徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

新幹線500系 ラストラン・・・

2010年02月28日 15時34分44秒 | 鉄道のよもやま話

昨日の勢いは、どうしたのか、今日のプロ野球オープン戦阪神対オリックス戦は、0対5で雪辱されました。
野球中継は、津波の特番でなく、見ない方が良かったのかも知れませんね。

                              

今日2月28日、新幹線500系がラストランをむかえました。
ただし、東京・博多間の「のぞみ」としては、今日が最後となります。
その後は、新大阪・博多間で「こだま」として生まれ変わります。

この500系は、16両編成が9本あり、新大阪・博多間は8両編成に編成変えされるそうです。

1997年3月、新大阪・博多間で運転開始され、当時、世界最高時速300キロを出し、同年11月には、東京・博多間を「のぞみ」として運転されていたものです。

従って、東京駅から「のぞみ」としてのラストランで、今日、東京駅には1500人もの鉄道フアンが、別れを惜しんだと報道されています。

「新幹線」と聞いてイメージする車両は人それぞれですが、500系の姿を思い浮かべる人は多いのではないでしょうか?
登場時は、ブルーリボン賞やグッドデザイン賞にも輝き、子供の鉄道絵本にもよく登場し、人気は今も高い。

では、なぜ、なくなるのでしょうか?
先頭車両はノーズ部分が長いため、乗客数が少なく(1編成ではN700系よりも多いのですが・・・) 旅客用ドアは運転席寄りを廃止し、後方1か所のみで、
他の系列車両との共通する上で支障があり、円筒状の車体になってるため内部の窓側座席空間も狭く、居住性他の系列車両より評判が悪かったということだそうです。

  

つい先日、心ない鉄道フアンが、運転妨害して被害届が出されたところなので、東京駅ホームの混乱がなかったことを祈ります。

「鉄道オタク」別称「鉄汚多(てつおた)」と書くそうです。
これは、卑称。蔑称のうち最も卑下、軽蔑の意図がこもった呼称で、純粋な鉄道フアンとは、区分したいのですが、このように呼ばれないように、そして世間の非難を浴びないようにルールは守りたいものです。

 


出だし絶好調・・・トラのオープン戦

2010年02月27日 19時47分54秒 | 野球・タイガース

今日の結果が、今季を占うのには、あまりにも早計過ぎますが、それにしても幸先の良い滑り出しとなりました。

最終スコアーが11対1ということも、それにホームランが5本も出たこと、先発のルーキー二神が好投したことが、何よりも、今季はやってくれるのではという期待が大きく膨らんできました。
今日は、出来すぎで、参考になるかどうか分かりませんが・・・・・

  
                                 仕事初め 解説者、赤星

先発の二神が、初回を三者凡退に仕留めると、その裏に、これも今季少し懸念されていたマートンが先頭打者ホームランが出て、この試合の主導権を早くとったことが、この試合が勝ち試合となった要因です。

このように、どの試合も、まず先制することが、試合を左右する大きな要素ということが、この試合が物語たったのではないでしょうか。

ということは、先発投手の出来不出来が、重要となってきます。

今季、先発の岩田が出遅れますが、この二神が、ローテーションに入ることが出来ることを願っています。

オープン戦といえども、かねがね云っている通り、勝ちにこだわって欲しいのです。
でも、今日の試合は、監督は何もせずとも、これだけ打撃陣が打てば、楽なものです。

  
   先発、好投したルーキーの二神   試合を決めた、3番、鳥谷の1号HR

3回の攻撃は、圧巻でした。
マートンが、1回のホームランに続いて、センター前に連続ヒットを放つと、平野が送りバンドしますが、これが失敗に終わります。 マートンの走塁のまずさが出たようです。
が、これに終わらなかったのが、3番鳥谷の2ランホームランが出たことが、この試合の勝敗を決定づけた一撃でした。

