徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

京都ぶらり 御所と本能寺と南禅寺

2006年11月30日 09時54分33秒 | 旅行・観光

革堂を北に上るとすぐに、御所御苑の南東の端に着きます。
ここ富小路口から、御苑に入ると、今までの街の喧騒が嘘のように静まり返り、広々とした公園が見渡せます。

  
   京都御苑                 閑院宮邸

御所の内裏には、入ったことがありましたが、この御苑の散策はしたことがありませんでした。 
ここから、北の方向には、仙洞御所があり、その奥には迎賓館があり、その左隣に御所があります。
広い道路の両端には、木々が立ち並び、時々紅葉が覗いています。
御苑の南側を西に歩いて、堺町御門を過ぎると九条邸跡の庭園に出ます。
ここにも、もみじが、池に映して、存在感を示していました。

  九条邸、庭園

まだ、西に進むと、新しく建替えた閑院宮邸に出ます。
ここは、無料開放され、署名して邸内を見ることが出来ます。
この御苑一体は、公家屋敷があったところですが、全部壊され、ここだけが当時の公家屋敷を見ることが出来ます。
あまり広すぎて御苑を全て見ることが出来ず、このまま御苑を跡にしました。

  本能寺

ここから、市役所前にある本能寺を訪れました。
以前、訪れたとき(30年も前かも)と様変わりしていたのには驚きました。
四方をビルに囲まれ、本能寺の本堂も、信長の墓地も何か、寂しそうです。
もみじなどはなく、何か時代に取り残された感が否めません。

京都ぶらりは、西国三十三ヶ所巡り以外は、計画を立てずに行き当たりばったりにきましたが、ここまで来て、もっと紅葉が見たくなり、南禅寺に行く事に急遽、思い立ちました。

  
  南禅寺                  疎水

ここは、京都の名刹の一つだけあって、もみじも素晴らしかったのですが、それ以上に人出が多く、やっと京都の観光地という雰囲気が伝わります。
修学旅行やツアー客、アベックに家族ずれ、多くの観光バスと、今日の今まで回ってきたところは、人も疎らで、寂しい感じがしていたのですが、一度に賑やかになり、その違和感が、戸惑いになってきました。

   

同じ京都でも、場所により、その風情がことなり、またシーズンによっては、大いに異なることでしょう。 近くにいても、まだまだ京都の街は、知らないところが多く、いずれまた、訪れたいと思っています。


六角堂と革堂

2006年11月29日 09時04分26秒 | 西国三十三ヶ所巡礼の旅

昨日は、久しぶりに西国三十三ヶ所めぐりをしてきました。
本来の目的は、紅葉ですが、西国三十三ヶ所と御所、本能寺、南禅寺と、京都一日乗車券で回ってきました。

まず、西国三十三ヶ所の第18番目の札所、紫雲山頂法寺、六角堂にお参りしました。

   後ろのビルは、池坊会館

周りがビルに囲まれ、京都の寺という風情はありません。
お寺のご本尊への供花が我が国の華道の始まりとされ、「華道家元 池坊」のビルが立ち並んで、折角のお寺が二の次にされているようです。

  革堂境内に僅かに紅葉が・・・

次に、第19番目の札所である、霊ゆう山 行願寺、革堂に行きました。
丁度、御所の南東の端にあり、六角堂から徒歩で30分は掛かりました。
当寺の開祖の行円上人は、出家する前は、九州地方の狩人だそうです。
ある日、雌鹿を射止めたところ、お腹に生きた子鹿がいているのを知り、殺生の恐ろしさを悔いて出家したとされています。
自分を戒めるために、その鹿皮を身につけ、京の町を歩いたところから、革聖人と呼ばれ、上人が建立した寺を革堂と呼ぶようになったと言い伝えられています。

どちらのお寺も紅葉は少なく、次の目的地の御所に期待したのですが・・・・・


日本にも”ポンペイ”があった???

