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旧愚だくさんブログ

愚だくさんブログ過去記事蔵です。

My浄土

2010年08月28日 | 仏教・仏像

え~~
昨日、浄土から舞い戻ったわけですが・・・

浄土も暑かった!!!

いえね、普段から外仕事をしている身なれば暑いのは慣れっこで平気だけど、
問題は、思い切り汗をかいてから電車やバスに乗ったり、飲食店に入ったりして、
汗が冷たくなってしまうこと。
自分はエアコンが苦手で、エアコンなしの生活をしているから、尚更。

それと、出先ではどうしても冷えた飲み物を摂ってしまうのも辛かった。
何時もは、朝に大量の中国茶を沸かして陶器のポットに入れたままのを飲んでいるし、
ジムでも常温のミネラルウォーターを飲んで、極力冷たいものは飲まない(ビール以外は。笑)ようにしているだけに、
炎天下を歩き、自販機やコンビニで買った冷たい飲料で水分補給することで、気温に違えて消化器系を冷やすことでダメージを負ってしまった。

そんなことが祟って、
旅行最終日の昨日は朝から酷い下痢!
頭がクラクラ、足元がフラフラ、
「救急車のお世話にならなきゃ良いが・・」
と不安を抱えながらの寺院拝観だった。
でも、醍醐寺の森然に抱かれたら元気になったけどね~

一日目は、
南禅寺境内を流れる琵琶湖疎水の水路閣を見て、
B級スポットとしても有名な大報恩寺(通称・千本釈迦堂)を拝観、六観音菩薩像の中の聖観音菩薩にヤラれる。
良いお像なのね~♪
その後、京都市内の明治時代赤レンガ建築物を何棟か見て、
お終い。

二日目は、
平城遷都1300年祭に賑わう奈良、
自分の心の故郷である奈良に行き、
金堂修復後初めて拝観する唐招提寺で薬師如来との再会を喜び、
秋篠寺にて、伎芸天との再会を喜び、
東大寺四月堂の千手観音菩薩との再会を喜んだ。
それから、何故か此処に来ると頑是無い子供の気持ちが蘇る・・・とっても不思議な元興寺を拝観し、
近鉄奈良駅周辺の店でせんとくんグッズを買い漁って
お終い。

三日目は、
「昨日は南都寺院巡りだったけど、今日は真言で決めるぞ!
と勝手に決意して、
向かった先が醍醐寺。
運良く、長期に渡った修復からお戻りになられた仏さまを特別公開していて、本尊・薬師如来、その他の大日如来、如意輪観音菩薩が素晴らしかった。
金堂の天部像も素晴らしかったなぁ。
そうそう、御朱印をお願いしたら、此処の坊さんは何と左手で器用に朱印をしてくれた。
左利きで筆を持つ人を見たのは初めて。
それから、智積院を参拝し(此処は必須)、
最後は教王護国寺で、此処でも諸尊との再会を喜び、
そしてすべてがお終い。

今回は、かなり切羽詰った心情で出掛けただけに、
一つ一つの寺院、それぞれの御仏たちが
とてもとても心に沁みて、ありがたくて、
中でも東大寺四月堂千手観音菩薩の御前では
涙がジワ~ッと湧いてきて・・・それは、心が雑巾のように我が身を絞って出した涙で・・・
「あ~、自分は相当疲れていたんだ」
と気付いた次第で・・・。

でも、お陰で元気復活!
あ~、仏さまって良いな~♪


・・で、蛇足
文中の
「何と左手で器用に朱印をしてくれた。
左利きで筆を持つ人を見たのは初めて。」
を、音読するとヤバイよね~(笑


奈良慕情

2010年07月27日 | 仏教・仏像

此処のところキチキチと働いているので、
来月あたり、ちょいと気晴らしをしようかな~
今の自分、目の前に人参がぶら下がらないと気力が湧かない~
あ~、人参、人参!

