↑と、昨日頂いたレジュメからタイトルを拝借。エヘヘッ
NPO法人足尾歴史館の長井一雄館長を先達に、足尾オフ会は第二章の幕を開けたのであった。
と、物々しく始まってみたものの・・・
↑しょっぱなの写真が、足尾ならぬ細尾発電所。
この日は「先ず細尾発電所に行こう!」と、早朝この地に集合したのだ。
↑しかし、晩秋の朝日を浴びる発電所遺構は何処か神々しく、まるでカテドラルの趣だった。
そして、細尾発電所から車で20分移動し、足尾へ。
足尾歴史館駐車場で待つこと少々、すると本日のガイドさんと思われる方の車が到着した。
降りて来られた方のネームプレートを見て、カメ驚き!
長井館長ご自身じゃないの!
↑そして、館長御自ら案内の最初が、通洞駅と駅前に鎮座していた足尾きっての旅館「泉屋」跡地。
この泉屋は、かつて古河の幹部や古河が招いた客人の定宿で大変な賑わいだったらしい。
ちなみに、通洞駅の「通洞」は鉱山用語で、それが駅名になり現在も使用されているのは、全国でも足尾だけだそう。
↑泉屋の裏手には「置き屋」だった建物が。
ちょっと小洒落た造りが一般住宅とは違った雰囲気。
この玄関から、粋な姐さん達が火打石切られてお座敷へと向かって行ったのだねぇ。
↑更に少し歩いた所に、真宗「蓮慶寺」があり、此処には銅山の隆盛を祀った簀子神社の大鳥居がある。
↑足尾駅。
現在のように輸送の主力がトラックでなかった時代、足尾駅は銅山の貨物流通拠点であったそう。
製錬所の硫酸タンクとパイプラインでつながれた「硫酸出荷用タンク」を2つも備え、需要先に鉄道輸送されていたと言うから驚き。
長井館長は、この足尾駅に「博物館構想」(構想と言っても8割方は現実化している)を抱き、今はなき硫酸出荷用タンクを何処からか調達し、秋田県の何某かに払い下げられた古河の硫酸専用の貨物車を取り戻して、当時の足尾駅を再現するのだと仰っていた。その他、博物館構想のメインとなる古い客車を見せて頂き、色々な説明を受けたが、鉄子ではないカメはチンプンカンプンだった。
↑足尾駅を発車したばかりの、わたらせ渓谷鉄道二両客車。
風情あるよな~。
↑足尾駅にあったレンガ造りの小屋。
とても小さな建物なれど、流石は赤レンガ、存在感バッチリ。
↑古河屈指の英傑と讃えられる木村長兵衛、「木村長兵衛功業の碑」跡。
銅板で造られた碑で、第二次世界大戦中に供出され、現在は拓本とこの跡を残すのみ。 ウチの釣鐘も供出でなくなってしもーた
篆額・井上馨、文・陸奥宗光、書・日下部鳴鶴、銅工・小幡長五郎、と言う凄い顔ぶれで、かつての古河の威光を感じる。
↑木村長兵衛碑跡の近くに社宅があり、社宅に住まう人達のための銭湯。
ちなみに、入湯料は200円ほど。
昔、この辺りに土俵が切られ、古河が1億円相当を出して呼んだ「足尾場所」が開かれたのだそう。
東京場所の次が足尾場所だったと言うのだから、古河、すごっ!
↑次に訪れた間藤水力発電所跡の、原動所の基礎部分の更に一部分。
渡良瀬川から突如現れた赤レンガ遺構~!萌え~!
↑未だ住人が多い南橋(なんきょう)社宅群。
↑昔ながらの物干し台。
↑社宅の青い屋根越しに製錬所が見える。
↑そして製錬所に移動して、これは古河橋。
明治時代にドイツから輸入し、約半年間の工事を経て完成。
この型の橋は、ヨーロッパから開発途上国に輸出したものだそうで、その当時の日本の産業がどれだけ遅れていたかが分かる。
↑製錬所から松木沢へと向い、これは東洋一と言われる砂防ダム。
↑高原木(こうばらぎ)社宅跡地。
緑の矢印が指す台地に、かつて1000人以上の鉱員が住んだ社宅群があった。
銅山の朝鮮人労働者はこの社宅群に集められ、日本人と一緒に居住したそう。
長井館長による「ガイド3時間コース」は此処で終わり。
足尾歴史館まで戻り長井館長とはお別れ。
何でも午後には、あと2つのガイドを頼まれているそうで、館長、激務の様子。「私の後任ガイドが育たないのが唯一の悩み」と仰っていた。
そうかぁ・・・幸運なことに館長のガイドに当たったのではなく、館長しかガイドが居ないのかぁ。
それから「若竹食堂」にて昼食を取り、先程の足尾砂防ダムの向こう側、松木渓谷に出掛けることになった。
↑植樹用キャリア。
このキャリアに乗って、山肌に植樹して行くそうで、植樹と言っても苗木を植えるのではなく、種みたいなものが仕込まれたコンクリ的なものを吹き付けて行くらしい。
このキャリア、オリンピックのラージヒルジャンプ台よりも高低差と勾配があるのだって!