関本のタイムリー2ベース、狩野の2ランなどで6点を入れ、勝負を決めました。
4回には新井の犠牲フライ、5回には、桜井のソロ、7回には、林の後に入った浅井のタイムリー、8回にも平野の後に入った大和が、ホームランで加点し、結局11点という大量点を入れ、初戦としては上出来なのですが、なぜか、あまり出来すぎで跡が怖いというのが、正直な気持ちです。
今日の試合結果で、早合点しないように、自戒しなくては、あとでがっかりする憂き目にあいそうです・・・・・

先発二神は、4回を投げ被安打2、奪三振1、自責点1で、ルーキーとしては、合格点の出だしでした。
2番手はメッセンジャー、昨年のアッチソンの代わりが出来るかどうかが大きな課題です。 

  

今日の様子では、はっきりしませんが、そこそこやってくれるのではないかと期待しています。

3番手が白仁田が2イニング、江草、筒井がそれぞれ1イニングを無難なく投げ、この試合を見る限り、オープン戦といえども、これだけの内容が本物であるならと、祈らざるをえません。


緑が丘公園の梅

2010年02月24日 10時04分26秒 | 独り言・社会・ニュース

昨日 4月の気候だったそうです。
その陽気な暖かさに浮かれて、観梅としゃれました。

この辺りでは、緑が丘公園の梅が有名で、今年の最初の観梅をそこにしました。
期せずして昨年の同じ日は、大阪城に梅を見に行ったのですが、寒くて、梅もまだ2,3分咲きだったように記憶しています。

今年の緑が丘公園は、幸い今日は暖かく、一気に咲き始めたという感じで、全体的には5分咲きかなぁと思いますが・・・・
なにしろ、今年は寒暖の差が大きく、4,5日前は、年間平均気温にも達しなかったのですが、この暖かさでは、すぐに満開になることでしょう。

  

   

 

 <!-- 緑が丘公園の梅 -->


行き過ぎた鉄道ファン・・・・

2010年02月23日 19時26分59秒 | 鉄道のよもやま話

”ファン”と”オタク”は、どうも違うようです。
あくまで私見ですが、”オタク”は、趣味に傾倒するあまり、現実逃避して二次元の世界に入り、自己中心的に物事を考える個人を指すのではないでしょうか。 

先日、柏原市のJR関西線で鉄道ファンが、撮影のために線路内に立ち入り、ダイヤを乱し、警察に被害届を出した事件は、一般の鉄道ファンは非常に憤慨しています。
同じファンと呼ぶのは、恥ずかしい限りです。
この際、”オタク”と呼び、一般ファンと区分した方が良いようです。
こ妨害行為を個別に特定することはしないそうですが、最近のヒートアップにお灸を据えたということでしょう。

というのも、最近、特に特急などのラストランなどで、駅構内をカメラを持った鉄道ファン?が押し寄せる光景や、駅の端っこにカメラを持った人が群れをなしているのを見かけますと、いつか事故が起こるのではないかと危なっかしい気がします。

  お座敷列車”あすか”

この日、団体用の貸し切りお座敷列車「あすか」が走行するため、約50人の鉄道ファン?が撮影ポイントの同駅周辺に集まり、カメラを持ち線路内に立ち入っているのを走行中の快速電車の運転手が見つけ、運行を見合わせ、けが人はなかったのですが、上下線19本が運休し、最大39分の遅れを出し、約1万3000人に影響しました。

ここで、問題は、線路内に立ち入ったことです。
これは、列車営業妨害容疑列車往来危険容疑威力業務妨害容疑などで捜査されるようです。

しかし、その容疑者を個別に特定するのは困難としていますが、今後、同事件が発生した時の対策が、JRと警察で建てられる見通しです。

どちらにしても、業務に大きな支障が出たことは事実で、悪質であり、安全運行のため断固とした対策を講じて欲しいものです。

撮影好きの鉄道ファンの一つで「撮り鉄」と呼ばれ、最近は撮影マナーを巡ってあちこちでトラブルになるケースが増えているそうです。
行き過ぎた行為は、同じ趣味の人に迷惑をかけることを充分理解して欲しいものです。