と思いながら、旅行会社各社のサイトを見ていた。
(一昨日と同じ行動)

そしたらビックリ!
HISが「スリランカ旅行」を扱ってる!

風光明媚なスリランカは、
インドの真珠と言われ、
世界一の品質と賞されるセイロン・ティーの国。
しかし、日本人にはマイナーで、
ごくごく一部の仏教遺跡マニアが訪ねるくらいだと思う。

そう、インドの隣のスリランカには、
釈迦が三度訪れたそうで、釈迦の「歯」が伝えられ、
その歯を大切に祀った仏歯寺なる寺もある。
それくらいだから、国のあちこちに仏教遺跡があり、
小乗仏教であるものの、密教テイストたっぷりな仏像なので、
もろ自分好み♪

そのスリランカがHISから出ている・・
しかも安い!
思わずポチッと押してしまおうかと思ったが、
「キャンセル待ち」だって。
先の予定が分からないんじゃダメだわ。残念!

マイナーな旅行先だけど、如何せん供給量が乏しいから
需要が上回ったのね~

「ま、スリランカは後日ってことで・・」
と、次に奈良を検索したら、
オーマイガァーーーッ!!!
何処もいっぱい!まんぱい!
普通じゃあり得ぬ、流石は平城遷都1300年祭!

一泊5万円の奈良ホテルでさえ埋まってた~
カメ、惨敗。

奈良もさ、宿泊施設が少ないから、
こーゆー時は奪い合いになってしまうんだな。

逆に京都はガラ空き。
しゃーないから、京都に泊まって奈良に通うかなー
南禅寺境内を流れる琵琶湖疎水も観たいしなー

人参を収穫するのも大変だ・・・ハァ


煩悩即菩提

2009年05月05日 | 仏教・仏像

今、真言宗の中心経典「理趣経」の研究本(栂尾祥雲・著)を読んでいる。
カメが座右の銘とするところの「煩悩即菩提」の経典でもある。

そこには、こぉんな記述がある・・・

二、理趣経の特質
凡て人には生きたいと云ふ生存欲があると共に、食いたいと云ふ欲、異性を愛したいと云ふ所謂性欲なるものがある。これ等の自然欲が元となつて種々の煩悩や悩みが出来、惹いては種々様々な罪悪を造ることにもなる。従って「雑阿含経」などでは、「欲は諸の煩悩を生じ、欲は苦を生ずる元となる」等と云ひ、これを離れなければ純真の生活は成立しない様に説かれて居る。さらばとて人の住む世界は所謂欲界である。この欲から成立する世界に住しながら、これを離れると云ふことは中々の難事である。この世の中の進化も発達もこれを離れては成立せぬのではあるまいか。煩悩や罪悪の根本となるのも勿論欲であると共に、この世の浄らかな佛の国土を現出せんとするのも所謂欲である。この欲は果たして如何なる本質を有するのであるかを徹底的に教ふると同時に、人が本当に意義ある生活をなるに当たり、この欲を如何に取り扱うべきかを如実に示したのがこの「理趣経」である。
(中略)
この「理趣経」に主張するところは積極主義であり、活動主義である。欲を治するに欲を以ってし、瞋(しん。怒ること)を治するに瞋を以ってし、痴を治するに痴を以ってせよと云ふのが標語である。従って「此の世の中に欲を捨つる程の大罪はない」と云ふのが此の経の教ふるところである。
(以下略)

な、なんて素敵なんだ・・・。
幾ら何でも素敵すぎる・・・。


散華

2009年04月10日 | 仏教・仏像

入学式二連チャンで、今日は地元小学校。

同じ義務教育中でも、中学校と小学校じゃ随分と違うね。
中学校は厳粛な式典って雰囲気だったけど、今日のは「新1年生歓迎会」のノリで明るいったらありゃしない。
小学生は、君が代斉唱も校歌斉唱も高らかな声で元気いっぱい!