2006年11月27日 15時55分55秒 | イタリア旅行記

先月のイタリア旅行で印象に残ったものの一つに”ポンペイ”遺跡があります。
時は、AD79年、ローマ帝国の時代、ナポリの近郊のベェスビオ火山が突然噴火し、大量の火山灰を撒き散らし、ポンペイに積もった火山灰は高さ14mに達したと言われています。
街は発掘される18世紀半ばまで、キリスト教が生まれる前から、静かに眠り続けました。

  

ポンペイは、紀元前8世紀にイタリアの先住民族によって造られた街で、当時はローマの貴族の保養地として賑わっており、1万数千人の人々がいたとされています。

余談ですが、1880年、ベェスビオ火山の登山電車の会社は、客寄せに「フニクリ・フニクラ」(登山電車という意味)という歌を作り、当時は世界的に大ヒットしました。

ところで、日本にも「日本のポンペイ」と呼ばれているところが、木曾の奥地にあります。
「帰雲城(かえりくもじょう」跡がそうです。

  

天正13年(1585年)11月29日に、マグネチュード8クラス直下型地震が発生し、山が崩壊して、その土砂が城下町まるごと飲み込み数千人が生き埋めになったとされています。
このため、当時の文献などがなく、その場所さえはっきりしていません。
この天正の大地震の前の近郊の町の地図から、ほぼこの辺りといわれているところに「帰雲城址」の碑が立っています。

この地が、有名になったのは、この辺りに金鉱があり、帰雲城主の内ケ島氏が楠木正成の子孫であり、かなり金塊を貯め込んでいるとの噂が立ったことです。

当時の文献やはっきりした地図もない状態で、未だ城跡らしきものも見つかっていないのに、噂だけが一人歩きしています。


コスモスの種摘み

2006年11月26日 12時03分44秒 | 独り言・社会・ニュース

今年も満開のコスモスを咲かせた武庫川の河川敷で、昨日そのコスモスの種摘みが行われました。

毎年、恒例となり、連日、家族連れや幼稚園、保育園の遠足などで沢山の人が訪れました。
今年は、臨時駐車場が設置され、期間中は3000台以上の利用があったそうです。
また、移動トイレも設置されました。

今日、摘み摘み取ったコスモスの種を、来年も蒔いて沢山のコスモスを咲かすことでしょう。

種を摘み取る前に、まだ僅かに残っている花を摘み、並べてみました。
コスモスのじゅうたんが出来ました。

  


新東京タワー

2006年11月25日 09時23分21秒 | 独り言・社会・ニュース

東京タワーというと、昭和30年代の東京のシンボルであり、関西人にして、憧れとジェラシーでもありました。
東京タワーという映画や小説でも、一種の心のより所であった時代を描いています。

その東京タワーも今の時勢に合わず、新しく「新東京タワー」の構想が発表され、2011年には、竣工するというこです。

     新東京タワーの構成図
             断面の下方は三角形で、上に行くほど丸くなります。

関西では、あまり話題に昇らなかったのですが、昨年から候補地の誘致合戦が盛んに行われて、第1候補に「墨田台東エリア」、第2候補に「さいたま新都心」が上げられていましたが、今年の3月31日に「墨田台東エリア」に決まっていたそうです。

その「新東京タワー」のデザインが昨日、発表されました。
それに寄りますと、建設予定地は、墨田区押上1丁目(東武伊勢崎線業平橋駅前)の6.4haの用地に、高さ610mとなり、これは電波塔としては世界一になるそうです。(川を隔てて浅草寺があります)
今まではカナダのトロントにあるCNタワーの553mを抜くというものです。

なぜ、このように高い電波塔が必要になったのでしょうか?
2011年7月に、現在のアナログテレビ放送を終了し、地上デジタル放送への切り替えるの合わせて完成させるもので、携帯電話などの移動体向けサービスである「ワンセグ」放送を受信可能なエリアを増やすために、ビル陰を小さくするため等と説明されています。

今の東京タワーの高さ333mでは、不十分と言うことです。
新タワー建設には、東武鉄道が100%出資の子会社「新東京タワー株式会社」を設立し、放送業者が賃貸料を払い、この賃貸料収入と観光客の入場料収入で経営を行います。

