旧愚だくさんブログ

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カメの願ひ

2009年08月03日 | 大久野島の軍事遺産

今は国民休暇村施設がドーンと構えてリゾート地の様相の大久野島。

しかし、休暇村本館は各種の毒ガス工場が密集していた場所で、10面もあるテニスコートはやはり毒ガス工室が立ち並んでおり、東に面する海水浴場には医務室があった。
この様に周囲4.3キロの小さな島がまるごと毒ガス兵器工場だったのだ。

これが残っていたなら、軍艦島に匹敵する「一島まるごと廃墟」だったろう。

休暇村なんざ造らず、そのまま捨て置いて欲しかった・・。

残留毒薬の危険性が高いから工場内部の探索までは出来なくとも、圧倒的な外観や街並みだけでも充分に楽しめたよなぁ、きっと。

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・・・などと、毒ガス製造当時の地図を見ながら空想するカメ。
アホです。


地図から消された島

2009年08月02日 | 大久野島の軍事遺産

1902年、軍都広島と軍港呉を守るために瀬戸内海の島々や岬に砲台が建設された。
これが芸予要塞。
その主要な要塞のひとつとして大久野島にも同年、北部・中部・南部に3つの砲台が置かれ、合わせて16門が設置された。
それ以降、大久野島は軍隊と深いつながりを持つ島としてその歴史を刻んで来た。
そして、日露戦争の終結により大久野島並びに芸予要塞は無用の長物と化す。
しかし、軍用の地であったので、やがて陸軍によって毒ガス製造工場が建てられ毒ガス島に変貌して行く。

大久野島で製造された毒ガスの総生産量は、全人類を滅亡させる量と言われる3000トンの2倍以上の6616トンで、日中戦争で2000回以上に渡って使用された。
そのため、中国の軍民9万4000人以上が死傷したと言われている。
いや、それ以上に痛ましいのは、此処で作られた毒ガスが、先ず731部隊による人体実験を経て効能を確かめてから実践に使われたことだ。
731部隊による実験と言えば「マルタ」だ・・・マルタと呼ばれた中国人がこの陰惨極まる毒ガスの第一犠牲者になった。

しかし、毒ガスによって苦しんだのは敵地の民だけでなく、製造に携わった人達もだった。
「此処で働けば高給がもらえるよ」の甘い誘いに乗り、その恐るべき危険性を知らさせずして毒ガス製造に職を求めた人達は、やがて深刻な呼吸器疾患に罹り、死に至るか一生涯の苦しみを背負うことになる。

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↑毒ガス資料館。
1988年建設。
毒ガス製造と戦争の実態を多くの人に知ってもらい、忌まわしい歴史を繰り返さないよう毒ガスに関する資料を展示している。

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↑資料館内部。
防毒装備が何やら不気味・・・。

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↑毒ガス製造器具。

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↑毒ガス資料館裏手には国旗掲揚台があった。
地図から消し去るほどに隠匿した島でも国旗掲揚はしたのだろうか。

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↑南部砲台跡。

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↑これは毒ガス貯蔵庫として使われたそうで、証拠隠滅のためか埋められてしまっている。

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↑中部砲台跡。
何て美しい建造物だろう!

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↑内部。
両端の部屋以外は、こうして繋がっている。
中部砲台跡には兵舎があったとされるが、これが兵舎だったのだろうか?

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↑中部砲台への石段。

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↑北部砲台跡。

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↑水没した建造物。

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↑北部砲台跡には赤レンガ建造物群の間にトンネルがあり、トンネル内部にも部屋がある。

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↑トンネルを抜けて西側の建造物。

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↑検査工室跡。

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↑自動交換器室跡(通信壕跡)
空襲に備え、非常の場合の電話の自動交換器が置かれ、普段は人が居なかった。

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↑赤筒防空壕跡。
元防空壕だったこの穴には、戦後の毒ガス処理の時に「くしゃみ性毒ガス(通称・赤筒)」が埋設されたと言われている。
何と、島内の防空壕10箇所に約65万本の赤筒が埋没されているらしい。
うさぎ達が駆け回るその下には毒ガスが眠っているのだ。

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↑毒ガス貯蔵庫跡。

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↑貯蔵庫内部の毒ガスタンク台座。
此処には、猛毒で皮膚がただれるびらん性ガス「イペリッド」が貯蔵されていた。
大きな筒状タンクがこの台座に置かれ、工場から管を伝ってイペリッドが送られていた。

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↑長浦毒ガス貯蔵庫跡。
島内で一番大きな貯蔵庫で、当時100トンタンクが6基置かれていた。
此処にもびらん性毒ガスの「イペリッド」「ルイサイト」が貯蔵されていた。

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↑左右両側に3つずつの部屋があり、それぞれに巨大なタンクが置かれていた。
壁面が黒いのは、戦後処理の際、毒性を取り除くために火炎放射器で焼き払って黒く焼けただれたためで、今でもその凄惨さを物語っている。

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↑6つの部屋それぞれに残っている巨大なコンクリ製台座。

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↑当時の毒ガスタンク見取り図。

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↑左右3つの部屋の端には小部屋があり、それは毒ガスを送るための真空ポンプ室と換気室であった。
これはどちらの部屋になるのか・・沢山の千羽鶴や地蔵が手向けられてた。

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↑さぁ、このゲートの向こう側には・・・

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↑発電所跡が!