やっぱ、子供が無邪気でカワイイのは小学生までだな~。

そんな子供達の姿と重なるようにして校庭の桜が目に入った。
満開を過ぎようとしている桜がハラハラと絶え間なく花びらを散らしており、風に乗った花びらは、まるで雪のように屋根に落ち、地面に落ちて行く。

式典中申し訳なかったが、そんな光景を目にしながら散華(さんげ)に思いを巡らせた。

散華とは、御仏が来迎した時に、それを歓び讃えるために天部の神々や衆生が華を降らせた・・・と言う故事に倣った言葉。
つまり、華を散らしむ供養のことで、華の芳香によって悪い鬼神などを退却させて道場を清めて御仏を迎える、との意味合いも含むらしい。
寺院で法要を厳修する時に、御仏を供養するために花(紙で出来た蓮の花びらの形をしたもの。これも散華と言う)を撒き散らし、当寺では大施餓鬼会の時に行う。

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↑東大寺「聖武天皇1250年御遠忌」法要で撒かれた散華。

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↑上写真の散華が、僧侶たちによって撒かれて東大寺大仏殿を舞う。
こうして見ると、ホント桜だね・・・しかも幻想的ですらある。

パッと咲いてパッと散る桜は、武士道に根付く日本人の精神の象徴。
桜は自衛隊や警察の紋章に使われ(これが菊だと激ヤバ!)、戦時中に特攻隊が戦死するのを(玉砕と同じく)散華と言った。

インドで生まれた散華の故事が、こうして日本の桜につながったわけだけど、果たしてインドには桜のようにハラハラと花びらを散らす木があるのだろうか?
例えあったとしても、桜には及ばないと思う。

そんなことから、釈迦が最初に説法をした時から、仏教は最後に日本に到達すべきものであった気がしてならないなぁ・・・な~んて考えてた。

・・ら、入学式は終ろうとしていた。


国宝阿修羅展

2009年04月04日 | 仏教・仏像

興福寺創建1300年記念の特別企画「国宝阿修羅展」。

最初に言ってしまおう、今回の売りぐるり360°阿修羅は、予想外にツッコミどころ満載・ネタ満載なのだった。

国民的アイドル仏・興福寺阿修羅だが、カメとしちゃ「そんなに・・」程度。
何せ、一番好きなみ仏が東大寺四月堂の千手観音菩薩立像ってくらいに、ちょいとクセのあるお像に惹かれるのだなぁ(人間も同じかも)・・・それくらいだから、キレイにまとまり過ぎる阿修羅は、心に引っ掛かって来ない。

それでも、お像の“側面感”や“背面感”を大事にするカメとしちゃ、「この機会に、阿修羅の背面をジックリと拝ませてもらおう」と、それを楽しみに観覧したのだが・・・。

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↑ズバリ、背面はこんなであった。(図録写真より)

開口一番「ええ~っ?!」。
ブーイング。
こんなだったの・・・つーか、こりゃ~ね~だろ。
何故なら、カメとしちゃ↓こんなのを期待していたからだ。

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↑これは滋賀県渡岸寺の十一面観音菩薩立像で、このお像も正面の両脇に大きな顔がある。
しかし、背面を見ると一つの頭として破綻なく収まっているのだ。
阿修羅の左右両面は、渡岸寺像よりも大きく正面とほぼ同じ大きさであるけど、だからと言って頭を2つに割ったままの造形は、ちょいと稚拙だろうと思ってしまう。芸なさすぎと言うか。

館内の殆どの人達は、これが最初で最後かも知れない阿修羅の背面に食い入るように見詰め、感嘆の声を漏らしていたが、カメと上子カメは「ププッ!」と噴き出してばっか。
「これってマンガ!」と・・。

