徒然なるまま”僕の趣味と遊ぶ”

タイガース、水彩画、鉄道などの、僕の気ままな”独り言”

江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑩ -キタとミナミー

2014年01月17日 09時08分33秒 | 江戸時代とは・・・・・

前回、大坂三郷は、江戸時代の大坂城下における3つの総称で、北組、南組、天満組から成っていると書きました。

大坂の町は本町通りを境に北組と南組に分けられその後北組から大川右岸が天満組として分離し、これが大坂三郷の町組として、町人町の行政組織が確立しました。


大阪市によると、現在は、公式文書等で使われてはいるのですが、定義はあいまいで「繁華街として大まかな場所を指す程度」とのことです。

しかし、語源は、江戸時代に遡り、当時、住居や商店が集まる中心街は船場でした。
当時のキタは、森や畑が広がる村でミナミは、寺や墓場等が目立つ土地だったと言われています。

  

江戸幕府によって、町づくりのために人為的に作られた地域というのが通説となっています。
ミナミの発祥は、芝居小屋が幕府の許可を得て道頓堀に置かれ、茶屋などが周辺に出来て繁華街らしくなったようです。
ミナミは、南地と呼ばれ、元は宗右衛門町あたりが中心で、現在のアメリカ村は含まれませんでした。

  
   ミナミ 戎橋あたり                    キタ新地の夜景          


キタは、中之島の蔵屋敷で米取引をした後、商人の接待する町として作られたのが「キタの新地」として栄えました。
キタも町の発展と共に、梅田や大阪駅を含むようになりました。

では、ヒガシやニシはどうでしょうか?
船場を起点とすると、ヒガシは大阪城があり、ニシは大阪湾で、繁華街などの生まれる余地はなかったといわれています。

では、なぜカタカナ表示となったのでしょうか?
明治時代の新聞や雑誌で「きた」「みなみ」とルビが振られ、後にひらがなだけであらわされるようになり、さらにカタカナに転じたと見られるようです。


江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑨ -町民の街 -

2014年01月13日 09時56分44秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代の大坂を治めていたのは、武士ではなく、町民の自治組織だったようです

普通、武士階級は全体の7%ぐらいと言われていますが、大坂の町には、それ以下だったと言われています。
幕府直轄と言っても、大阪城には、何年間で代わる城代がいますが、権限はほとんどなく、城勤めの武士も少なく、蔵屋敷があるため各藩に務めている武士がいる位だったのではないでしょうか?

その他に大坂町奉行所を、江戸幕府の遠国奉行の一つとして大坂に設置されています。
東西の奉行所が設置され、江戸町奉行と同様に東西1ヶ月ごとの月番制。
老中支配下で大坂三郷及び摂津、河内国の支配を目的とされました。

        

大坂三郷の街の行政を担当したのが、町人の中から選ばれた三郷総年寄とその下に属する町役人であった。
そうなると、町を治めるのは、必然的に町人が権力を持って来ます。

大坂三郷とは、大阪城下における北組、南組、天満組の3組からなっている町組の総称で、現代のキタ、ミナミと呼ばれているのは、ここから出たと思われます。

       

大坂は全国各地から集まる商品の最も重要な積み替え地でした。
また、巨大な米蔵があり、全国から米が集まり、大名たちは、米を金に換えました。
その管理、維持を大坂商人が行い、彼らには地域を超えた米取引に対する特別の認可が与えられていました。

米の他にも海産物、野菜、果物、大豆、乾物、油、塩、藁、紙に至るまで、その価格は大坂で決められたそうです。
その価格が、全国の標準価格となり、江戸時代の大名の財政を左右しました。
大坂の商業資本は、無担保の「大名貸し」で多額の利益を得ていました。

 


江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑧ -町人文化ー

2013年12月28日 18時54分41秒 | 江戸時代とは・・・・・

江戸時代、大坂の豪商たちは、財力を蓄え、生活を楽しもうという気風が表れ、その財力をもって学問や文化がさかんになっていました。

その中でも、町人の生活や気持ちを表した井原西鶴の浮世草紙近松門左衛門の浄瑠璃がもてはやされました。

  尼崎市のHPから・・・
  http://www.city.amagasaki.hyogo.jp/chikamatu/055monzaemon.html

  左は、尼崎にある近松門左衛門の像
  近松門左衛門の墓は、尼崎の他、大坂にもあります。                      

 

歌舞伎・浄瑠璃・落語といった芸能は、最初は京都が盛んでしたが、しだいに大阪が中心になってきました。

それ以外にも、大坂で生まれた町人文化は数多くあります。
上田秋成の万葉集を研究した「雨月物語」、天文学の間 重富(はざま しげとみ)、「万葉代匠記」を書いた契 冲、などの町人学者を生み、町人学校も盛んに生まれました。