ちなみに、現在の東京タワーの年間入場者数は270万人で、これと同程度の入場者数を見込み30年でペイ出来ると試算しています。

 


アラスカの値段は・・・・・

2006年11月24日 09時12分01秒 | 独り言・社会・ニュース

「19世紀末は、列強の陰謀と戦争の舞台でした。
陰謀だけが、他国に対する意志であり、侵略だけが国家の欲望であった。」

以上は、司馬遼太郎著の「坂の上の雲」の一説です。
以下もこの「坂の上の雲」から一部引用します。

「19世紀の国家と言うのは、その国家的生理として膨張を欲する。
アメリカといえども国家である以上、その生理的欲求は内在していた。」

この書き出しは、当時アメリカにおいて、ヨーロッパ風の帝国主義は、この国家の風土に逢わず、国内も未開の地が多くあり、それをアメリカ化してゆくことで、精一杯であり、外交的にも孤立主義をとっていました。

しかし、アメリカに、その帝国主義の国土への野心に火をつけたのが、1867年のロシアからの「アラスカを買わないか」という持ちかけからであったとされています。
かって、ロシアは、その膨張政策によってシベリアを始め東への領土拡大を図ってきて、アラスカにも侵略して、それを領土していました。
しかし、その後経営にこまり、アメリカに交渉してきたのです。

 

アメリカは、それを、わずか720万ドルで買ったのです。
その後アメリカは、ラテン・アメリカにも関心を示す一方太平洋に「落ちている」島々に目を向け、アラスカ買収と同じ年に、ミッドウエー島に星条旗を立て、簡単に手にいれました。翌年には、南太平洋のサモア諸島の酋長をだまして、海軍基地を作り、さらにハワイも、ハワイの女王を退位させ、アメリカに編入させました。

その後はフイリッピンをも手に入れ、アジアへの関心を強めていったとされています。 今では、考えられないようなことが、平然と行われ、国土拡張政策の競争は、第2次世界大戦まで続きました。

それにしても、アラスカの広大な土地の売買は、余りにも巨大化してゆく、帝国主義への警鐘とはならず、ロシアの南下政策をより強引に進めていくことになり、日露戦争への道に進んで行きました。

 


実感なき最長景気?

2006年11月23日 10時10分49秒 | 独り言・社会・ニュース

いざなぎ景気の4年9ヶ月(1965年11月~1970年7月)を越え4年10ヶ月の景気拡大だそうですが、一般庶民には、その実感がありません。

それもそのはず、いざなぎ景気に比べると完全失業率は1.0%から4~5.5%と悪くなり、賃金も2倍からー1.6%の大幅な差が生じています。
一番の目安は、個人消費とGDP(国内総生産)の伸びにありますが、いずれも低迷しており、景気のバロメーター、指針が今までと違っています。

つまり、数字だけの景気拡大であり、実際に恩恵を受けるであろう一般庶民には、そのかけらもないのが、実情のようです。

 
   
今日の絵は、イタリア・フレンツエ、ベッキオ橋 F10号

国内総生産(GDP)とは、1国の経済の規模を測るもっとも基本的な指標の一つで、国の国内で生産された物やサービスと言った付加価値の合計額です。

この伸び率がプラスになって続いているのが、景気が拡大していると言っているのですが、現在の景気拡大期の平均の伸び率は、実質で2.4%、名目では1.0%と低い水準での推移であって、いざなぎ景気の時は、実質11.5%、名目18.4%とは大きな差があります。

日本のGDPの総額は、4兆6234億ドルで世界で2位です。(2004年現在)
1位はアメリカの11兆6675億ドル、3位はドイツの2兆7144億ドル、4位イギリス、5位フランス、6位イタリア、7位中国で1兆6493億ドル、8位スペイン、9位カナダ、10位がインドの6919億ドルとなっています。

しかし、一人当たりに換算すると、1位はルクセンブルグで6万9207ドル、2位はノルウエーの5万4598ドル、3位がスイスの4万8698ドルで、総額1位のアメリカは7位で日本は9位となっています。

