日本で、般若心経に続いてポピュラーなのが観音経じゃなかろーか。
一昨日の伝法院講座真言宗常用経典概説の第三回目が、観音経解説だった。
観音経とは通称で、正式には法華経に含まれる観世音菩薩普門品を指す。
法華経は、今から2000年前にインドの周辺地域で成立したと考えられており、アジアの広い地域で人気があったためにサンスクリット語、チベット語、モンゴル語、ウィグル語、漢語など様々な言語に翻訳された。
日本では経典を翻訳することはなく、漢文経典が読まれた。
漢訳された法華経は3つあり、
①竺 法護(じく ほうご)訳 「正法華経」 286年漢訳
②鳩魔羅什(くまらじゅう)訳 「妙法蓮華経」 406年漢訳
③闍那崛多(じゃなくった)・達摩笈多(だつまきゅうた)共訳 「添品妙法蓮華経」 601年漢訳
この中で鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」が法華経の中核をなし、法華経=妙法蓮華経となっている。
話は逸れるが、
経典の漢訳と言えば、鳩摩羅什、玄奘三蔵、不空。
鳩摩羅什と玄奘三蔵は二大漢訳家とも呼ばれる。
玄奘三蔵は三蔵法師、不空は真言宗の第六祖、しかし鳩摩羅什は・・・?
まー、どのような坊さんだったかは分からないが、鳩摩羅什が中国そして日本の仏教に与えた影響は計り知れぬものがあると思う。
NHK学園で仏教美術を学んでいた時も鳩摩羅什の出典が多く、講師陣が親しみを込めて
「ラジュ~♪」
と呼んでいたのを思い出す。
「ああ、通はああやって呼ぶのかぁ・・」
なんて、妙なところで感心していた。
話を元に戻して、
鳩摩羅什による
法華経 観世音菩薩普門品第二十五
が、我々が観音経と呼んでいるもの。
普門品とは普門はあまねく開かれた門のことで、
あまねく方向にお顔を向け、すべての人々を救済せしめる観音菩薩の功徳を説く
の意。
ちなみに、観音さまには観世音菩薩と観自在菩薩の2つがあるが、
観世音菩薩は観る+音で鳩摩羅什によるもの。
観自在菩薩は観る+自在で玄奘や不空によるもの。
日本全国にあまたの観音霊場があるけれど、観世音菩薩と呼ぶのが圧倒的多数だと思う。
ウチもそうだし・・・
観音経の中核を成すのが、経典の始めに登場する
「善良なる者よ。もしも数え切れないほど多くの衆生が様々な苦難を受けた時、観世音菩薩の名を聞いて、一心にその名を称えるならば、観世音菩薩はすぐさまその声を観じて、一人残らずその苦難から救いとってくれるであろう」
ってもの。
様々な苦難とは、
七難・・・火難、水難、風難、刀杖難(傷害)、鬼難、枷鎖難(刑罰)、怨賊難(盗賊)
三毒・・・貧(欲)、瞋(怒り)、痴(愚かさ)
その上、苦難からの救済だけではなく、二求(2つの望み)を叶えてくれる。
二求・・・男児または女児をもうけること。
それから経典は、
観世音菩薩は三十三の姿に化身して十九の説法を説く
と続く。
ちなみに、変化する・化身のことをサンスクリット語でアバターラと言い、それは大ヒット(?)映画アバターの語源だって。
●三聖身●
(1)佛身
(2)辟支佛身(自分独りで修行し、独力で悟りを開く者)
(3)聲聞身(小乗の僧侶たち)
●六種天身●
(4)梵王身
(5)帝釈身
(6)自在天身
(7)大自在天身
(8)天大将軍身
(9)毘沙門身
●五種天身(人間界)●
(10)小王身(一国の王)
(11)長者身(裕福な人)
(12)居士身(徳の高い人)
(13)宰官身(国に仕える人)
(14)婆羅門身(バラモン教徒)
●四衆身●
(15)比丘(16)比丘尼(乞食の仏教修行者)
(17)優婆塞(18)優婆夷(在家の仏教信者)
●四種婦女身●
(19)長者(女性で裕福な人)
(20)居士(女性で徳の高い人)
(21)宰官(女性で国に仕える人)
(22)婆羅門婦女身(女性のバラモン教徒)
●童男・童女身●
(23)童男
(24)童女
●人八部衆●
(25)天
(26)龍
(27)夜叉
(28)乾闥婆
(29)阿修羅
(30)迦樓羅
(31)緊那羅
(32)摩睺羅伽
(33)金剛身
(1)(14)までの一化身に一説法。
(15)から(18)までで一説法。
(19)から(22)までで一説法。
(23)(24)で一説法。
(25)から(32)までで一説法。
(33)で一説法。
よって、計十九説法となる。
それからも、観音様の功徳はまだまだ続き、先の七難からの救済プラス十二難からの救済となる!