阪急電鉄 3月10日に開業100周年・・・

2010年02月21日 09時29分14秒 | 鉄道のよもやま話

今年の3月10日に、阪急電鉄は、開業100年周年を迎えます。
阪急電鉄は、阪急阪神ホールディングの子会社で阪急阪神東宝グループに属します。
以外なのは、登記上の本社所在地は、大阪府池田市栄町にあり、現在の阪急電鉄の池田駅となっています。
阪急電鉄の歴史は、社名の変更が多く、それが阪急電鉄の歴史にになっています。

  
  100周年記念ロゴ と 宝塚線に記念電車ミュージアム号が・・・ 

1907年(明治40年)に箕面有馬電気軌道として設立され、1910年(明治43年)3月10日に、梅田、宝塚間と石橋、箕面間が開業したのが始まりです。

続いて1918年(大正7年)に阪神間の輸送に参入し、社名を阪神急行電鉄に改称されました。
これが、現在も「阪急」と呼ばれることになります。

戦時中の1943年(昭和18年)に京阪電気鉄道を合併し、社名も京阪神急行電鉄となりました。
が、戦後の1949年(昭和24年)に京阪線や石山坂本線が、京阪電気鉄道として再分離します。

かっての新京阪は、阪急に残存し、京都本線、千里山線、嵐山線となり、略称も「京阪神」から「阪急」に戻りました。
1959年(昭和34年)に、梅田ー十三間が3複線化され、京都本線のターミナルが天神橋駅(現在の天神橋6丁目駅)から梅田駅になりました。

1973年(昭和48年)に阪急電鉄株式会社に社名を変更。
その後、茶屋町地区の再開発事業の失敗し巨額の損失をだし、それに追い打ちをかけるように、阪神・淡路大震災、宝塚フアミリーランドの閉園、神戸ポートピアから事業撤退など、阪急の最大ピンチ時代が続きます。

そこには、長引く消費不況やJR西日本との激しい競合、少子化などの影響で輸送人員は減少しました。

          
        ミュージアム号の車内広告 すべて100年の歴史を綴っています。

それを打開する一環として、旧阪急電鉄から鉄道、不動産、レジヤー、流通の4事業を分割承継する新・阪急電鉄とホテル経営を統括する阪急マネジメント、旅行業の阪急交通社の直営事業会社2社の合わせて3社に再編し、旧阪急電鉄は持株会社阪急ホールディングス(現在の阪急阪神ホールディング)に移行しました。

少しややこしいですが、要は、阪急電鉄の事業を分割することによって、それぞれの経営自立を計ったようです。
どちらにしても沿線の人口減少、新規事業の欠如など、をどのように解消してゆくのか、これからの動向が注目されます。

ちなみに、合併し、同じホールディングの阪神電鉄は、なんば線の開通で輸送客が増えています。

これから、どこの鉄道も、新しい事業や沿線の活性化を図っていかなくてはならないようです。

 


今日は「氷雪融け”雨水”温む」ころです。 

2010年02月19日 15時54分54秒 | 今日は、何の日

雪から雨に変わり、雪が融け始めるころで、二十四節気で「雨水」と言われています。
歴便覧では、「陽気地上に発し、雪氷とけて雨水となればなり」とあります。

寒さも峠をこえ、衰退し始め、春一番が吹き、鶯の鳴き声が聞こえ始める地域もあります。
この頃、昔から農耕の準備を始める目安とされています。

昔から、農耕に基準をあわせ、1年を24等分して、その区切りに名前を付けたのが二十四節気です。
「雨水」もその二十四節気の一つで、季節を良く表した言葉として、今でも良く云われています。

  
              近所の梅は、今が見ごろです。        

もちろん、これは太陰暦で季節を表すための工夫として考え出されたもので、太陽歴での今日2010年2月19日は、太陰暦では2010年1月6日となります。
2月4日に旧正月を迎え、その日は、二十四節気の「立春」でした。

 

