昨夜、宮部みゆき「孤宿の人」読了。上下巻800ページに及ぶ長編の最後の場面には涙腺ゆるみっ放し。
「罪を犯したことで身内にある御仏の加護に気付き、しかしその加護にはもう近づけぬ弱く、儚く、卑しい人が人の中の人だ」・・・読み進む場面々々に出て来るこんな台詞に何度心を鷲掴みにされた事か。
昨日、本屋に行ったら去年の3月に出された村上龍の「半島を出よ!」が平積みになっていた。まるで新刊本みたいに。どらどら・・と思って少し読んでみると、代表的な長編作「コインロッカーベイビーズ」と同じ傾向の村上龍らしい小説の様子。巨大なフィクション。大人の寓話。そんな感じかな。
それにしても、村上龍って煽る人だよねぇ・・・性格かね、なんて。この「半島を出よ!」「コインロッカーベイビーズ」の革命もの(?)はぬるま湯に浸かった日本人の感覚に喝を入れるかの様な扇情的かつ刺激的な作品だし、「あの金で何が買えたか」「13才のハローワーク」で見せた斬新な発想は一時かなりの話題になった。
でもさ、この人って派手派手しく問題提起する割には最後が尻つぼみになるのは毎度の事。自分で投げた問題の大きさに自分が潰されてしまって何も結論付けられないんだよ・・・これも性格かね。
そう言えば、上子カメが「中学の指定図書に‘100万回生きたねこ’が入ってるんだよ。中学生にもなって何で絵本なんだろ」とプリプリ怒ってた時があった。
・・ので「うん、確かに子カメ達が小さい頃に喉が擦り切れそうになるくらい読んで聞かせたけど、あの話の深い意味が分かってる?あれは絵本ではあるけれど絵本を越えた物語だよ」と問うてみたら
「へ~。そうなんだぁ・・・」
「ズバリ!あれは輪廻転生のお話でしょ~!」
佐野洋子作‘100万回生きたねこ’とは、「100万年もしなないねこがいました。100万回もしんで100万回も生きたのです。りっぱなとらねこでした。」から始まる物語で、タイトルの通り何度も何度も生まれては死んでを繰り返すねこの物語。
ある時は王さまのねこで、戦争に連れられたねこは矢に当たって死んでしまう。ある時は船乗りのねこで、ねこは海に落ちて溺れて死んでしまう。またある時は一人ぼっちのおばあさんのねこで、ねこは老衰で死んで行く。そうやって生死を繰り返したある時、とうとうねこは誰のねこでもない自分のねこになる。そして美しい白いねこをお嫁さんにして沢山の子ねこが授かる。そのうちに歳を取って白いねこが死んでしまうと、ねこは悲しみのあまり泣いて泣いて泣き続け、そうして自分も死んでしまう。・・・それっきりもう二度と生き返る事は無かった・・・と言う話。
これってマジ仏教。
途方もなく長い時間、輪廻を繰り返したねこは、遂にありのままの自分を手に入れ、更には全身全霊で愛せる者達にめぐり会える。そうして、もう二度と生き返る事も死ぬ事もなくなる。
「これに仏教用語と充てると輪廻転生を繰り返しつつついに真如を得て輪廻から解脱し涅槃の境地に至ったのだ、となる!」と、上子カメ相手につい熱く語ってしまった。・・・・いや、ホントの事言うと、‘100万回生きたねこ’が仏教スペクタクル物語だなんてのは、単なる思い付きで根拠無いのだわ。
でも、1977年に第1刷が発行されて以来、日本はおろか世界各国でも愛され続けている物語の核が仏教であると想像するだけで嬉しいので、そーゆう事にしとく。
↓あ、そうそう、昨日の亀田兄弟。初のタイトル戦をKO勝ちしたのは次男だそうで。