すべて、観世音菩薩の力を念ずれば救済されると説かれている。
そして、フィナーレ・・・
妙音観世音 梵音海潮音
勝彼世間音 是故須常念
念念勿生疑 観世音浄聖
於苦悩死厄 能為作依怙
具一切功徳 慈眼視衆生
福聚海無量 是故応頂礼
妙音である観世音は、梵天の音、世間の音に優れているのです。
だから、常にその名を念ずるべきです。
観世音をよくよく念じて、疑いの心を抱いてはなりません。
観世音菩薩は浄らかな聖者であり、苦悩や災厄において最も頼みとなるのです。
観世音はあらゆる功徳を具え、慈眼をもってあらゆる人々を視ており、その福徳は大海のごとく無量なのです。
だから、観世音を心から礼拝すべきなのです。
佛説是普門品時
衆中八萬四千衆生
皆發無等等阿耨多羅三藐三菩提心
こうして、仏がこの普門品を説いた時、集まった八万四千の人々はみな無上無比の悟りの心を起こしたのでした。
つまりは、我々が観音様の名を呼ぶ・観音様を供養する・観音力を念ずると、
観音様は様々な姿となって我々の目の前に現れ、七難・十二難からの救済三毒からの解放、二求の成就のご利益がある
と説いた経典で、なんつーか、幼稚園児のマナーブック並みに分かりやすい。
分かりやすすぎるあまり稚拙にも思え、
「お経は分からないから有難い、とは良く言ったものよのぅ」
と思いながら聴講していたが、講師の最後の言葉でそれは払拭された。
「とても理論的とは言い難い、観音の絶対的な力を讃える内容に終始しています。
幼稚と言えば幼稚かも知れませんが、信じて繰り返し唱えることにより人間に力が宿るのです。
そして、これこそが信仰と言えましょう」
この言葉に、頭をカツン!と叩かれた気がした。
そう、言霊と言う言葉があるように、人が考え・思い・信じて口から発した言葉は魂を宿すものなのだ。
観世音菩薩の功徳を信じ、一心に観音経を唱えるならば、観音経の言霊が良き方向に導いてくれるのではないか。
兎角、現代の日本人は理論武装しては真相の究明とやらに明け暮れ、小利口になっていると思う。
もっと単純でも良いのではなかろうか。
例えば、アメリカ人が何かと言うと星条旗に向かって胸に手を当てるようなこと。
国旗に熱い視線を送ることを習い性にした国民には、やはり強い愛国心が芽生える。
単純な繰り返しのようだが一個人への刷り込みは大きい。
そして、その集合体は強固で大きな力となって行く。
目の前の災厄から逃れたくて一心不乱に観音経を唱える。
「何を非科学的な!」と嘲笑されるかも知れない。
しかし、その姿こそが美しいのだ。
美しい輝きを見せた人は必ずや良き方向に導かれると思う。
理も大切だが、それと等しく心や念も大切にしたい。
・・・そう痛切した観音経解説だった。