春の二十四節気は、
 2月4日の「立春」    2月19日の「雨水」   これを初春とし
 3月6日の「啓蟄」    3月21日の「春分」  これらを仲春といい
 4月5日の「清明」    4月20日の「穀雨」  これらを晩春といいます。

これらの二十四節気の日は、「節入り」といい、次の節入りまでの期間の”約”15日間を云います。
つまり、「雨水」は、今日から次の「啓蟄」までの期間をいいます。
この日は、冬至から数えて”約”60日目になります。
”約”というのは、年によって二十四節気の日付は、若干異なるからです。


鉄道ローレル賞とブルーリボン賞

2010年02月16日 12時07分00秒 | 鉄道のよもやま話

ローレル賞ブルーリボン賞について、2008年11月19日、当ブログで2008年受賞車両を紹介しました。
ローレル賞とブルーリボン賞は、鉄道友の会という全国規模の民間愛好団体が、毎年1回前年に新たに営業運転を開始した鉄道車両に贈られるものです。

ブルーリボン賞は、友の会会員による投票、ローレル賞は、性能、デザイン等卓越したものを選考委員が決めるものです。

ブルーリボン賞といえば、船舶で大西洋を最速で横断した船に与える賞もあるそうですが、一番有名なのが、1950年に制定された日本の映画に与えられる映画賞でしょう。

1958年に日本の鉄道車両に与えられるブルーリボン賞が創設されました。
第1回の受賞車両は、小田急電鉄の3000形でしたが、昨年52回2009年の受賞車両も小田急電鉄の60000形電車でした。

  
   
第1回 ブルーリボン賞受賞車両 小田急のロマンスカー
              第52回 受賞車両の小田急の60000形電車

1958年に制定されたブルーリボン賞は、会員が選ぶということから、華やかなものに流れる傾向にありました。
そこで、性能やデザイン性が卓越したもので、ブルーリボン賞に選ばれなかったものを選定対象としたものを選ぶのがローヤル賞として1961年に制定されました。

  
   
第49回 ローレル賞受賞の豊橋鉄道の「ほっトラム」
        京阪電鉄の3000系電車「コンフォート・サルーン」

第1回ローレル賞に選ばれたのは、阪急電鉄の2000系電車でした。
2009年の第49回受賞車両は、豊橋鉄道T1000形電車「ほっトラム」と京阪電気鉄道の3000系電車「コンフォート・サルーン」でした。

その阪急電鉄は、3月10日に開業100周年を迎えます。
その歴史について、後日書いてみたいと思います。


今季のトラ、前途多難か・・・・

2010年02月14日 09時44分40秒 | 野球・タイガース

昨日、沖縄のキャンプ先で、日本ハムとの対外試合である練習試合が行われました。
結果では、大敗しました(5対11)が、収穫も多々ありました。

大きな収穫は、先発のルーキー二神の好投です。
2回を投げて、1安打無失点に抑え、4番小谷野を見逃し三振に仕留めたのは、圧巻でした。
これだけで、ルーキーが1軍ローテに入る確証ではありませんが、今後のオープン戦が楽しみになったことは事実です。

   

そのルーキーに比べて、ベテラン?と言われる金村暁や杉山のふがいなさが際立ってしまったのは、残念です。
この時期に、云々するのは、まだ早計ですので、次のチャンスを生かしてほしいものです。

打者では、林、浅井、狩野の活躍が、大敗の中にあって光っていました。
この3人は、今季、レギュラーポジションがなく、このままでは代打要員となります。
ここで存在感をしめすことで、今季の活躍を期待したいものです。

  
    林 先制打                  狩野 2ラン  

特に右の代打として、狩野が期待され、林も浅井も足もあるので、それを生かすためにも、頑張って欲しいものです。

マートンもメッセンジャーも結果が出ませんでした。
外人は総じて、本番にならないと分からない場合が多いものです。
今日も練習試合がありますが、練習試合だからと言って、負けて良いものではありません。
内容も結果も残して、これらが、これからの長いシーズンの糧となるように、活発な試合展開を期待します。


大阪の地名と成り立ち ⑫ -黒門市場ー

2010年02月13日 12時18分23秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

黒門市場は、地名ではないのですが、大阪では、特に年末ともなれば、テレビや新聞紙上で大きく取り扱われますので、ほとんどの大阪の人は知っていると思われます。

が、大阪近郊の人は、存在は知っていても、どこにあるのか、案外知らないようです。
そこで、日本橋の近くと言えば、あっ、あそこらか・・・・となればいいのですが、その日本橋も影が薄くなっているのが現状のようです。

      

では、なぜ、この黒門市場が有名なのでしょうか?
また、その名前はどこからきているのでしょうか?