現代版インクライン・・と言うより、絶叫マシンじゃ!
↑荒涼とした風景が続く。
文明の利器(←死語?)を使っての植樹、またはボランティアさん達の懸命な植樹によって、鉱毒で丸ハゲになった山に随分と緑が戻ったものの、まだまだ殺伐とした風景。
↑と、そこに突如現れる墓石。
ひょえ~っ!何て素敵なんだ!
↑砂防ダム。
↑長く続く鍰(からみ)の山。
鍰は、銅の精錬で出来る廃物。黒色で大きさは中粒の砂くらい。
↑鍰の採取現場。
足尾の愛宕下社宅跡には、この鍰を使った鍰レンガの防火壁が今も残っている。
鍰は、道路工事の路盤強化材料として脚光を浴びた一時期があったそうだが、それも今は低迷している。
↑採取現場に置かれた古いタンクローリー車。
廃車かと思ったら、ガソリンタンクとして現役の様子。
廃車復活、なんつって~。
↑更に進むと、左手に廃・つり橋が・・。
ムムッ!橋の向こうに廃墟めいたコンクリ塊、発見!
↑川に沈むこのコンクリは、一体何?
・・と、色々なサイトを当たってみても、ヒット数ゼロ。
↑うーむ・・。このつり橋と一体だとすりゃ、一体どんな・・?(と、またオヤジギャク)
↑「何だろね~?あの廃墟」と、皆と首をかしげながら先を進んで行くと、また茫々たる景色の中に祠が現れたりするのだよぉ!
やられちゃうなぁ。
・・・つーか、先の墓石同様、旧松木村村民が此処に生きた証なのだから、茶化しちゃいけません。
松木渓谷トレッキングに2時間を要した後(良い運動じゃった)、再び足尾歴史館に・・。
午後に2本のガイドが入ってると仰ってた長井館長はまだお帰りにならないかな、と思っていたら在館されており、熱いコーヒーをご馳走になりながら、しばらくの間話をさせてもらった。
話の中で、「(足尾)村おこしの人」長井館長の、足尾への熱き想いがヒシヒシと伝わって来た。
高校卒業後に足尾を出て、会社を定年退職してからようやく戻って来たふるさと足尾・・・長井館長は、足尾の変容ぶりに驚き、また長い間のブランクがあったからこそ足尾の良さが新鮮な魅力として心に響いたのだそう。それからは、「こんな廃れた町、もうどうにもなんないよ」と諦めきっている住民と無理矢理二人三脚を組んで、足尾復興に向かって進め!進め!進め!の日々が始まり、ついには世界遺産登録に大手を掛けるまでになった。
午前中に案内された木村長兵衛の碑跡の木村長兵衛が、古河中興の祖だとすれば、この長井館長は先々足尾中興の祖(まだまだお若くて、祖は失礼ですが)となるのではないか・・・などと考えつつ話を聞いていた。
・・・・それにしても、皆で何度か
「製錬所の中には入れないかな~。入りたいな~。」
と、遠まわしに持ち掛けてみたものの、ことごとく失敗。撃沈だった。
「何かあった時に困りますから」と。
どうしてもダメなのかぁ・・・ううっ!(嗚咽)
今まで幾度となく来ている足尾だけど、足尾の達人の説明を聞きながらの探索で、足尾が更に身近になった。
身近どころか、古河全盛期の頃に生きている感じにすらなっている・・鉱夫達の闊達な会話や、工場や鉄道から絶え間なく流される金属的な音が耳に貼り付き、母親の手編みのセーターを着、頬を真っ赤にしながら走り回る子供達の姿が見えるようだ。
最後に・・・
![Syugou Syugou](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/2d/67508f8840c15c4bb226da72aab825ca.jpg)
↑(栃さん、勝手に画像を右クリックで拝借しました。すいません)
栃さん、テンジンさん、1192さん、そして長井館長、夕刻の歴史館でお知り合いになったHさん、ありがとうございました。
何時までもあると思うな親と廃墟。
足尾の各部解体は進んでいます!(泣)
そう遠くないうちに、足尾オフ会第三章をやりませう。