総額だけを見ると、2040年には、中国がアメリカを抜き1位に、インドが3位となりますが、伸び率の鈍い日本は、2004年当時のGDPと余り変わらず、ブラジルには2050年には抜かれると将来の推移を予想されています。

つまり、日本の景気は、今のままでは、総額も伸びず、景気も飛びぬけて良くなることはないようです。


「日本海」の呼称が・・・・

2006年11月22日 13時11分44秒 | 旅行・観光

日本は海に囲まれた国であることは、誰でもご存知です。
西に日本海、南にはフイリッピン海、東に太平洋、北にはオホーツク海があります。

では、日本でなにげなく使われている「日本海」の呼び方は、万国共通なのでしょうか?
世界地図を見ると、日本語表記のものは、当然「日本海」、英語表記の地図には「The Sea of Japan」と書かれています。
つまり、「日本海」は、世界に通用する公称となっています。

しかし、これに異を唱える国があります。
お隣の韓国と北朝鮮です。
両国の意見は、国連の地名標準化で、足並を揃えて、「日本と朝鮮半島の間にある海を一方的に日本海というのは、おかしい」「日本海という呼称は、日本の植民地支配のせいで普及した」と主張しています。

 
   1815年に発行されたイギリスの地図(sea of japanと書かれています)

しかし、韓国が主張している新しい呼称は「東海」だそうです。
つまり、自分の国の東にあるからと言っています。

北朝鮮の案は、「朝鮮東海」です。
たしかに日本海という呼称も一方的かも知れませんが、両国の主張も自国中心であることに変わりがありません。

この問題に対して日本政府は「日本海は世界的に通用する公称であり、新たに名前を変更するのは混乱をもたらすだけだ」と応じています。
しかし、両国に配慮して「環日本海水産国際会議」の名称を「北東アジア地域水産国際会議」に変えたりしています。
このように、自説を変えて配慮することが、今後の既成事実とされかねないと思いますが・・・・・

ちなみに、「東シナ海」も世界共通の呼称ですが、中国では「東海」と呼んでいます。
益々、各国の教育上においても、混乱しかねないのではないでしょうか?

 


"江戸っ子”は自慢にならない

2006年11月21日 09時57分30秒 | 江戸時代とは・・・・・

”江戸っ子”という言葉は寛政年間(1789~1801)あたりから言われだしたそうです。
それ以前は、「江戸者」などと呼ばれ、よそ者からはあまり良いようには言われていなかったようです。

威勢のいい方の江戸っ子とは、大分ニュアンスが違います。
威勢の良い江戸っ子が流行りだしたのが少し後の文化年間(1804~1818)あたりからで、「江戸っ子だい」というのは「金はないが威勢はいいぞ」という意味になったようです。

 
   神田明神は、平の将門を祀っています。

江戸っ子とは、どういう連中かと言うと、幾つかの枠があり、厳密に言うとそのいずれにも該当するのが「真の江戸っ子」ということになります。

1、山王権現、神田明神両社の氏子であること。
2、古町(筋違御門から芝口までの城下町)の生まれであること。
3、親子三代続いて下町に生まれ住んだ者。
4、職人であること。商人は江戸っ子とは言わない。
5、日雇いであること。 宵越の銭は持ちたくても持てない者。

要するに、江戸っ子というのは自慢する程の存在ではなく、反対に江戸っ子と呼ばれるのを大変嫌がったことです。
粗忽で乱暴で物事のわきまえが足りなく、教養もなく、そのくせやたらと粋がって通人ぶり、人を馬鹿にして大きなことを言うのが、江戸っ子でした。

江戸時代では、これが通用し、江戸の庶民の生活に密着しておりました。
しかし、これが明治から今日に至るまで「真の江戸っ子」はいなくなりましたが、心意気をも残っていなくなったのは、残念なことです。

大阪では、浪速っ子とは呼ばれませんが、世間では、「がめつい」とか「せっかち」とか呼ばれています。 とかく関西と関東とは比較されますが、これが今あるのは、江戸時代から人々の生活に根を下ろしたものが、延々と続いているのです。