阿修羅は「八部衆」の中の神で、八部衆と言うのは釈尊に教化された異教の神々の集まり。
つまり、仏教が興隆するに従って、元からあったインド土着の神々を取り込んで行った結果、天部のみ仏達が誕生して行った。
梵天・帝釈天、四天王、仁王などに代表されるのが天部のみ仏で、その天部に八部衆も居る。

しかし、今回の展示では、八部衆の中で阿修羅だけが別格扱いで、単独別室展示となっている。
ま、「国宝阿修羅展」なる名称だし、阿修羅の前で人垣が出来るのを考えれば別室展示も致し方ないと思うのだが、惜しいのは阿修羅に当たるライトだけ他の部屋より強めで、阿修羅が持っている色が飛んでしまっているのだ。
裳裾に残る僅かな金箔だけが光り輝くだけで、あとはどんな色なのかが不鮮明に。
これは東博に物申したいところ。

興福寺八部衆の中で、カメが一番に好きなのはこのお像!

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↑鳩槃荼(くばんだ)立像。
相変わらずのアウトロー路線好きで。(汗)
何処が良いか・・・それは、真横にグワッと開かれた口で、この口角がもうちょっと上に上がれば泣く子も黙る憤怒の相になるものを、何せ真横一文字、怒ってるのか笑ってるのか分からない。ハーモニカを吹いているようにも見える。
その曖昧なところに深いユーモアを感じ、「やられた!」と思ってしまうのだな。

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↑それから、この五部浄(ごぶじょう)像も素晴らしい。
他の7躯がほぼ完全な状態で伝わっているのに、何故にこの五部浄だけがこれ程欠損が激しいのか・・・美少年好みの光明皇后が毎晩抱いて寝ていたのだろうか。
しかしながら、少年のあどけなさの中に憂いをたたえたこの表情は阿修羅に匹敵するもので、返す返すも胸部から上しか残っていないのが惜しい。
辛うじて残った右腕部分が別展示されていたが、その指の動きには表情があり、それを見ただけでもこのお像の完成度の高さがうかがえる。
この五部浄には隠れファンが沢山居るのだ。もし、完全形で伝えられていたら、阿修羅と組んで国民的ブラザーズ・アイドルになっていたであろう。

そうそう、この五部浄の破損部分を見ると、八部衆の造像技法である脱活乾漆造の様子が良く分かる。
脱活乾漆造と言うのは、心木を組んだところに塑土でもって大まかな造形をする。その上に麻布を漆で塗り固めて貼り付けていく作業を5回くらい繰り返し、乾いたところで中の塑土を取り出して、最後に細部を木と漆を混ぜ合わせた木屎漆(こくそうるし)で成型して行き、乾いたところで彩色を施す。
つまり、お像の中は心木だけの空洞な状態で、張子の玩具のようになっている。
五部浄の胸の辺りから、麻布の張り合わせ方が良く見て取れる。

ところで・・・

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↑この迦楼羅(かるら)立像だけが異形なのは何故なんだろう?
他の7躯は、ほぼ人の顔をしているのにこの迦楼羅だけは、まんま烏。
幼稚園児に八部衆を見せて「仲間はずれはだ~れ?」と問うてみたら、きっと八割以上が「この人~!」と迦楼羅を指すだろうなぁ。

八部衆を拝し終り、次なる展示に向かったら・・・
わお!慶派仏満載だ~♪
それも、慶派も慶派、運慶の父であり師でもある康慶(こうけい)作!

