昨年からの続きです。
大阪一帯が「なにわ」と呼ばれたのは、以前に「難波宮」のことで書きましたので、大体のことは、読んで頂ければ、お分かりのことと思います。
では、その「なにわ」がいつから、なぜ「大坂」になったのでしょうか?
おおよそ、「大阪城」を築いた秀吉が、この城を「難波城」ではなく「大坂城」と名付けたのかが、キーワードとなるのではないでしょうか?
この時の「大坂城」は「阪」ではなく「坂」でした。
しかし、それより以前の明応5年(1496年)に、浄土真宗の中興の祖と呼ばれる「蓮如」が文に「大坂という所在は、住吉より・・・・」と書かれ、蓮如がこの年に建立したのが石山本願寺となり、浄土真宗の本山となりました。
この石山本願寺が勢力を増大するに従い、小さな範囲でしかなかった「大坂」が、広域範囲を「難波」に代わって「大坂」が一般に取って代わっていったものと思われています。
昨年2月23日撮影 ”大阪城”
「大坂」の地名の起こりについては、上町台地の坂を意味していた「大江の坂」と呼ばれていたことに由来されるという説や書物によっては「小坂」とか「尾坂」とか書かれ「おさか」と読まれていたこともあったのですが、「大坂」の地名に「大きな坂」の意味はないのではないのでしょうか?
織田信長と10年以上もの戦い続けた石山本願寺は、天正8年(1580年)に敗北して焼失しました。
2年後に信長は本能寺で亡くなりましたが、「大坂」の地勢を絶賛していた信長の意思を継いで、秀吉は石山本願寺跡地に城を築き、ここを「大坂城」と命名することで、主君信長に抗い続けた本願寺勢力を完全に制圧したことを広く世に知らしめる意味もあったようです。
ここに「なにわ」が「大坂」に完全に移行したのです。
(この内容は、主にベスト新書、若一光司氏著の「大阪地名の由来を歩く」を参照しました。)