1902年、軍都広島と軍港呉を守るために瀬戸内海の島々や岬に砲台が建設された。
これが芸予要塞。
その主要な要塞のひとつとして大久野島にも同年、北部・中部・南部に3つの砲台が置かれ、合わせて16門が設置された。
それ以降、大久野島は軍隊と深いつながりを持つ島としてその歴史を刻んで来た。
そして、日露戦争の終結により大久野島並びに芸予要塞は無用の長物と化す。
しかし、軍用の地であったので、やがて陸軍によって毒ガス製造工場が建てられ毒ガス島に変貌して行く。
大久野島で製造された毒ガスの総生産量は、全人類を滅亡させる量と言われる3000トンの2倍以上の6616トンで、日中戦争で2000回以上に渡って使用された。
そのため、中国の軍民9万4000人以上が死傷したと言われている。
いや、それ以上に痛ましいのは、此処で作られた毒ガスが、先ず731部隊による人体実験を経て効能を確かめてから実践に使われたことだ。
731部隊による実験と言えば「マルタ」だ・・・マルタと呼ばれた中国人がこの陰惨極まる毒ガスの第一犠牲者になった。
しかし、毒ガスによって苦しんだのは敵地の民だけでなく、製造に携わった人達もだった。
「此処で働けば高給がもらえるよ」の甘い誘いに乗り、その恐るべき危険性を知らさせずして毒ガス製造に職を求めた人達は、やがて深刻な呼吸器疾患に罹り、死に至るか一生涯の苦しみを背負うことになる。
↑毒ガス資料館。
1988年建設。
毒ガス製造と戦争の実態を多くの人に知ってもらい、忌まわしい歴史を繰り返さないよう毒ガスに関する資料を展示している。
↑資料館内部。
防毒装備が何やら不気味・・・。
↑毒ガス製造器具。
↑毒ガス資料館裏手には国旗掲揚台があった。
地図から消し去るほどに隠匿した島でも国旗掲揚はしたのだろうか。
↑南部砲台跡。
↑これは毒ガス貯蔵庫として使われたそうで、証拠隠滅のためか埋められてしまっている。
↑中部砲台跡。
何て美しい建造物だろう!
↑内部。
両端の部屋以外は、こうして繋がっている。
中部砲台跡には兵舎があったとされるが、これが兵舎だったのだろうか?
↑中部砲台への石段。
↑北部砲台跡。
↑水没した建造物。
↑北部砲台跡には赤レンガ建造物群の間にトンネルがあり、トンネル内部にも部屋がある。
↑トンネルを抜けて西側の建造物。
↑検査工室跡。
↑自動交換器室跡(通信壕跡)
空襲に備え、非常の場合の電話の自動交換器が置かれ、普段は人が居なかった。
↑赤筒防空壕跡。
元防空壕だったこの穴には、戦後の毒ガス処理の時に「くしゃみ性毒ガス(通称・赤筒)」が埋設されたと言われている。
何と、島内の防空壕10箇所に約65万本の赤筒が埋没されているらしい。
うさぎ達が駆け回るその下には毒ガスが眠っているのだ。
↑毒ガス貯蔵庫跡。
↑貯蔵庫内部の毒ガスタンク台座。
此処には、猛毒で皮膚がただれるびらん性ガス「イペリッド」が貯蔵されていた。
大きな筒状タンクがこの台座に置かれ、工場から管を伝ってイペリッドが送られていた。
↑長浦毒ガス貯蔵庫跡。
島内で一番大きな貯蔵庫で、当時100トンタンクが6基置かれていた。
此処にもびらん性毒ガスの「イペリッド」「ルイサイト」が貯蔵されていた。
↑左右両側に3つずつの部屋があり、それぞれに巨大なタンクが置かれていた。
壁面が黒いのは、戦後処理の際、毒性を取り除くために火炎放射器で焼き払って黒く焼けただれたためで、今でもその凄惨さを物語っている。
↑6つの部屋それぞれに残っている巨大なコンクリ製台座。
↑当時の毒ガスタンク見取り図。
↑左右3つの部屋の端には小部屋があり、それは毒ガスを送るための真空ポンプ室と換気室であった。
これはどちらの部屋になるのか・・沢山の千羽鶴や地蔵が手向けられてた。
↑さぁ、このゲートの向こう側には・・・
↑発電所跡が!
↑それでは中に失礼します・・・
↑な、なんてデカイんだぁ~っ!
↑は~い!何か用かい?
それにしても落書きが多いなぁ。
↑この発電所の電力が毒ガス工場を支えていた。
重油炊きの発電所で、当初は240ボルト発電機が3台。
1933年に3.3キロボルト発電機3台、1934年には2台を増設した。
更に、1941年には(株)広島電気忠海変電所から22キロボルトを海底ケーブル2本によって受電し、既設の発電設備と併用して敗戦まで電力を賄った。
また、敗戦前には女子動員学徒による風船爆弾の制作と実験が此処で行われた。
終戦後は、アメリカ軍が弾薬庫として使用し、その時の「MAG2」と言う黄色いペンキ文字が数箇所に見られる。
↑海水ポンプ室。
発電所敷地内にあり、真水や海水を汲み上げて冷却水の調整をした建物。
↑重油タンク。
↑海上から見た発電所ゲート。
↑同じく海上から見た発電所。
・・・以上、カメが見てきた大久野島毒ガス兵器工場跡群。
整然と積み上げられた赤レンガや巨大な空間を有する発電所跡に、廃墟の美を感じまくりだったものの、次第に心が重たくなって来た。
それはやはり、人を殺傷する目的で造られた軍事遺産ゆえのものなのか。
この大久野島は、1932年頃から戦争中は秘密の島として地図から消されていた。
勿論、それは毒ガス製造を隠蔽するためのもので、その情報管理は徹底され、製造に携わる人々ですら実態を知らされていなかった。
此処で殊更に戦争反対などと叫ぶつもりはないが、毒ガスで人を殺そうなんざ全く馬鹿げた話だと思う。
最先端の化学技術を最も原始的な欲求のために捻じ曲げたのが毒ガスを始めとする化学兵器であろうと思う。
殺し合いなんて原始的なことは、もう止めようよ・・そう言いたい。
↑大久野島毒ガス障害戦没者慰霊碑。
此処には、危険で過酷な毒ガス製造、あるいは戦後の毒ガス処理に従事して傷害を受け亡くなった人々の名簿が納められている。
合掌。