いや~、迫力満点の四天王。
思わず息を呑み、その後呼吸を忘れるくらいに寸分の隙のない造形。

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↑四天王の斬り込み隊長、持国天。
四天王全てが2mを越す大きさ。

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↑邪鬼の踏まれっぷりも良いね~。

流石は慶派だ!
これだけの迫力がありつつも、破綻のない造形。この匙加減が絶妙なんだな~。

その他、法隆寺から特別に「伝橘夫人念持仏」が出されていた。
これは興福寺を発願した藤原不比等にちなみ、藤原不比等夫人であり八部衆像を発願した光明皇后の生母であった橘三千代の念持仏の公開となったのだろう。
カメにとっては、法隆寺で拝して以来の7年振りだ。
念持仏の尊名は阿弥陀三尊で、制作された飛鳥年代特有の童顔童形であるのが愛らしい。

以上、思い付くままツラツラと書いてみたが、冒頭で書いたように阿修羅の背面は(この際、ハッキリ言おう)期待はずれだったものの、伝橘夫人念持仏や康慶による四天王像、八部衆の中の五部浄・鳩槃荼像には、カメ熱狂。
花見で狂乱中の上野にあって、奈良を感じさせてくれ、仏浴させてくれた「国宝阿修羅展」であった。

合掌


「密教への道」最終講座

2009年03月22日 | 仏教・仏像

6回に渡る「密教への道」の第6回目。
とうとう最後の講座の聴講となった。

インドで誕生した仏教から密教が生まれる過程→密教とは何か→空海の密教観→両界曼荼羅に付いて・・・と続いた最後は、「空海密教の完成」に付いて。

弘法大師空海の際立ったところは、信仰を社会の中で形として表したことだと思う。
御仏の救いの具現化と言おうか。

・決壊ばかりしていた満濃池(四国)を修築し、灌漑用池として安定した水を供給させた。
・学問所である綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)を創設して教育環境を整備した。この綜藝種智院は後に寺子屋に発展する。
・国の恩を重要視した空海は、鎮護国家の修法「御七日御修法」を行い、それは現在に至っている。
・その他、日本最古の字典を編み、三筆の一人で文藝に優れ、薬学の知識も豊富だった。

その空海が、唐より密教を持ち帰り、日本にて完成させたのが「秘密曼荼羅十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)」で、
逆に言えば、この「十住心論」により、インド→唐→日本にと渡って来た密教は完成を見た。
ちなみに、現在までもインドで起きた密教が息づいているのは、日本とチベットだけ。

「十住心論」は、その名が示す通りに、本能だけに生きる凡夫が悟りの境地に至るまでを十の段階に分けてまとめられたもの。
十個それぞれの段階を「住心」と呼ぶ。

①異生羝羊心(いしょうていようしん)
異生とは凡夫のこと。
食と性欲の盛んな羊の如く、本能に支配されている状態。
②愚童持斎心(ぐどうじさいしん)
本来、人が持っているはずの仏性が少しだけ開いた状態。
自分を戒め、倫理道徳の道を行こうとする心境。
③嬰童無畏心(ようどうむいしん)
宗教的感情(祈りの心)が芽生えた状態。

①~③の此処までが、仏教以前のステージ

④唯蘊無我心(ゆいうんむがしん)
自分を深く追求した末に、自我は実在しないことを知った状態。
我は無なり。
⑤抜業因種心(ばつごういんじゅしん)
人が持つ苦しみの原因を悟り、独力で迷いの世界を取り除くことが出来る心境。
しかしながら、それは個人としての悟りで、他人を救うまでには至っていない。

④~⑤は、小乗のステージ

⑥他縁大乗心(たえんだいじょうしん)
自分と共に他人も救う心が生じる。
慈愛の心。
⑦覚心不生心(かくしんふしょうしん)
あらゆる現象の実在を否定することにより迷妄が断ち切られ、心が静まって安楽になった状態。
⑧如実一道心(にょじついちどうしん)
⑦で否定した現象の実在を肯定し、現象は分け隔てなく清浄であるとし、それこそが大日如来の表れとする。
⑨極無自性心(ごくむじしょうしん)
究極の境地に至りつつも、自分を戒め、更なる上を求める。