中井甃庵の「懐徳堂」、土橋友直らによって開かれた「含翠堂」など・・・・
江戸の末期には、緒方洪庵が「適塾」を開き、オランダの医学や学問を教えました。
適塾は、今も保存されており、学んだ人の中には、大村益次郎、福沢諭吉もいました。


 大阪大学の適塾のHPから・・・
 http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/about/tekijuku

   今も現存する適塾  
 尚、今は、耐震補修工事中で休館中です。大阪大学の前身で今も大学が管理しています。                   


江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑦ -八百八橋ー

2013年12月26日 12時31分59秒 | 江戸時代とは・・・・・

「江戸は、八百八町」、「京都は、八百八寺」 そして「大坂は、八百八橋」と言われています。
この八百・・・と言うのは、数の多さを比喩的に示す言葉で、仏教用語でもあります。
「〇〇三千」と言う如く、「嘘八百」とか「八百万の神」とか「八百屋」などと言われています。

つまり、八百・・・は、正確な数字ではなく、要は多くありますと言うことです。

 
   
 中之島に架かる橋             

 

江戸の町数は、18世紀半ばでは、1680町程あったようです。
実際の数が、比喩的な数字より多いと言うのは、なかなか珍しいことだそうです。

では、大坂の橋の実際の数は、どのくらいだったのでしょうか?
確かな事は不明ですが、ほぼ200程あったと言われています。

  
   明治5年頃の中之島東部                 明治初年に架けられた難波橋    


しかし、江戸も大坂に劣らず川や堀が多くあり、江戸には約350程あったそうです。
江戸の方が多いのに、大坂はなぜか、「八百八橋」と言われています。

 
 
  昭和初期 1930年代の難波橋界隈     難波橋は、別名ライオン橋とも云われている
 現在の橋は、1975年(昭和50年)に大阪市によって大改修されました。           



これには、江戸に対抗する大坂の意地があったようです。
つまり、江戸の橋は、半分が「公儀橋」と呼ばれ、幕府が架けた橋ですが、大坂の「公儀橋」は、天神橋、高麗橋、難波橋など12橋しかなく、その他は全て、大坂の町人たちが生活や商売のために架けた橋なのです

それだけに、大坂の人々は、生活に密着してきた橋に愛着があり、、橋を大事にしてきました。
それ故、江戸よりは少なくとも、自分らで架けた橋を 「浪速八百八橋」と言って誇示してきたのです。


江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑥ -天下の台所ー

2013年12月23日 10時39分06秒 | 江戸時代とは・・・・・

なぜ、大坂が「天下の台所」と呼ばれるようになったのでしょうか?

江戸時代の大阪は、北組、南組、天満組の三郷に分けられ「大阪三郷」と言われていました。
この三郷を取り締まっていたのが、大阪町奉行でした。

しかし、実際に町政の実務をしていたのは、三郷の町人のなかから選ばれた「惣年寄」とその配下の「町年寄」たちでした。

大名たちは、税として農民から米を取り立てていましたが、多くの大名が中之島などに蔵屋敷を置き、米や地方の物産を運び込みお金に換えていました。

   
  黒田藩蔵屋敷長屋門 現在は天王寺公園内にある大阪市立美術館の南門。

 

江戸時代の大阪の役割は、江戸の消費地に対して、消費物質を供給することでした。
古くから各地の物質が集積していた大阪には、運輸機能、市場機能など流通拠点としての要素が備わっていました。

      
        1806年頃の中之島と堂島にある各藩の蔵屋敷           

大阪には、三つの大きな市場がありました。
堂島の米市場、天満の青物市場、雑喉場の魚市場です。
中でも重要なのが堂島の米市場で、ここで取引された米の価格が、全国の米価の基準になったからです。

 

            
    高松藩蔵屋敷跡                       薩摩藩蔵屋敷跡    
    現在の中之島リーガルロイヤルホテルの前庭    現在の土佐堀2丁目三井倉庫前

これらの事から、大阪が江戸に物資を供給する「天下の台所」と言われた所以だそうです。

江戸時代の文献には、大坂を「諸国之台所」「日本の賄い所」という記述は存在していたのですが、「天下之台所」と直接の記述したものはありません。
が、大正時代に「大阪市史」の中で用いたのが、一般に広まり、あたかも江戸時代から言われていたかのように誤解されていたのでは、と言われています。


江戸時代の庶民の生活 上方編 ⑤ ー水の都ー

2013年12月21日 13時29分15秒 | 江戸時代とは・・・・・

平安時代以降、難波津がすたれ、大阪は政治の中心から離れますが、戦いの舞台として登場します。
水上、陸上の交通が集まった所であり、源平の合戦や南北朝の内乱、さらには戦国時代にも戦いの舞台として脚光を浴びます。

