いつから、大坂が大阪に変わったのでしょうか?
大阪駅が、当初は堂島が建設候補地だったことは、以前に述べました。
地元の反対や土地買収の費用不足などから、地価の安い梅田に築かれたのですが、この時の名称が「大阪停留所」と記載されてあったそうです。
江戸時代の多くの書物には「大坂」と書かれていました。
いつから「大阪」に統一されるようになったのか、はっきりしないのが実情なようです。
昨年11月に描きました。
”柿” F6号
江戸時代後期には、すでに「坂」は不吉な文字とされて、一部には「阪」が使われていたそうです。
これは、文化5年(1808年)刊行の「摂葉落穂集」などにも「阪」が書かれ、不吉とは「坂」を分解すると「土(つち)」に「返る」となり、死を想像させるというものです。
地名表記が統一管理されるようになったのは、明治以降で、それまでは、字の読めない人も多く、耳で聞いた音が重視されたので、表記はかなり自由だったのです。
その流れが明治になっても引き継いでいたのですが、明治10年代中頃には「阪」に統一されたようです。
その理由は、未だにはっきりしないのですが、公印に「阪」が使われたから、これに右へならえしたという説や「坂」が「士族の反乱」のイメージがあるからだとも、諸説あります。
「士族の反乱」のイメージとは、これも「坂」を分解すると「士(さむらい)」が「反す」となるというものです。
これらは、あとでこじつけた解釈なのではないでしょうか?
いずれにしても、「大阪」と固定化されたのは、明治10年代だったろうということで、はっきりした意味合いは分からないというのが実情なようです。