⑥~⑨は、大乗の顕教のステージ。

そうして、最後の十番目で密教のステージへと到達する。
①~⑨までで、理論としての密教が完成し、⑩で密教の実践となる。実践なくしての密教はあり得ない。

⑩秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)
無限に展開する心の世界。
真言密教は真理の扉を開く、開かれた中の宝はたちまち現れて、あらゆる価値が実現される。

以上、①の住心から始まって、究極の⑩へと至るわけだが、此処で注意したいのは、空海は低いステージの①や②を蔑ろにせず、⑩の秘密荘厳心、即ち密教の実践段階に至るには①も②も⑤も⑨も・・・と、全てのステージが必要不可欠なプロセスであると説いていることだ。
序列こそは付けるものの、貶めることはない。
秘密荘厳心のステージだけが密教なのではなく、全てのステージの過程が密教であるとする空海の思想こそ、広大無辺の境地だと思う。

そして、講話は密教から仏教に戻る。

今まさに涅槃に入ろうしている釈迦に、弟子入りを願った人物が居た。
名前はスヴァドラ。
釈迦はスヴァドラの願いを聞き入れ、そしてこう言った、
「私は良き道を求めて51年間生きて来た」

良き道とは、煩悩に囚われぬ心。
自分に降りかかった災厄の原因を外に求めようとした時、人の心に貪・怒・愚の三つの煩悩が頭をもたげる。しかし
「起きていることは全て正しい」
と正視し肯定することが、災厄の原因を自身の内部に追求する心を起こさせ、貪・怒・愚の三煩悩には至らずに居られる。

不幸な境遇の解決は、自分自身の心にある。
自分の外部に何かを求め続ける限り、人は幸せになれない。

「自分に何かが降りかかった時、自分の心に目を向けられるか」
これが、講話の最後の教えだった。

・・・と、まぁ自分なりにまとめてみたものの、「十住心論」の件を文章にするのは難しいっ!
特に、大乗のステージ以降が難しく、此処には仏教の柱とも言うべき「唯識」「中観」の思想が入り、それがチョ~難解!文章化なんて無理無理。
何せ「無我」に「空」だもんな~。

・・・てなワケで、此処から容量を超えて使ってしまったアタマのリセットタイム。

インドと言えば、この人!

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レインボーマンだぁ~!

♪インドの山奥で、修行をして♪
七つの化身を持つ秘法を身に付けた、サイババ顔負けのヒーロー!


仏像窃盗犯御用

2009年03月03日 | 仏教・仏像

京都建仁寺の木造十一面観音坐像を盗んだ疑いで逮捕された犯人の家には、仏像がザックザクだった!

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↑盗難仏には供物が捧げられ、何と犯人は
「信仰心から自宅に持ち帰り、毎日拝んでいた」
と神妙な表情で言っていると言う。

・・・・・。
・・・・・。
・・・・・。

今回の押収品は、仏像21体、掛け軸10点、その他骨董品まで含めると、計40点以上。
これだけの窃盗をやらかしたヤツの、その何処に信仰心があると言うのか・・。
信仰心からやってしまった素人さんの犯罪の域じゃなかろう、コレは。
完全に玄人の仕事だよ!

盗人猛々しいとは良くぞ言ったもんだ。

詳しくは言わないが(言うとマズい)、仏像などの寺宝を盗んで二度三度転がすと、もう出処は分からなくなるらしい。
それに、ヤバいものほど欲しいって好事家が居るのも確か。

コイツ、売るつもりだったと思うよ。

写真を良く見りゃれ、供物がミョ~に新しくて、ミョ~に豪華なのが気にならぬか?・・まるで、急遽あつらえたみたいに。
きっと、自分の身辺に捜査の手が及びつつあることを確信したのだろーな、犯人は。それで、こんな悪あがきをしたのだろう。

何が「信仰心から・・・毎日拝んでいた」だ、バカヤロー。
人々の信仰心を踏みにじる愚を犯したお前の口から信仰心なんて言葉を出すな。
まったくもって、盗人猛々しい。

こんな詭弁で情状酌量にならないことを祈る。

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↑わ~!仏像、抱きかかえてるじゃん!
役得だよな~。
捜査員になりて~。 アホ


超イケメン帝釈天

2009年01月28日 | 仏教・仏像

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↑京都東寺の消防訓練の様子。
この写真の記事が
「国宝の金堂から模擬仏像を搬出する消防士」
なのだけど、わざわざ模擬と言わなくても、こんな仏像が東寺にあるかいっ!