1496年(明応5年)、本願寺8世 蓮如が「摂州東成郡生玉之庄内大坂」に寺院を建て、その境内には商人などが住む「寺内町」がつくられました。
いわゆる「石山本願寺」で、これが、大坂の町の誕生と言われています。

 

 
  
「石山本願寺」の想像図                   石山本願寺 推定地にある碑


 

今の大阪城は、この「寺内町」あたりにあったのですが、本願寺と織田信長との戦いで消滅しました。
その後、ここに豊臣秀吉が大阪城を建て、新たに新しい城下町が建設されました。

現在大阪の町になっているところは、上町台地などを別にすれば、戦国時代頃までは、低湿地だったところがほとんどです
秀吉は、そこに東横堀川・西横堀川・天満堀川などの水路を掘らせ、水はけを良くし、掘り上げた土で周囲を土盛りして低湿地を人が住めるようにしました

 

江戸時代になると、西の湿地のほうにも沢山の堀川が掘られました。
その堀川は、水路としてたくさんの船が行き来し全国からの物資を運び、堀川は今の道路の役目をして、これが水の都と言われる所以です。

その水路を利用して、北海道や江戸と畿内を結ぶ北前船や樽廻船だけでなく、京都や奈良へは淀川や大和川を伏見舟や三十石舟が行き交い、大阪は経済都市として、水の都として活況を呈しました。

そして、この水の都が、「天下の台所」と言われることになります。
それについては、後日に・・・・

 

 


江戸時代の庶民の生活 上方編 ④ -商に三法ありー

2013年12月03日 12時27分42秒 | 江戸時代とは・・・・・

大坂人気質を象徴する言葉に「始末」と言うのがあります。
江戸では「宵越しの銭は持たない」ということに表せるように、金離れの良さが江戸っ子気質と言われていました。

「 始末 」 とは、「始=収入」 「末=支出」 でツジツマを合わせるという意味で、無駄な金を使わないという精神を表しています。

この「始末」と「算用」、「商才」を合わせて、大坂商人は、「商に三法あり」と言い現わしています。

「 算用 」 とは、何事もソロバン勘定を働かせることと言うことで、如何なる商売も損をするなということですが、同時に目先の利益に惑わされるなという戒めでもあるようです。

「 商才 」 とは、商売の機を逃がすなということでしょうか。
商売とは、多くの商売かたきを相手にして勝ち残っていかなくてはなりません。いわゆる商機をとらまえる才覚が必要ということです。

商機を捉え、一気に勝負するためには、丁稚からたたき上げて、長い目で損得勘定を計る度量が必要ということだそうです。

江戸の「宵越しの銭を持たない」というのは、商人というより職人としての心構えであり、のれんを懸けて物堅い損得勘定を言ったとも云われています。

      
       今年1月に、お参りした伊勢神宮の宇治橋を描きました。  水彩画 F6号 


江戸時代の庶民の生活 上方編 ③ -火事は・・・-

2013年12月01日 19時25分23秒 | 江戸時代とは・・・・・

今まで、江戸時代について話をするときは、多くは江戸の町での話であって、江戸以外の土地での話はあまりなかったようです。

上方の話をするには、どうしても江戸との比較の話になります。
火事は江戸の華とも云われていますが、それでは上方では火事は少なかったのでしょうか?

上方、特に大坂は、江戸に比べて人家の密集はなく、大火の頻度もさほど高くなかったようです。
大火事が少なかった理由の一つに、屋根を「本瓦葺」にしたこと、反対に少なかったから「本瓦葺」にしたとも言えるのだそうです。

また、江戸の安普請に対して、堅固な家を建てるのが大坂の通例だったのも、上記の理由と同じです。
その中でも、堺商人は、堅固な上に絢爛豪華だったようです。

もともと、国際商業都市として潤って財政が豊かで、儲けた金を、家を建てることに費やすことが、堺商人の贅沢だったのです。

このような成金的な豪華な建物を「堺普請」と言われ、疎まれました。
それに対して京都では、「勘略葺」にするのが一般的で、やがて「京普請」といわれ、広がりました。

 本瓦とは、平瓦を並べて 縦にできた継ぎ目に
丸瓦を並べる屋根の葺き方を言います。                                     



江戸に火事が多い理由は、江戸の人口の6割を占めている町人が、江戸の土地の16%にひしめき、又その7割が「裏店住まい」だったのです。

そのため、江戸では、一たん火事が起こると、広範囲に及びました。
それも当時の長屋は、屋根が藁(わら)や茅(かや)で非常に燃えやすく、それは幕府が、瓦は贅沢であると見なしていたことも影響しています。