マスコミで取り上げられるということで有名であるのは、冒頭に述べた通りですが、最大の理由は、大阪の「食い倒れ」の最大拠点であるミナミを支えてきたのが、この市場だったからなのです。

つまり、ミナミの繁華街の胃袋は、黒門市場から仕入れた素材で満たされているのです。
今も、黒門市場の客層は、ミナミの人が約7割を占めているとか。

  

売れ残りの魚を安く売りさばいていたのが評判になり、盛り場として流行り出し、明治35年には、公設市場として認可されました。
当時は、「圓明寺市場」と呼ばれていました。
近くの日本橋二丁目にあった圓明寺という大きな寺にちなんで名付けられていたのですが、それよりもその寺の山門が黒塗りであったため、それが印象的で、次第に「黒門市場」と呼ばれるようになったそうです。

しかし、明治45年の難波の大火災で圓明寺も山門も焼失してしまいました。
写真も残されていないので、実体の程は不明です。
名前については、諸説があります。
「火事で門が黒こげになったから」とか「もともと黒門筋と呼ばれていたから」とか「町木戸が黒かったから」とか黒門を巡る異説も少なくないようです。

黒門市場には、150店舗以上が営業していますが、もっとも目につくのが「ふぐ専門店」です。
全国の水揚げ量の約6割が大阪で消費されています。
大阪では縁起を担いで、「ふぐ」を「ふく(福)」と呼び、毒に当たれば死ぬことから「鉄砲」ともいわれ、略して「てつ」ともいいます。
従って、鍋料理を「てっちり」、刺身を「てっさ」と呼ばれて、大阪では、冬の料理に欠かせないようです。

 


大阪の地名と成り立ち ⑪ -日本橋ー

2010年02月12日 10時43分52秒 | 変貌する街、過去・現在・未来

大阪の「日本橋」の読み方は、「にっぽんばし」ですが、東京のそれは「にほんばし」と読みます。

読み方にも、それぞれの背景があります。
東京の場合は、もともと「二本の橋」であったそうで、それが次第に「日本橋(にほんばし)」と呼ぶようになったそうです。

大阪は、初めから「日本一」を意識して呼ばれ、最初に架けられたのが、豊臣時代であり、秀吉の意向が多分にあったようです。

  
   地下鉄千日前線 ”日本橋駅”の液晶表示板     
日本橋界隈

もっとも、最近でも日本橋1丁目を「日本一」と呼んでおり、大阪人の「日本橋」の思いは強いのですが・・・・
その割には、今は少々分かりにくいところにあります。
というのも、道頓堀川沿いの繁華街が途切れるところにあるため、日本橋を目当てに訪れことは、あまりないようです。

それよりも、近くにある古本書店街や電気街、それに黒門市場の方が有名になっています。 黒門市場については、後日書きます。

江戸の日本橋は、東海道の起点であり、大阪の日本橋は、熊野へ向かう紀州街道のスタート地点となっており、どちらも、江戸時代は「公儀橋(幕府が管理する)」であったことからも、重要性が分かります。

しかし、当時の日本橋の南詰めは、重罪人の罪状を書いた高札場があり、橋の上で罪人がさらしものにされたようです。
近くの千日前には、刑場や墓所があったのですが、明治4年に廃止され、跡地が盛り場として賑わうと、日本橋界隈はますます栄えてきました。

得てして、昔、刑場とか墓場であった所が、廃止されると盛り場になるのが、多いようです。