駕籠かきのこと)4人で、10万石以上になっては供侍が1~2人増え、挟み箱持ちが1名増えます。
またその下乗橋を渡ってからは、10万石以上では、供侍3人、1万石以上では、供侍は2人となり、それぞれ草履取りと挟み箱持ち各1人になります。
格式は、玄関を上がるときも決められています。
一般的には、大名は刀が持って入れないため、家臣(刀番)が受取退出するまで玄関の外で待っていました。
しかし、刀番が玄関式台へ上がれる大名もいました。
多くは譜代大名や御三家の分家でしたが、外様でも加賀金沢藩主前田氏と因幡鳥取藩池田氏は、式台まで上がることが出来ました。
御三家は、玄関式台より奥の大広間溜まで刀を持ち込むことが許されました。
ブルーリボン賞・ローレル賞は、鉄道友の会が毎年1回、前年中に営業運転に就いた車両の中から選定されている賞です。
ブルーリボン賞は、鉄道友の会会員全員による投票をもとに、会員が優秀と認めた車両を選定したものです。
ローレル賞は、性能、デザイン、製造企画、運用などの諸点に卓越したものがあると、選考委員会が認めた車両を選定します。
2008年の選定車両は、
ブルーリボン賞・・・東海旅客鉄道・西日本旅客鉄道のN700系(新幹線)
ローレル賞・・・仙台空港鉄道(東日本旅客鉄道E721系) SAT721系
東日本旅客鉄道 キハE200形
今年のブルーリボン賞は、有効投票数2512票のうち最高得票の629票を獲得した新幹線N700系でした。
N700系
ローレル賞は、キハE200形で世界初といわれるハイブリッド気動車です。つまりエンジン騒音が低減され黒煙も抑制された燃費向上・排ガス低減・騒音低減を実現された気動車で現在勾配が多い小梅線で活躍しています。
キハE200形
また、仙台空港鉄道のSAT721系は、仙台空港線開業と同時に開発された交流電車です。
仙台地区の多くの駅は、首都圏の駅よりホームの高さが低くなっており、バリアフリーの観点から、それを解決したのがこの車両で、地域輸送のイメージを一変させる効果をもたらしたものです。
仙台空港鉄道SAT721系
紅葉を訪ねて、日帰りで有馬温泉に行ってきました。
阪急電鉄が発行している”阪急ジョイフルチケット”は、阪急沿線から乗車して神戸電鉄の有馬温泉駅までの往復切符と各種温泉の割引券付きです。
途中下車が出来ず、少々遠回りになりますが、ともかく割安なので、このチケットを使いました。
新開地から久し振りに神戸電鉄に乗り、各停でゆっくりと車窓からチラチラと紅葉を眺めながら有馬口で乗り換え、有馬温泉駅に到着しました。
駅からすぐに”ねね橋”を左に見て、有馬で一番紅葉がすばらしいと言われている瑞宝寺公園に向かって坂を登って行きましたが、平日でありながらかなりの人出でした。
評判通り、紅葉は素晴らしく、公園内は野立てなどが催しされて、もみじ狩りにふさわしい雰囲気のなか、もみじを満喫しました。
そこから、有馬の町をぶらぶらと散策しながら、炭酸泉源、極楽泉源、御所泉源をまわり、”金の湯”で温泉に浸かりました。
ホテルや旅館にも日帰り温泉はあり、太閤の湯などが有名ですが、時間的にこの公設温泉を選びました。
”金の湯”の他にも”銀の湯”もあるのですが、公設だけあって安く、ちょっと狭くて、温泉というより銭湯に近い感じですが、さすが温泉だけあって浸かっているだけで疲れが取れて行くようです。
今朝の新聞では、大阪城公園もかなり色づいてきたと報じていました。
また、京都もやっと”色づき始め”と紅葉たよりを報じていますので、来週あたりは京都にでも行ってこようかと思っています。
今、本籍地って意味があるのでしょうか?
「本籍地」とは「戸籍」を管理している場所のことをいい、「戸籍」に記載されている地名を「本籍」といいます。
「戸籍」と住民票は性質がまったく違います。
「住民票」は今住んでいるところを登録する義務があります。
住所が変わるたびに改変されるので、非常に変動が激しくなる傾向になります。
「戸籍」は、その人の親子関係や、姻戚関係、養子縁組などを記録するためのもので、相続などの際に相続人を確定したりするために記録されるものです。
”タヌキの置物” F6号
そのため、住所を変わるたびに本籍を変える義務はないので、生まれた時に登録した「本籍地」が産まれたところでなくてもよく、日本国内であれば、どこでもよいということになります。
「本籍」は「過去にそこに住んだことがある」とか「そこの出身である」などの証明ではないのですから・・・・・
「日本国民である」ということがわかり、その人の血縁関係がたどれれば良いのです。
ということで、東京都千代田区は、実際に住んでいる住民に比べて非常に多くの戸籍人口がいるそうです。
そのほとんどの人が皇居に本籍を置いているそうです。
これって、その人の「本籍地」というのは、あまり意味がないということで、日本国内であればどこでもいいというのは、チョット考えものではないでしょうか?
ということで、虎ファンは、聖地甲子園球場に「本籍地」を置くのはどうでしょうか?
「郵政民営化は改革の本丸」と某首相の言葉ですが、本丸は物事の中心、主要部分という意味で使用されます。
江戸城の中心は本丸であり、そこには天守閣と本丸御殿が設けられており、天守閣は城のシンボルであり、元々戦時の物見櫓、立てこもる場所として建設されたもので、平和な時代には無用の長物になりました。
現在の 天守閣跡 と 本丸跡 (一面の芝生が・・・)
そのため、4代家綱の時代に明暦の大火(1657年)で焼失して以来、天守閣は再建されませんでした。
それに対して、本丸御殿は将軍の住居兼幕府の政庁として使われたため、火災で焼失するたびに再建されました。(ただし文久3年1863年の罹災後は再建されませんでした)
江戸城本丸御殿図 少々見にくくて恐縮ですが・・・・
左の青い部分が「表」 黄色い部分は「中奥」、右の緑部分が「大奥」
本丸御殿こそ、まさしく江戸城の中心でした。
この本丸御殿は、用途によって、表、中奥、大奥と区分されいます。
「表」は儀式や将軍との謁見に使用される大広間・書院と日常諸役人や勤番士が詰めて執務や警備を行う座敷などからなり、幕府の中央政庁にあたります。
「中奥」は、将軍の日常生活の場であり、政務をみる場所で、将軍の公邸・官邸にあたります。
「大奥」は、将軍の正室(御台所)や側室、生母などの生活の場であり、将軍の私邸にあたります。
表と中奥はひとつづきの建物ですが、中奥と大奥は厳重な塀で仕切られており、将軍以外の男性は原則として大奥に入ることは出来ないのは、ご存じのとおりです。
(参考 中央公論新社刊 深井雅海著「江戸城」)