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↑それでは中に失礼します・・・

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↑な、なんてデカイんだぁ~っ!

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↑は~い!何か用かい?
それにしても落書きが多いなぁ。

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↑この発電所の電力が毒ガス工場を支えていた。
重油炊きの発電所で、当初は240ボルト発電機が3台。
1933年に3.3キロボルト発電機3台、1934年には2台を増設した。
更に、1941年には(株)広島電気忠海変電所から22キロボルトを海底ケーブル2本によって受電し、既設の発電設備と併用して敗戦まで電力を賄った。
また、敗戦前には女子動員学徒による風船爆弾の制作と実験が此処で行われた。
終戦後は、アメリカ軍が弾薬庫として使用し、その時の「MAG2」と言う黄色いペンキ文字が数箇所に見られる。

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↑海水ポンプ室。
発電所敷地内にあり、真水や海水を汲み上げて冷却水の調整をした建物。

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↑重油タンク。

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↑海上から見た発電所ゲート。

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↑同じく海上から見た発電所。

・・・以上、カメが見てきた大久野島毒ガス兵器工場跡群。

整然と積み上げられた赤レンガや巨大な空間を有する発電所跡に、廃墟の美を感じまくりだったものの、次第に心が重たくなって来た。
それはやはり、人を殺傷する目的で造られた軍事遺産ゆえのものなのか。

この大久野島は、1932年頃から戦争中は秘密の島として地図から消されていた。
勿論、それは毒ガス製造を隠蔽するためのもので、その情報管理は徹底され、製造に携わる人々ですら実態を知らされていなかった。

此処で殊更に戦争反対などと叫ぶつもりはないが、毒ガスで人を殺そうなんざ全く馬鹿げた話だと思う。
最先端の化学技術を最も原始的な欲求のために捻じ曲げたのが毒ガスを始めとする化学兵器であろうと思う。
殺し合いなんて原始的なことは、もう止めようよ・・そう言いたい。

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↑大久野島毒ガス障害戦没者慰霊碑。
此処には、危険で過酷な毒ガス製造、あるいは戦後の毒ガス処理に従事して傷害を受け亡くなった人々の名簿が納められている。

合掌。


大久野島

2009年08月02日 | 大久野島の軍事遺産

7月27日~30日まで、瀬戸内海に浮かぶ広島県の島、大久野島に行って参りやした。

東京→岡山をのぞみ号、岡山→三原をこだま号と乗り継ぎ、三原→忠海までをJR呉線で約20分。
そして、忠海駅から徒歩で5分のところにあるフェリー乗り場から大久野島行きフェリーに乗ること15分で、大久野島に上陸することが出来る。ふぅ・・

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↑JR呉線の車両。
三島~忠海の間は瀬戸内海に面して走るので、車窓の景色が素晴らしい!

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↑JR忠海駅。

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↑大久野島休暇村の周囲。
海外のリゾート地みたい・・。

あ、大久野島は周囲4.3キロの小さな島。
体力自慢のカメなら余裕で走れる距離。

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↑休暇村の建物。
この写真、イーグルス「ホテル・カリフォルニア」ジャケっぽくね?

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↑大久野島には約300羽のうさぎが住んでいる。

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↑海水浴場にあるうさぎの耳。
これで聴くと海の音がよぉ~く聴こえるらしい・・・らしい、ってのは軍事遺産巡りに夢中で、これに耳を当てる余裕もなかった。

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↑大久野島名物・蛸うどん。
美味かったっす。
この辺は蛸漁が盛んで、蛸!蛸!蛸!

この風光明媚な島が、かつては「毒ガス島」と呼ばれ、毒ガス兵器製造隠蔽のために地図から消されていたのだ・・。
それを現在に物語る軍事遺産の数々を、次の記事にレポートするで~。


ビッコの子

2009年07月31日 | 大久野島の軍事遺産

ビッコってのは多分放送禁止用語だと思うけど・・。

大久野島はうさぎの楽園。

沢山のうさぎ達は、観光客相手に餌をおねだり。
その可愛らしい仕草に頬をゆるめながら、観光客達は家から持って来た野菜クズや休暇村のフロントで売られているうさぎ用餌をあげる。

でも、群れの中には弱い子や病気を持った子(特に多いのが眼病)ドンくさい子などが必ず居るもので、カメと下子カメは、そんな中々餌にありつけない子達を選ぶようにして餌をあげていた。

そんな中でも特に気を惹かれたのが、多分車に轢かれたのだろう・・・後ろ片足がまるで潰れてしまったビッコの子。

餌を手に持つ観光客を見るや一斉に駆け寄るうさぎ達。
でも、この子はまるで動かない片足のために何時も遅れを取ってしまうんだよね。

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何時の間にやら下子カメはビッコの子のねぐらを探し当てていて、島を去る日、そのねぐらに沢山のキャベツを置いて来たと言っていた。

ビッコの子、負けずに生きるんだよ!