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似てね?(爆)
ある意味、コイツも模擬ってか。

Taishakuten

↑ジャジャ~ン!
東寺、いや日本を代表する美麗仏、その名も帝釈天さまだ~!
このイケメン御像の前で、金縛りになる女性が後を絶たない。
上写真の白ダルマとは似ても似つかぬ。


密教への道第5講座

2009年01月22日 | 仏教・仏像

第5講座ともなれば、いよいよクライマックス・・・みたいな。

で、ドド~ン!と来たよ・・・・で、今回のお題は

(両界曼荼羅のうち)金剛界曼荼羅

兎角、曼荼羅と言うと曼荼羅=図説みたいに受け取られ、人生曼荼羅だのと一般用語としてまで使われているが、空海が唐より請来した両界曼荼羅のこと。
釈迦の教えが仏教となり、小乗・大乗とに展開し、大乗仏教が更に展開し金剛乗となり、それが密教へとつながって行き、その密教で最も大切なのが曼荼羅。

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↑胎蔵界曼荼羅

Mandara_kongo

↑金剛界曼荼羅

両界曼荼羅は「胎蔵界曼荼羅」「金剛界曼荼羅」が一対を成しており、胎蔵界は「大日経」を金剛界は「金剛頂経」から成り立っている。

前回の「胎蔵界曼荼羅&大日経」の講義は、「へへっ。ちょいと楽勝かもぉ~♪」などと余裕をかましておったが、今回の「金剛界曼荼羅&金剛頂経」は・・・・・。
(沈黙)

ツレアイにも「金剛界は難しいよ~。胎蔵界のようなわけには行かないよ~。」と、さんざ驚かされておったが、まさにその通り。

胎蔵界は慈悲を表し、金剛界は智慧を表すのだが、この智慧とは釈迦の悟りであり、世界で最も硬く尊いものである。
つまり、金剛界曼荼羅は釈迦が苦行に苦行を重ねてやっと辿り着いた悟りを教示しようって代物なのだ!
これが難解でなくて何であろう!

で、解った範囲で簡単にまとめてみると、
密教の基本的な考え方として「不二(ふに)」と言うものがあり、それは「相反するものは本来ひとつである」なる考え方。
聖と俗など。表裏一体なんてのもそうかな。
不二と同様の言葉に「即」があり、カメがだ~い好きな「煩悩即菩提」も不二の考え。
そして、聖と俗のように隔絶したものと言えば御仏と人であり、隔絶した御仏と人がひとつのものになるための実践=不二の実践が金剛頂経に説かれており(「五相成身観」)、それを大日如来を中心とした御仏の相互関係図で解き明かしたのが金剛界曼荼羅。

※「五相成身観」とは釈迦の悟りの物語であり、悟りを得ようとしていた釈迦の下に一切如来なる御仏が現れて悟りを得るための秘訣を説き、その遣り取りが経典となっている。そして、最後に釈迦は「一切如来と我は同一である」と言う不二の思想に行き着き、それが悟りとなる。

講義中、不ニの思想が教えられた時、即座にこれを思い出した。
「真夏に真冬を感じる。それが俺のやり方だ。」
by Jimmy Page
おおっ!これぞまさしく不ニの実践ではないか!
そうか、JimmyPageの音楽の源は密教にあるのだ!
・・・なんつって。

・・・にしても、難しいなぁ。でも、難しいからこそ惹きつけられる。