安普請の理由は、どうせ10年ぐらい経てばまた火事が起こるだろうという考えが家主にあったとも云われています。

文字通り、「火事と喧嘩は、江戸の華」だったようです。

 


江戸時代の庶民の生活 上方編 ② -食い倒れー

2013年11月18日 19時57分19秒 | 江戸時代とは・・・・・

今まで、江戸時代の庶民の生活として書いてきた庶民とは、江戸に住む庶民が対象でした。
このシリーズでは、上方に住む庶民の生活について書いてゆきます。

江戸が武士の町であったのに対して、上方は庶民の町といえます。

そこには、「天下の台所」とも云われた大阪(そのころは大坂ですが、このシリーズでは大阪と記載します)には商才たけた商人や今も残る文学をつくり上げた文化人、そして京都には天皇を中心とする独自の文化が育っていました。

「今日の着倒れ、大阪の食い倒れ、神戸の履き倒れ」と言われていますが、これは何時ごろから言われたのでしょうか?

神戸の町が世に広まったのは、幕末以降であり、江戸時代には神戸と言う町は認識されていませんでした。
と言うことは、神戸を含めてのこれらの言葉は、少なくとも明治以降に言われたようです。
では、神戸の・・・以外は、何時から言われたのでしょうか?

江戸時代の書物(1856年)には 「諺に京の着倒れ、江戸の食い倒れといふ如く、浪花の地も京師(京都)と同様に衣服をば殊に貯ふる風俗なり」 とあり、これによれば、食い倒れの町は江戸で、大阪は、京都と同様着倒れだと言っています。

その着倒れも、京都と大阪では、様子が違うようです。
京都は、西陣織に代表されるように豪華さが売りですが、大阪の着倒れとは「金々めかす」と言われていたようです
江戸の町で「金々めかす」というのは、垢ぬけした粋(いき)と言われるのに対して、大阪での「金々めかす」とは、キラキラとした着こなしを言ったようです。

インドの綿の縞織物とか羅紗(オランダや中国からの輸入品)などの高級品が出回っていたとか・・・

又、江戸後期には、下記の戯文が描かれているものもあります。

      

「京の着倒れ、大坂の喰い倒れ、江戸の呑み倒れ」と書かれています。
と言うことは、江戸の後期には、大坂の食い倒れということも言われており、神戸の履き倒れ以外は、
江戸時代の後期には、云われていたようです。


江戸時代の上方 庶民の生活とは・・・①

2013年11月16日 19時32分35秒 | 江戸時代とは・・・・・

なぜ、関西特に大阪を 上方 と言うのでしょうか?
上方漫才、上方歌舞伎など、関東に比べて関西方面のものをわざわざ「上方」と称しています。
でも、もっと広範囲に 上方 とも言っていますが・・・・本当のところはどうなのでしょうか?

これは、当然のことながら、関東と違うところがあるからこそ、上方を強調しているのです。
では、その関東とどのように違うのか、なぜ違うのかを、このシリーズで考えて見たいと思います。

では、何時から上方と言われるようになったのでしょうか?

通説では、鎌倉時代の狂言の中に、
「上方を見学致さぬによって、この旅 都へ上りここかしこ見学致し・・云々」
とあり、ここに出てくる「上方」が日本で、初めて使われたと言われています。

鎌倉に武士政権が成立したことによって、日本は、天皇の治める西武士の治める東の二つに分かれてしまい、京都の朝廷と鎌倉の幕府による二重統治の時代が始まりました。

そこで、当時の人は、特に鎌倉周辺の人にとって、京都方面の呼び方を”お上”のおわす土地として敬称を付けて”上方”と称したものと一般的には考えています。

では、その”上方”の範囲はどこまでを指すのでしょうか?
始めは都のある京都だけだったのですが、段々とその範囲は広がっていったようです。

 畿内と7道
    律令制の基本行政単位である国の地方行政区分。
    畿内を”上方”の範囲とする時もありました。

 

江戸時代の書物によると「上方とは、五畿内三州」と書かれています。
五畿内とは、大和(奈良県)、山城(京都府の南部)、摂津(大阪府と兵庫県の一部)、河内(大阪府東部)、和泉(大阪府の南西部)。
三州とは、近江(滋賀県)、丹波(京都府と兵庫県の一部)、播磨(兵庫県の南西部)。

もっと広範囲に言う場合もありました。
江戸時代の代官管轄で関東と上方とに分けているが、上方代官とは、三河(愛知県東部)以西をいい、又、関ヶ原の戦において、東軍に加わった豊臣系大名を関東から見て、上方の東海以西にあったため上方衆と呼んだこともありました。

つまり、関東から見て、京都・大阪を含む愛知以西を広範囲に言っているようです。
でも、このシリーズでは、大阪、京都を中心に調べていきたいと思います。